其の1 其の1-2   其の2
 01:京都~天満  01:八幡~天満  02:天満~浅香山  03:浅香山~久米田  04:久米田~和泉鳥取  05:和泉鳥取布施屋
 06:布施屋~海南  07:海南~紀伊宮原   8: 紀伊宮原~湯浅  09:湯浅~御坊   10:御坊~印南  11:印南~芳養 
 12:芳養~稲葉根  13:稲葉根~滝尻  14:滝尻~継桜  15:継桜~熊野本宮  16:大門坂  17:かけぬけ道
 18:大雲取越え  19:小雲取越え  20:那智~那智山  21:速玉大社~那智  22:長尾坂・潮見峠  23:赤木越え
 24:大日越え  25:川の参詣道     姫のリベンジ     ウッチーの補行     那智勝浦散策  感想 & 編集後記
「天高く馬肥ゆる秋」と申します。昼間はまだ暑さを感じますが朝夕は肌寒い10月初旬。熊野古道繋がりで枚方から八軒家に向けて船下りができると言う情報を耳にしました。本来ならば京の都から八軒家までを高貴なお方が乗ったらしいのですが現在は京都からの運航はない様です。(将来は運航予定あり)追加、追加で歩いてきましたが、ほぼこれで熊野古道中辺路編に幕を下ろすことができました。
京阪電車八幡市駅午前9時30分集合、熊野古道メンバーと今回はポッチーが飛び入り参加です。駅前から「石清水八幡はここから」と垂れ幕もあり、その反対側にはケーブル乗り場が見えています。靖ちゃんが下見をしてくれ、ゆっくり歩いて30分ぐらいで本殿に到着出来る事、「裏参道」は急な登り坂があるものの表参道はなだらかな道が続くと説明がありました。12時30分には枚方市駅までいかなければ乗船できないためケーブルは帰りに乗ることにしました。
       
石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)は国宝です。男山の中腹に涌き出ている泉“石清水”に因んだもので、明治初年に“男山八幡宮”と改称されたが“石清水”の社号がふさわしいということで“石清水八幡宮”と改称したといいます。ここは、熊野詣での際にも重要な位置を占め、熊野御幸の際によく立ち寄っています。藤原定家も、その日記に書き記しており、
10月5日に、鳥羽伏見を出て、石清水に立ち寄り、その日のうちに天王寺まで行き宿泊しています。かなりのスピードで歩いたことになります。この日記の熊野詣では、22日で往復しておりかなり強行軍である。このとき、藤原定家は、和歌山の日前宮に立ち寄っており
庶民も熊野詣での際にはここにお参りし、淀川ルートを行くなら大山崎から船に乗り、東高野街道をとるなら、そのまま南に歩いたのであろうと思われます。
歩き始めるとすぐに饅頭屋を見つけました。石清水名物の走井餅だというので買って、一の鳥居をくぐる前にみんなで頬張り出発しました。
走井餅は江戸時代中期の明和元年(1764年)に大津で創業、湧水「走井」を用いて、初代井口市郎右衛門正勝が餡餅を作ったことに始まります。走井は、成務天皇の産湯に用い賜れるほどの名高い水でありました。刀の荒身を模した独特の形は、平安時代に名を馳せた刀鍛冶・三條小鍛冶宗近が走井で名剣を鍛えたという故事にちなみ、剣難を逃れ、開運出世の縁起を担いだものと伝えられています。                 
▲石清水八幡宮 一の鳥居 ▲参詣道へと入っていきます
安居橋が架けられた時期は定かではないが、江戸時代初期には架けられていたと考えられ、古絵図には平橋で描かれているという。
 江戸時代の放生川には、川上から「五位橋」「安居橋」「六位橋」「高橋」が架けられていた。
 安居橋は五位橋の後に架けられたため「相五位橋」(あいごいばし)と呼ばれていたが、それが訛って「安居橋」と呼ばれるようになったといわれている。
 1868年(慶応4年)の鳥羽伏見の戦いで焼失した後、川下にあった「高橋」(反橋)を偲ばせる形で再興された。
▲安居橋(あんごばし)は、男山の麓を流れる放生川に架けられている反橋(太鼓橋)。
▲景清塚 ▲豊蔵坊跡碑
▲三ノ鳥居 ▲参道
 ▲一ツ石「勝負石」とも呼ばれる勝運の石。   ▲南総門とカヤの木
▲手水舎 ▲楠木正成公の楠
 建武元年(1334)に楠木正成公が必勝祈願参拝の際に奉納したと伝わる樹齢700年にせまるご神木。京都府指定天然記念物。 
 ▲石清水八幡宮 本社社殿
平成27年10月16日の文化審議会において、古代に成立した荘厳な社殿形式を保持しつつ、近世的な装飾を兼備した完成度の高い神社建築として、高い価値を有していることが、評価され国宝へと認定されました。現在の社殿は徳川三代将軍家光の造替によるもので、日本三大八幡宮の一社であり、伊勢神宮に次ぐ国家第二の宗廟。現存する八幡造の本殿の中で最古かつ最大規模です。
 ▲男山山上展望所
 一の鳥居をくぐり、二の鳥居をくぐり高度をゆっくりとあげて行きます。途中には徒然草に登場する高良神社やご神木のタブの木などを見ながら歩きました。霊泉となる石清水の湧き出る場所があったはずなのですが残念ながら見落としました。わずかな時間で石清水八幡宮に到着しました。境内は平日にも関わらず大勢の参拝客で賑わっていました。お参りを済ませ展望台に向かいました。遠くに比叡山や愛宕山の見える場所で早目の昼食を済ませることにしました。
 ▲男山山上展望所から桂川・宇治川・木津川の三川背割堤および京都市内方向の展望
▲エジソン記念碑
このエジソンと日本、そして男山との深い縁を踏まえ、昭和9(1934)年に石清水八幡宮境内の隣に「エジソン記念碑」が建立されました。そして昭和33(1958)年には、エジソン彰徳会により、エジソン白熱電球の実用化成功に最も大きな役割を果たした竹に縁の地である当宮境内に記念碑が移転され、さらに記念碑建立50年に当たる昭和59(1984)年10月18日には、デザインを一新し建て替えられて現在に至ります。 エジソンの令嬢スローン夫人は昭和39年に当宮を訪れ、「これほど立派な記念碑はアメリカでも見たことがない」と感激されました。当宮では、世界の発明王の遺徳を偲び、毎年エジソンの誕生日である2月11日にエジソン生誕祭、命日である10月18日にエジソン碑前祭を斎行し、記念碑前に日米両国の国歌を奉奏し、国旗を掲揚しています。
特にエジソン碑前祭では、エジソン彰徳会や電力会社関係者参列のもと、カーネーションの花輪を碑前にお供えしています。   
▼下りは時間の都合上ケーブルで下ります
帰りはケーブルを利用します。鋼索線(こうさくせん)は、京都府八幡市の八幡市駅から男山山上駅までを結ぶ京阪電気鉄道のケーブルカー。男山ケーブルと呼ばれています。男山の山上にある石清水八幡宮への足。短距離ながらトンネルが2箇所あり途中に全長108.7 mの男山橋梁(トレッスル橋])があり、車両の行き違いはこの橋梁とトンネルに跨がる区間で行われています。(動画でその様子をご覧いただけます) 
ケーブルで麓に戻り八幡市駅から京阪本線を利用して枚方公園駅へ向かいます。
▼午後からは枚方公園駅近くの枚方宿に移動します…三十石船とくらわんか舟
▼京阪本線枚方公園駅付近
乗船集合は枚方宿の鍵屋となっているため鍵屋で学芸員による説明を聞きながら参勤交代の様子などを想像しました。 
江戸時代の枚方は、東海道の延長部「京街道」の宿場町でした。また、伏見と大坂を結ぶ淀川舟運の中継港でもありました。旧枚方宿の町並みは、平成7年(1995)に枚方市の歴史街道モデル事業地域に指定されており、「市立枚方宿鍵屋資料館」は町並みのメインスポットとして平成13年(2001)7月に開館しました。水陸交通の要衝地として栄えた「枚方宿」の歴史を紹介する唯一の展示施設となっています。資料館は、平成9年(1997)まで料理旅館であった「鍵屋」の建物を利用しています。京街道に面していた「鍵屋」は、江戸時代には宿屋を営み、また、幕末頃になると淀川 三十石船の「船待ち宿」としても京都と大坂を往来した旅人の饗応の場として繁盛しました。
鍵屋から堤防に上がり船着き場にいくと小舟が一艘浮かんでいました。これから八軒家まで下る過書船です。過書船とは過所 (過書) を所持する船のこと。江戸時代に徳川家康が過書船の制度を定めたため,大坂-伏見間の淀川を往復する船を称した )は、大坂天満橋の八軒家船着場から京都の南、伏見豊後橋まで、淀川(10里13町27間)を、昼夜兼行で往来したが、荷物は200石ないし300石積で、旅船は30石が普通であったから三十石船ともいう乗り合い船であった。途中の船着き場には岡場所が多く下船者が多いため、「途中下船は切符無効」の賃銀制度が設けられ、とくに枚方宿は一番の盛り場であったそうです。枚方で停船しようとする三十石船に鍵爪をかけて近づき、飯や汁物、酒などの飲食物を販売していた小舟が「くらわんか舟」と呼ばれていました。
「くらわんか」とは、この地方の方言で「喰わないのか」「喰うことも出来ないくらいの銭も持っていないのか」と乱暴に言った言葉です。現在の河内弁では「食べへんのか」、「食わんのけ」に相当。夜と昼とを問わず三十石船に近づき、乗客達に「くらわんか」と声を掛け販売していたことから「くらわんか舟」という名がついたのです。様々な紀行文学に描かれ、東海道中膝栗毛にも「飯食はんかい。酒飲まんかい。サアサア、みな起きくされ。よう臥さる奴らぢゃな」などとがなり立てられた弥次が「イヤ、こいつらア、云はせておきゃア、途方もねえ奴らだ。横面張り飛ばすぞ」と立腹する場面があります。
毛馬の閘門の中に入っていくと前方の扉は閉まっています。この時点では水位は新淀川と同じです。次に後方の扉が閉まると水位が下がっていき、大川と同じ水位の高さになります。前方の水門が上がると船は大川へと入っていきます。
枚方を出発し、約2時間の船旅を楽しみました。沿岸には阪神淡路大震災時に陸路が封鎖された時に使ったと言う船着き場がありその当時活躍したであろう光景が目に浮かびました。あまりののどかさに船に揺られて舟を漕いでいましたが毛馬閘門に差し掛かった時「寝てては勿体ない」と飛び起きて閘門の様子をしっかりと見ました。私達の舟が閘門前に近づくと閘門の中の水の高さを合わせ入口の扉が開き私達の乗った船が中に入りました。入口の扉が閉まり閘門内の水と出口の水の高さを合わせます。時間にして15分ぐらいでした。閘門の出口が開き船が出て行くことができました。いつもは扉の閉まった閘門ばかり見ていましたので感動しました。船の中は説明役のおじいさんも乗っており、歌い手のおばさん2人が合間に「三十石船小唄」を歌ってくれ、なかなか楽しい時間を持つことができました。
多くの橋の下をくぐり八軒家船着場に到着です。
乗船客を下すと船は繋留場へと帰っていきました。▲  
▲天満八軒家船着場で船下りでお世話になった唄い手さんとガイドさんと一緒に
▲八軒家浜船着場跡碑 昆布処 永田屋さんの前で 
思い起こせば寒い1月にこの地をスタートしたのです。みんなで記念撮影をし、出発地点の碑のある永田屋昆布店に立ち寄り、その後反省会をして解散となりました。次なるは大辺路か?
淀川三十石船舟唄  「ここは枚方 かぎやの裏よ 綱も掟も手につかぬ 鍵屋裏には掟は要らぬ 三味や太鼓で船止める」・・・おまんじゅうの袋に書いていました
 (姫の感想)
寒くもなく、暑くもなく、降りもせずで、快適な船旅でした。毛馬閘門の中を通過でき貴重な体験ができました。4500円の乗船代には鍵屋の入場料と船内のお饅頭とお茶付きで決して高くないと思っています。川から陸を眺めるのも、なかなか良いものです。八軒家で下船し熊野古道のスタート地点でもある「永田屋昆布店」で記念に昆布を購入しました。山登りも勿論素敵ですが、たまにのんびりと船に揺られるのも心が癒されました。
 文:美智子姫  
 
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