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和歌山県「29. 川端王子―30. 和佐王子―31. 平緒王子―32. 奈久知王子―33. 松坂王子
―34. 松代王子―35. 菩提房王子 |
布施屋駅09:20⇒ 川端王子09:25⇒ 旧中筋家10:00⇒和佐王子10:12⇒平緒王子11:33⇒伊太祁神社(いたきそじんじゃ)11:58-12:30(昼食)⇒奈久知王子13:00⇒ 松坂王子14:00⇒ 松代王子14:42⇒春日大社15:04-15:11⇒菩提房王子15:29⇒海南駅ゴール15:55 |
布施屋駅着9時14分着の電車で全員集合です。今回のコースは17.3kmと歩行距離は短いものの往復の電車移動の時間が多くかかるようになりました。朝の挨拶を済ませ元気よく出発です。 |
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今回はJR和歌山駅で阪和線から和歌山線に乗り換えて布施屋駅から出発です |
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前回の吐前王子跡から少し行くと見覚えのある「布施屋自治会館」を右に曲がり進んでいきました。熊野古道の標識もしっかりとあります。出発からわずか5分で29番目「川端王子」跡のお出ましです。立派な祠がたっていました。和歌山県に入り熊野古道の標識も立派になり迷い道はなくなりました。和歌山県観光協会発行のパンフレツトとGoogleで調べ上げた行程表に沿いながら前進します。
川端王子に別れを告げ歩いて行くと、住宅地を抜け田んぼ風景が目に入ってきました。住宅地を歩いていても、案内板もあり、ほぼ真っすぐな道をたどれば間違いなさそうです。至誠小学校跡の標識((1879年開校)を見ながら小さな流れに沿って歩いていくと地面に古道のパネルが現れました。「あったっ!あったよっ!」と喜び、写真に収めました。古い大きな民家も多くりっぱな案内板も設置されていました。 |
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少し進むと塗り壁の立派な塀があり「中筋家住宅」とありました。百円で中も見られるみたいでウッチー会長が「たのもう!たのもう!」と声をあげましたが休館の様でした。旧中筋家住宅は、江戸時代後期の和佐組大庄屋にふさわしい屋敷構えを残し、紀ノ川流域随一の大規模民家です。座敷は大庄屋の役所として使われたり、紀州藩からの使者や来客をもてなす部屋として使われていたそうです。(国の重要文化財) |
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熊野古道の歴史もこの園児たちがさらに次の時代へと繋いでくれることでしょう。私達を見つけて「おはようございます!」と大きな声であいさつをしてくれました。 |
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広い車道に出て階段を上ると広場の中に30番目「和佐王子」跡がありました。ここで衣類調整と休憩を取りました。広場には石を積み重ねた石碑があり王子跡と紀州公が認定した碑らしいです。 |
▼ 和佐大八郎範遠の墓 |
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1663-1713 江戸時代前期-中期の弓術家。
寛文3年生まれ。紀伊(きい)和歌山藩士和佐実延の子。吉見台右衛門に竹林派弓術をまなぶ。貞享(じょうきょう)3年京都三十三間堂での通し矢で8133本を射とおし,尾張(おわり)名古屋藩士星野勘左衛門の記録を更新した。正徳(しょうとく)3年3月24日死去。51歳。名は範遠(のりとお)。 |
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矢田峠の登り口 |
役行者の祠 |
矢田峠へ向けて |
多少荒れているのもご愛敬 |
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▲ 矢田峠のお地蔵さまと徳本上人名号碑 |
徳本上人は厳しい修行を行いながら南無阿弥陀仏を唱えて日本全国を行脚し、庶民の苦難を救った江戸時代の念仏行者で、上人の書かれた「徳本文字」、想像を絶する「荒修行」が特に有名です。信者は近畿、東海、北陸、信州、関東地方にも及び現在でも「徳本講」は引き継がれ、清貧の生き方は今なお人々に影響を与えています。
徳本上人の書かれた「南無阿弥陀仏」の文字は丸みをおび、終筆がはねあがり、縁起が良いといわれ、徳本文字と呼ばれています。 |
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▲ 矢田峠の切り通し…ここの右上に名号碑があります |
この先は矢田峠に向かってひたすら登って行きます。ストックを出そうかな。(せっかく持参してるのでストック使用)峠を登ると展望もあり眺めがとても綺麗です。
和歌山らしくミカン畑が広がる道を歩き眺めは最高です。待ち望んでいた景色との出合いに疲れも吹っ飛びました。 |
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▲ 猪罠にお母さん猪とウリ坊が二頭掛かっていました 生後間もないウリ坊を見るのはとても辛かったです |
古道の看板もあり迷うことはありません。役行者の祠も見つけました。歩いていると何か山の中でガサゴソと音がします。こわごわと音のする方に行って見るとウリ坊2匹と母親のイノシシが仕掛けの檻に囚われの身となっていました。最初は飼われているのかと勘違いし「可愛いっ!」と記念撮影したりしましたが後になると「可愛そう・・・出してあげたいね」と思うようになりました。きっとウリ坊が仕掛けに入り込み、母親が助けに行き入口が遮断されたものと思います。母性愛の深さをまじまじと感じました。 |
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▲ 矢田峠から一気に駈け下り 明王寺の集落を目指します |
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みかん畑の斜面を下り集落の中を行くと、31番「平緒王子」跡がありました。平緒王子からは田んぼの間の細い道を歩いて行きました。南海線の踏切を渡ると六地蔵あり。しばらく歩き畑の細い道を上ると32番「奈久知王子」跡がありました。 |
▼ 伊太祁曾神社 |
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姫は『子』 ウッチー会長は『申』 やっちゃんは『戌』 JUNKOちゃんは『午』 JONは『酉』だあ |
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▲ 落雷に遭った御神木で制作した チェンソーアート 『十二支』 |
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▲ 厄難除け木の俣くぐり |
伊太祁曽神社の御祭神である五十猛命(いたけるのみこと)は『日本書紀』に木の神・植樹神として記されていますが、『古事記』では因幡の素兎(いなばのしろうさぎ)の続きの部分で大屋毘古神(おおやびこのかみ)の神名で登場し、いのち神として記されています。 |
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六地蔵 |
野仏 |
▼ 奈久智王子跡碑 |
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▼武内宿祢神社と生誕井戸 |
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県道に戻って、高速道路をくぐり竹内神社に到着しました。竹内宿禰(たけしうちのすくね)を祀る神社です。『景行3年の春2月1日に景行天皇は紀伊の国に出かけて、もろもろの神祇を祭祀しようとして占いましたが、吉ではありませんでした。そこで行幸は中止になり、代わりに、ヤヌシ・オシオ・タケオ・ココロの命を遣わして祭祀させました。ヤヌシオシオタケオココロの命が詣でて、阿備(あび)の柏原で、神祇を祭祀しました。そこに9年間住み、その時、紀の直(あたい)の遠祖ウヂヒコの娘の影姫を娶って、武内宿禰が生まれました』(日本書紀) |
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幼いころ武内宿祢の紙幣が有ったことを思い出しました それで何が買えたかは覚えていませんが 懐かしい紙幣です |
武内宿禰(たけしうちのすくね。たけうちのすくね。たけのうちのすくね) 景行天皇14年 - 没年不詳)は、記紀に伝わる古代日本の人物。『日本書紀』では「武内宿禰」、『古事記』では「建内宿禰」、他文献では「建内足尼」とも表記される。「宿禰」は尊称で、名称は「勇猛な、内廷の宿禰」の意とされる。
景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5代(第12代から第16代)の各天皇に仕えたという伝説上の忠臣である。
紀氏・巨勢氏・平群氏・葛城氏・蘇我氏など中央有力豪族の祖ともされる。 |
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▲ 所々で出会う鳥たち 旅の疲れを忘れさせてくれます |
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▲ 四ツ石のお地蔵さまと街道筋の旧家 |
熊野古道に戻って高速道路に沿って歩いていると池が見えてきました。ここから和歌山市を抜けて南海市に入ったことになります。熊野古道の四ツ石地蔵のお堂があり、大きな石が左右に二つ。この石は三上院千光寺の礎石だそうです。 |
▼ 松阪王子跡碑 |
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次なる目標物は33番「松坂王子」跡。青い説明板は無く、木の札がたっていました。ここから汐見峠への登りのはじまりです。松坂王子からは汐見峠への道は車道歩きとなります。汐見峠を登りきったら大きな池がありました。ふと横に目をやると熊野古道の石畳が残っていました。石畳で記念撮影を済ませ池に沿って歩きました。この池は神武天皇が土蜘蛛を退治したという蜘蛛池。池畔には徳本上人の名号碑がたっていました。『土蜘蛛・・・神武天皇軍が先住民の首長の名草戸畔(なぐさとべ・土地の豪族の土蜘蛛)の軍勢と戦い討ち取ったという。土蜘蛛とは天皇に恭順をしめさなかった土豪の蔑称で、中央に従わない先住民たちを鬼とか化け物と呼んでいたそうです』 |
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▲ 熊野街道の石畳み道 |
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▲ 汐見峠のお地蔵様 別名 呼び上げ地蔵様と呼ばれて親しまれています |
峠の途中に「呼び上げ地蔵」がありました。1855年に紀州路を襲った大地震・大津波で逃げ場を失った人々が汐見峠のお地蔵様の不思議な力により呼び上げられて救われたと伝えられています。それ以来、このお地蔵様を「呼び上げ地蔵」と言われて信仰を集めてきたと言う伝説があります。村人たちの手で綺麗に祀られ真新しい花が手向けられていました。 |
▼ 松代王子跡碑 と春日神社 |
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▲ 松代王子入口 |
▲ 松代王子跡 |
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▲ 春日神社 |
▲ 春日神社拝殿 |
しばらく歩くと林におおわれた丘があり春日神社です。「松代王子跡はこちら」と看板がありましたが正面から入ろうと回り道をしたのですがこれが迷路のはじまりでした。
34番「松代王子」跡はすぐに発見できたのですが肝心の春日神社に行き着きません。城跡や戦没者の碑のある広場には出たのですがどうしたことか・・あと下を見下ろすと赤い鳥居が見えて「あっちみたいやね」と長くてきつい階段を下り軌道修正しました。境内に入ると、正面にりっぱな拝殿がありました。 |
▼ 菩提房王子跡碑 今回最後の王子です |
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春日神社の坂道を引き返し歩いて行くと、今回最後の王子は菩提房王子です。白壁の塀が目に飛び込んできました。蓮花寺です。 蓮花寺は、鎌倉時代に、明恵上人(有田郡金屋で生まれた高僧)が50歳の頃、開基した霊場で、実に780有余年に及ぶ古刹だそうです。 |
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▲ 海南の街道筋のお宅には熊野街道の標が掛けられていました |
この少し先の交差点付近にひっそりと35番目「菩提房王子」跡がありました。更に進むと高い石垣の如来寺に到着です。如来寺の入り口に熊野古道の導標があり「ここから祓戸王子へは70m先左折」と書いてありました。(祓戸王子は次回)このあたりの民家の軒には「熊野古道」と書かれた看板が下げられていて町をあげて熊野古道を応援している様子がよくわかり熊野古道を歩く我々にとっては応援団のようなもので嬉しくなりました。一之鳥居址という石柱を見つけました。この鳥居が熊野神域の入り口。次回のお楽しみと言ったところです。「海南駅⇒」の看板が近づくと姫の足が急速になってきます。ジョンに「姫はゴール近くになると引っ張ってくれるなぁ」と言われました。海南駅が見えてきました。時計を見ると4時に10分前です。「よっしゃあ~4時前にはゴールしよう」と小走り~
海南駅到着は3時55分!快調に、楽しくゴールできました。 |
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▲15時55分海南駅に到着です … ばんざーい |
予定をしていた16時22分発和歌山行に乗ることができました。和歌山発16時36分の紀州快速を見送り(空いた座席が無~い)その次の電車でみんな座席確保し次回の予定の打ち合わせ会議をしながら天王寺、西九条、大阪駅とそれぞれ家路に向かって解散となりました。次回はJR海南駅からスタートしてJR紀伊宮原駅をゴールと予定しています。 |
姫からの伝言 |
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(※交通費 往路は(JR天王寺駅から布施屋駅まで1140円)
復路は(JR海南駅から天王寺駅まで1320円 |
ローカル線で『ICOCA』の使用にはご用心
JUNKOちゃんは宝塚から布施屋まで『ICOCA』で乗車しました。前回の帰りに布施屋駅は無人駅で『ICOCA』の自動改札が無いことは解っていたのですが バスと同じように電車はワンマンカーだから 中にもあるだろうと思っていました ところがJR和歌山線で布施屋で下車する時、電車の車両に『ICOCA』の自動改札が無いことを知りました。 |
運転手さんは「証明を書きますので次に乗車される海南駅で駅員さんに言ってください」とのことで 右の証明を発行してくださいました。歩行終了後 海南駅で申し出をしましたが「路線が違います」ということで 『ICOCA』での入場を取り消し 宝塚から布施屋までを現金で払うことで清算をしました。金銭的には何ら損得はないのですが…ね |
ひめの感想 |
だんだん交通費が高くなってきました。日帰りするより宿泊もいいかなと思い始めています。メンバーと相談しながら無理のない行程で楽しみたいと思っています。4月はイタドリの季節です。その時期と被らぬ様に日程調整をして欲しいです。とりあえず青春18切符を購入し利用しようと言うことになりました。今回は当初から反省会は無しと言うことでしたので案外早く自宅に帰ることができました。次回の藤白神社のサクラ(3月下旬)や、みかんの花は(5月頃)シーズンオフの訪れとなりますが、それなりに楽しんで歩きたいと思っています。沿道の無人販売所「みかん100円」に心を奪われますが何せ重たいし・・・で諦めつつ通過しています。 |
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