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 01:京都~天満  01-2:八幡~天満  02:天満~浅香山  03:浅香山~久米田  04:久米田~和泉鳥取  05:和泉鳥取布施屋
 06:布施屋~海南  07:海南~紀伊宮原   8: 紀伊宮原~湯浅  09:湯浅~御坊   10:御坊~印南  11:印南~芳養 
 12:芳養~稲葉根  13:稲葉根~滝尻  14:滝尻~継桜  15:継桜~熊野本宮  16:大門坂  17:かけぬけ道
 18:大雲取越え  19:小雲取越え  20:那智~那智山  21:速玉大社~那智  22:長尾坂・潮見峠  23:赤木越え
 24:大日越え  25:川の参詣道     姫のリベンジ     ウッチーの補行     那智勝浦散策  感想 & 編集後記
「阪南市 22. 地蔵堂王子―23. 馬目王子―」「和歌山県 24. 中山王子―25. 山口王子
―26. 川辺王子―27. 中村王子―28. 吐前(吐崎)王子」
和泉鳥取駅09:10⇒琵琶ケ岸懸09:25⇒地蔵堂王子09:28⇒馬目王子09:43⇒山中神社10:03⇒JR山中渓駅10:13⇒関所跡10:17⇒日本最後の仇討ち跡10:41⇒中山王子10:53⇒.山口王子12:30-12:50(昼食)⇒川辺王子13:32⇒中村王子13:55⇒力侍神社14:04⇒川辺の渡し跡14:45⇒吐前王子15:40⇒布施屋駅ゴール16:05
前回ゴールとなった和泉鳥取駅が今回の集合場所となり、電車1本の差はあるものの、ほぼ同時刻に全員集合することができました。駅前には庚申さんのまつりを控え、村人たちは忙しく開催を知らせる幟旗を立てていました。今回から街中を離れ、いよいよ熊野古道らしいコースになるであろうと想定し、「弁当持参、山装備」の伝達をして危険個所通過の装備も携行しております。午前9時10分、ウッチー会長を先頭に元気よく出発し、ガードをくぐり、波多神社遥拝鳥居と長岡王子跡碑を再び挨拶に訪れました。
 ▼琵琶ノ岸懸…熊野古道・紀伊路 最難所と言われ当時旅人に恐れられていたところです
小さな「熊野古道」の木製看板を見ながら、車止めのある森の中の「琵琶ノ岸懸越えコース」を行くことにしました。資料によると琵琶越えは危険コースのため通行止めとも書かれていましたが、フィックスロープも張ってあり、自己責任と言うことで、無理ならば引き返す事も想定内として進みました。「びわがけまで50m、地蔵堂王子150m」と標識に書いてありました。琵琶ケ岸懸伝説は『昔、琵琶法師が熊野古道を思い立ち琵琶を背に、この谷まで来た時、突風に思わず杖を取られてしまって真っ逆さまに山中川に転落してしまった。法師の亡骸は川底に横たわり愛用の琵琶が途中の崖の木に引っかかっていたという。その後、谷底を流れる水音が「コロン、コロン」と琵琶を奏でるように聞こえるので人々はこの谷を「琵琶ケ岸懸」と呼ぶようになった』と伝えられています。熊野古道の山中川沿いに進むこの道は、きわめて危険で熊野参詣の難所のひとつとも言われていました。今もわずかに一人が通れるくらいの道幅で下は断崖絶壁であり廃道となっています。わずか300mの距離ではありますが、昔、高貴なお方を駕籠に乗せての通過はさぞかし難所であったろうと想像することができました。
 ▼地蔵堂王子
森を抜けると、その先には22番目「地蔵堂王子」がありました。ここから峠に向かって車道をゆっくりと登って行きます。いよいよ熊野古道らしくなってきました。高速道路の高架に沿うように行くと、馬目王子まで300mと書いてある道標がありました。道の左側の電柱の下に石碑があり、これが23番目「馬目王子」跡でした。
大阪府最後の王子です。
▼馬目王子
ここから少し行くと「田中武八君碑」の大きな石碑がありました。この方は村長さんだったらしい説明がありました。きっと村のために貢献されたのでしょう。それは、それは大きくて立派な石碑でした。
 ▼山中渓の街道筋へと入っていきます
車道を横断して熊野古道の看板方向へ入りました。家並みが近づき石畳の整備された道で、「紀州街道」の石標がありました。紀州街道の看板をバックにみんなで記念撮影です。石畳を上って行くと、昔の立派な宿場の雰囲気が残っていて熊野古道のイメージが膨らみました。山中神社には馬目王子が合祀されているらしいので立ち寄ることにしました。
▲山中渓の子安地蔵尊
▲街道筋の旧家
▲山中神社…ここにも馬目王子の祠が祀られていました 似てる…牙までそっくり
▲宿場町は見どころが多くてなかなか前へ進みません…陽が落ちるぞおおおお
▲山中宿の南側宿場入口です
JR山中渓駅 山中関所跡
山中の宿場町をでると境谷に架かる境橋を目指します
 石畳道を歩いて行くとまもなく、JR山中渓駅到着です。小さな駅ですが趣があり昔は栄えていたであろう優雅でゆとりがある、そんな風に見えました。車の通りもひっきりなしで人を見つけても速度を緩めることなく恐ろしい思いをしながら歩いていると関所跡に到着。山と川に挟まれた関所場所で、取り立て漏れの無い絶好の地であったと記されていました。このあとは府道歩きを続けます。しばらく歩いていると大阪府と和歌山県との境界の標識がありました。
「入ったどぉ!待望の和歌山っ!」思わずそう叫びました。
▼日本最後の仇討の場
ここは境橋です…紀伊と和泉の国境です 入るどお和歌山 大阪と和歌山の県境を越えます
 小さな境橋のたもとが「日本で最後の仇討ちの場」。1857年、土佐藩士・廣井大六は棚橋三郎との口論の末、切られ川に投げ込まれて命を落としました。三郎は藩を追放され、大六の一人息子・岩之助は、父の仇を討つため三郎を探す旅に出ました。既に仇討ち禁止令が出されていたのですが岩之助の並々ならぬ決意におされ1858年、勝海舟の取り計らいによって「仇討ち免許状」が交付されたそうです。その後、三郎が加太に潜んでいることを知った岩之助は、紀州藩に仇討ちを願い出ました。それをうけた奉行所が「三郎を国払いとし境橋より追放するので和泉側にて討つべし」としたため、和歌山と和泉の国境である紀州街道の境橋の北側で、岩之助は見事父の仇を討ったのだそうです。1863年江戸から明治へと移る5年前の話で境橋は日本で許された最後の仇討ちの場所となったのです。
 ▼中山王子跡
滝畑の集落を行きます
 和歌山県に入ると道標も立派になり世界遺産を意識している様に見受けられました。王子の看板も色と大きさが統一されており見失うことはありませんでした。観光協会から取り寄せた和歌山県発行の地図も立派です。JRの踏切を渡ったら24番目の「中山王子」跡がありました。ここで衣類調整、行動食と水分補給で、しばし休憩をとりました。
中山王子を出ると滝畑の集落となります。あとは峠に向かってひたすら登ります。下りになると不動明王のお堂があり雄ノ山峠でした。峠を行く旅人の安全を見守ってくれたという不動明王様に手を合わせ次に進みます。(長くて曲がりくねった峠を下るのですが、これが登りだと大変だね)
どんどん歩いていると25番目「山口王子」跡がありました。横には万葉集の歌碑がたっていました。
▲ 雄ノ山峠を紀伊に向けて下って行きます 和泉側は緩やかなのに 紀伊側はきつい
▲峠の不動明 ▲幸福地蔵 ▲峠の地蔵尊
幾百年もの長きにわたり峠を越える多くの旅人の安全を祈り佇んでいたことでしょう これからも ずぅーと見守ってくださることでしょう 
▲今や雄ノ山峠も高速道路で一っ跳びです…紀伊の街並み遠望
 ▼山口王子跡碑
今回の旅で初めて押印がありました…この中には新品の押印帳が残されていました…でも一冊だけでした
どんどん歩いていると25番目「山口王子」跡がありました。横には万葉集の歌碑がたっていました。
 ▼山口神社…山口王子が合祀されています
山口神社の境内に入り驚いたことに熊野本宮と同じ社殿作りになっているではありませんか。お詣りの方法も示してありましたが、まったく熊野本宮と一緒でした。正午を過ぎていましたので境内の隅を利用させてもらい昼食を済ませました。トイレも使わせて貰いました。おまけに帰り際には「ご自由にどうぞ」とお餅と鰹節パックが三宝に乗っておりありがたく頂戴して帰りました。
山口神社を出て車道を歩くのですが「車に当たったらどうしよう!」と思わずにはいられないほどの歩道のない狭い道を歩き「川辺王子」の看板を見つけ命がけの横断をしました。親ガモ・ウッチー会長の後に続く子ガモの横断によく似た光景です。
 川辺王子
26番目「川辺王子」跡の石柱と石碑を見つけました。りっぱなお社です。
きちんと手入れがされ新しい花が手向けられており村人たちが大切に祀っている様子が伺えました。
▼中村王子社跡
中村王子へは地面に埋め込まれた標識をたどって田圃や民家を行き交いながら力侍神社に到着です。力侍神社は「天手力男命(あめのたぢからおのみこと)」が祀られています。「天手力男命」は、高天原で天照大神が岩戸に隠れたとき、扉の岩を怪力をもって開けた神様のこと。この神社では川辺王子と中村王子が合祀されているそうです神社から引き返えし100mぐらいの田圃の畔のようなところに27番目「中村王子」跡の案内板がありました。石碑などはなく案内板だけではありますが「有った」ことには間違いなしと満足し、みんなで記念撮影を済ませました。 
▼力侍神社 (りきしじんじゃ)
▼川辺の渡し跡
 「川辺の渡し」  路傍にあったお地蔵様を集めて丁寧にお祀りされていました
「川辺の渡し」めがけてまっしぐらです。しかしここで少し道迷いをしてしまいましたが「ええいっ!堤防めがけて行けばあるだろう!」と説明書無視して堤防めがけて歩きました。しかし「川辺の渡し」は堤防の下にあったのです。大昔には堤防は無かったのです。やっと見つけて記念撮影をしました。かつては京都からの船旅と同じように、熊野詣は紀ノ川を船で渡ったのです。
橋のたもとに野菜の集荷場の建物があり作業する人に声をかけました。何か野菜を洗っていました。「それ生姜ですか?」「いいえキクイモです」キクイモ・・・私は初めて聞く名前です。菊芋は「救世主」と言われ現代の難病である糖尿病を始めとした、高血圧、癌、肥満を改善し、その合併症を食い止める働きがあるそうです。炒め物や煮物、味噌漬け、漬物などいろいろな加工が出来るそうです。
紀ノ川に架かる川辺大橋
紀ノ川にかかる川辺大橋  和歌山県内で一番長い橋です。
 土手を上がり紀ノ川とのご対面であります。「おおっ~和歌山やっ!」またまた叫んでしまいました。長い距離の紀ノ川には川辺橋が架かっていて、橋の上から見下ろす紀ノ川は曲がりくねっていて美しかったです。この川が氾濫するのかと想像すると、この日見た穏やかな流れが美しくて神秘的でした。
川辺橋は、和歌山市布施屋と川辺を結ぶ紀ノ川に架かる橋です。県道64号線、和歌山貝塚線の路線です。
橋長:755.5m  車道全幅員:12mで 昭和61年に完成しています。
▼布施屋の渡し
紀の川を船で渡っていました 川の北側からは「川辺の渡し」 こちらからは「布施屋の渡し」と呼んだようです
 紀ノ川渡っていると向こう岸に大きな煙突が目に入りました。「あれは何だろうか?銭湯だろうか?」と話していると牛乳会社の煙突でした。紀ノ川を渡り終えたところに「布施屋の渡し」跡を発見。
牛乳会社の前を通ると「シュークリーム購入できます」のノボリバタを見つけ、喜び勇んで近づくも電気は消えていました。よくよく見ると販売時間が3時までとなっていました。「ああ~いま3時18分やからなぁ、ドア叩いても売ってくれへんわなぁ」と残念でたまりませんでした。牛乳会社の前を素通りです。シュークリームが購入できなかったことでドッと疲れが増しました。空き地を見つけてゴール前の最後の休憩を取りました。
紀の川の堤防から下り JR和歌山線の踏切を渡ります
▼吐前王子 
吐前王子 今回最後の王子です
吐前の集落の祀られるお地蔵さまや大福神に詣でながら 今回のゴールであるJR和歌山線の布施屋駅に到着です
休憩を終え、28番目の「吐前王子」を目指して歩きます。不思議と疲れはありません。きっと王子の宝探しに夢中になっていたからかも知れません。吐前王子の石碑を見つけました。昔の人は紀ノ川の水で心身を清め、その後に、吐前王子をお参りして熊野へむかったそうです。すべての王子を辿り、間もなく踏切が見えました。本日のゴール布施屋駅が見えてきました。午後4時05分布施屋駅ゴーーーールです。  
今回も無事に終わりました 反省点は二つ三つ まあ許せる範囲ですなあ だんだん山越えが増えてきます 頑張ってください
 姫からの伝言
16時23分発の和歌山駅行きに乗り、和歌山発16時39分発紀州路快速に間に合い天王寺17時53分思ったより早い時間に帰って来ることができました。
天王寺ステーションビルの「МIО」に吸い込まれるように入り反省会をしました。
次回の反省会は帰着時間が遅くなるため列車内で静かに・・・行う予定です。早ければ再び三度「МIО?」
次回はJR布施屋駅からスタートしてJR海南駅をゴールと予定しています。
(※交通費 往路は(JR天王寺駅から和泉鳥取まで710円) 復路は(JR布施屋から天王寺駅まで1140円
 ひめの感想
大阪と和歌山の国堺を越えました。「いよ・いよ」です。何が「いよ・いよ」か、わかりませんが思わず「いよ・いよだね」と言いたくなります。今回は見どころいっぱいで退屈する間もありませんでした。みんなで目標を探し、見つけて喜びを分かち合いました。熊野古道は山とは違う楽しみがあります。これからのコースが楽しみです。移動の費用も高くなってきたり日帰りが困難で宿泊もしなくてはならなくなってきました。この年になると自分のために「生きる楽しみ」を見つけたと思っています。日程の都合をつけ合いながらメンバー全員で本宮を目指したいと思っています。
文:美智子姫  
 
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