熊野古道・伊勢路 9 尾鷲~八鬼山越~三木里 2018.12.10
 
熊野古道・伊勢路 第3回目 JR紀勢本線・相賀駅~JR紀勢本線・二木島駅
●12月10日(月) 第2日目(晴)  尾鷲 民宿:柴山 ~ 八鬼山峠 ~ 三木里
尾鷲駅前~八鬼山登り口案内4.2km~九鬼峠7.5km~江戸道・明治道分岐8.2km江戸道・明治道分岐 二班に分かれる~2km進んで合流~長柄で√311に合流12.1km~JR紀勢本線・三木里駅13.8km   民宿 嬉志乃泊 
 宿出発07:45⇒土井子どもくらし館周辺散策⇒矢浜浄土宝篋塔09:08⇒尾鷲節歌碑09:30-10:15(古道センターへ)⇒八鬼山登山口10:55⇒伊勢内宮清順上人供養塔11:33⇒七曲り案内板11:54⇒九鬼峠13:15⇒峠頂上13:50-14:00明治道合流15:40⇒三木里登山口ゴール16:00⇒民宿17:00
民宿・柴山さんを出発 尾鷲の町
午前7時30分、民宿柴山を出発して土井子供くらし館を見物することにしました。この地方の財閥で、町全体が土井家の持ち物みたいです。洋館と蔵を活用した日本屈指の古玩具を展示し、林町本通では古き良き町並みが楽しめました。郷蔵は藩政時代の備蓄倉庫で、津波にも安全な高台に建っています。ここに入るには事前予約が必要だそうで、残念ながら建物の外だけ見物させて頂きました。
尾鷲の町 
土井本家屋敷 明治の洋館 
 土井本家屋敷の庭   郷倉
しぱらく歩くと袖片橋と矢ノ浜道に出ました。熊野街道の道標や石碑などが残る矢ノ浜道は、かつて多くの巡礼者が行交った道。その玄関口には、昔、湾を挟んでお互いの存在を知らず暮らしていた2人の若者が偶然にこの橋で出会って互いの存在を喜び合い、別れの際に2人が出会った証としてお互いの片袖を交換したという言い伝えが残る、それが袖片橋の名前の由来です。 
矢浜浄土宝篋塔 尾鷲節の歌碑
山見茶屋跡にある庚申祠に手を合わせて中川橋を渡り線路を渡りました。踏切の無い線路をまたいでローカル感満載です。袖片橋や道標を見ながら庚申祠を見て、「熊野古道・やのはま道」の道標を頼りに路地裏歩きをしました。石窯や井戸などがあり、しばらく歩くと矢浜浄土宝篋塔(やのはまじょうどほうきょういんとう)に到着です。

『南朝のある王子が、尾鷲市川原木屋奥の女王滝付近の城山に隠れ住んでいたとき、ある日訪ねてきた行者に髭をそらせた。実はこの行者は足利の刺客で、剃刀を逆手に持ちかえたところ、それが水鏡に映った。王子は傷を負ったものの難を逃れ、そのとき受けた傷を治した後は矢浜野田地に安住し、浄に入れられた(死没)という伝えが残っている。この宝篋印塔の主は、後醍醐天皇の第一皇子である護良親王から六代目となる西陣親王の第三皇子であり、御名を桂城(かつらぎ)宮綴連(つづれ)王重信(しげのぶ)という。当地では珍しい関東型式であるが、王が23年間も茨城に住んでおられたことを考えると理解される。この印塔は故野田庄八氏の父が地中から掘り出したものである。そのとき破損の甚だしい一基分があったそうであるが、それは再び地中に埋められて今は分からない。基礎の幅は34cm、笠の幅は28cmで相違しており、笠は桂城宮の夫人である町月姫のものとされている。室町初期の気品高い印塔である。劇の南朝皇子の墓』 
三重県立熊野古道センターと完歩記念章
東邦石油と言う会社の目の前が八鬼山峠への登り口なのですがグルーっと迂回しないとたどり着きません。民謡尾鷲節の歌碑のところにリュックを残置し、スマホスタンプゲットのために三重県熊野古道センターに立ち寄らねばなりません。「なんで熊野古道上にないんや?」「この場所にスタンプ置けばいいのにっ!」と口々に文句を言いながら往復40分のロスタイムをかけて熊野古道センターを訪れました。こんな山の中に何とも場違いな立派すぎる建物です。三重県立と表示されているので経営が成り立たなくても一向に困りはしないのでしょう。

熊野古道センターの目の前に浮かぶ赤い鳥居がある島は、弁財天を祀る弁財島。干潮時には歩いて渡ることができ、歴史探訪のほか潮溜まり観察もできるらしいのですが・・・そんな時間はありません。 
八鬼山登山口 木標 巡礼供養塔 コケ
八鬼山越えは西国第一の難所といわれ、かつては山賊や狼が出没して巡礼者を苦しめました。八鬼山越えでは、いたるところで石仏に出会います。史跡も多く、絶景も望めますが、登り・下りともに厳しい道です。覚悟して昔の巡礼者の気分を味わって歩く決意をしました。

八鬼登山口から距離を示す道標 1/63を確認しました。100m感覚の看板ですから6km以上あると言う事です。覚悟しなくっちゃあ・・・。行き倒れ巡礼供養碑があり、この場で息絶えたのかとお賽銭を入れて、思わず合掌。1基目は茨城県、2基目は長崎県壱岐、3基目は広島県からの行き倒れ巡礼者を地元民が手厚く弔い建てたものだそうです。谷川を渡り八鬼山の石畳道の案内板を見つけました。ここには「ゴットン石」と言って50mほどの上りを敷石も大きく道幅も広く往時の面影がよく残っていました。
見落としそうな小さな小さな看板をウッチー会長が見つけました。「この石が動いてゴットンと聞こえるぞっ!」と教えてくれました。交代でみんなが石の上に乗りゴットンと言う音を確認しました。ゴットン石を過ぎると駕籠立場跡があり、ここで休憩したことが想像できます。
しばらく登ると伊勢内宮清川順上人供養碑がありました。清順上人は、伊勢と紀州を往復し、尾鷲市の常声寺に逗留して当地方を勧進したという、いわれがあります。
谷川を2つ渡り、林道に合流したらそのまま横切って石段の道を進みます。ここは「20/63」の標識があり頂上まで80分かかると書いてありました。
ごっとん石 
何してんの?…コケたん?
いよいよ七曲りにさしかかりました。このコース一番の難所である「七曲」の急坂になります。急な斜面をクネクネと曲がる石畳道が続いています。石畳の状態は、とても美しいのですが息切れがして必死に登らねばならず景色を楽しむ余裕はありませんでした。「七曲り15分」と書いてありましたが、とても、とてもそんな短時間で登れるはずがありません。「一体誰が決めたんじゃあ!」と言いながら、やっとの思いで七曲を越えると、ほぼ平坦な土道が少し続き、ちょっと大きく深呼吸をして次に進みました。八鬼山越えの道も、上りと平坦な道が交互になるように通っており昔の人の道づくりの技術の高さが伺えます。
蓮華石 烏帽子石 八鬼山桜茶屋一里塚
平坦な道を歩いていくと、「桜茶屋一里塚」があります。かつて両脇にあった松と山桜はなく、石碑が置かれています。一里塚を越えてから平坦な道を歩くと、九木峠まで急な上り坂が続きます。今回の難所は八鬼山峠越えとわかってはいるのですが「きつい、えらい、しんどいの3E」が付いてきます。

しかし見どころは沢山あって途中にある奇岩、蓮華石と烏帽子石。江戸時代の道中日記にも出てくるもので、この辺りの地名(小字)にもなっているそうです。
苔むした石群 九鬼峠
もうすぐ九木峠なのですが最後の急坂と石畳道が続きます。やっと九木峠(標高522m)に到着しました。峠には大正時代に立てられた角柱の道標が残っています。九鬼水軍発祥の地、活発に利用されていた峠であることがわかります。この峠からまっすぐ直進すると九鬼方面へ向かう林道へ合流。右へ進むと八鬼山峠・八鬼山山頂です。私達は右に進みました。

九木峠を越えてすぐ左側に尾鷲市九鬼方面と熊野灘の素晴らしい景色を見ることができました。木々の間から尾鷲市街が、天気がよければ、大台ケ原の山々まで見えるらしいです。

九木峠からゆるやかな上りが続き、石畳道も残っていました。間もなくすると、荒神堂茶屋跡に到着しました。1300年の歴史を誇る八鬼山日輪寺があり、お堂(荒神堂)の中には「三宝荒神立像」があります。この荒神堂は、西国三十三カ所第一番札所の「前札所」として、八鬼山越えの巡礼が道中の安全を願って参拝したほか、太平洋戦争中は武運長久を祈願して賑わった場所でもあります。
荒神堂の神様は「火の神様」。尾鷲の家の台所などには、「紀州八鬼山」と書かれたお札が貼られているお家もあるそうです。

荒神堂茶屋跡から八鬼山峠まで、急な上り坂が続きます。これを登れば・・・と最後の力を振り絞り、石畳に励まされて進んでいきました。
八鬼山峠 八鬼山の頂上 
桜の森広場
八鬼山峠の頂上(標高627m)に到着しました。ここは三木峠とも呼ばれており、かつては三木峠茶屋があったそうです。江戸時代の俳人 鈴木牧之もここを訪れて『「春寒し 見おろす海の 果てしなき』と、いう句を残しています。スマホスタンプもゲットできました。

長めの休憩のあと桜の森広場到着です(40/63)。もう少しで見のがすところでした。九鬼水軍で有名な九鬼町や北には志摩半島、南には紀伊の山道が見渡せ。伊勢路屈指の絶景ポイントです。見逃してなるまい!さくらの森エリアからそのまま、江戸道へと道が続きます。江戸道は世界遺産に登録されている道で、長い間埋もれていましたが、2001年頃にようやく整備されて普通に歩けるようになったそうです。 (明治道は通行不可となっております)
 八鬼山の桜広場から見た熊野灘と九鬼地区
江戸道は石畳道もあちこちに残っていて、楽しく歩ける道です。ここから先は下りばかりになります。急な石畳道を下っていくと、傾斜もゆるくなり、自然林の中を尾根沿いに楽しく歩けました。八鬼山越えの目的地である三木里の海岸と街が、江戸道を下っている途中、木々の間から時々見えてきます。

沢の音が聞こえてくると、八鬼山峠で分岐した明治道と合流します。合流した後は急な下りもなく、ヒノキ林の中をきれいな石畳道が続きます。右手には小さな沢が道に沿って流れています。

賀籠立場の案内板と大きなシイの木がありました。石畳道の緩やかな下り道を歩いていくと、駕篭立場到着。地元では「番正木の駕篭立場」と呼ばれています。
付近にはシイの巨木が3本自生していましたが、台風で倒木して今では1本だけになってしまったそうです。
八鬼山峠 長柄の起点
平地まで下りてきました 長柄の一里塚
 石畳道を歩いていって、小さな沢にぶつかったところで山道は終わります。三木里登山口(63/63)です。木橋を渡って土道へ、アスファルトの道を歩きます。緩やかに下るアスファルト道を歩いていくと、名柄一里塚跡です。尾鷲市の出征兵士は、この名柄一里塚まで送られた後、八鬼山峠を越えて荒神堂に詣で、尾鷲駅へと向かったそうです。
 名柄一里塚跡を過ぎて猪垣沿いの道をしばらく歩き、民家の間を抜けて踏み切りを越えると、国道311号に合流。ここが名柄のバス停(乗りたいなぁ!)
沓川橋を渡り目の前は三木里海水浴場です。三重県でも屈指のきれいな砂浜が広がっているので、海岸沿いに海岸を眺めながら歩いて行きました。砂浜が終わるところで右へ曲がればまた国道に合流します。
猪垣沿いの道
三木里神社、法念寺には、なぎの木があり間もなく三木里小学校です。時間はまだ5時前なのに薄暗く感じました。午後5時予定の時間に宿に入ることができました。民宿嬉志乃はお風呂が男女分かれていて湯船も大きく2人~3人で入れるのですが夕食までたっぷり時間があるのでひとりづつ贅沢に足を延ばして入りました。
 「心がめげた悲しい出来事」
「世界遺産反対」と登山道沿いの大木に白いペンキで書かれており、どこからか石が飛んで来るのではないかと不安になりました。2004年、奈良、和歌山、三重の3県の山々を縦横に走る「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界遺産に登録され、多くの人が訪れるようになりました。熊野古道の最難所「八鬼山越え」は、大木が白いペンキにまみれていました。 この「落書き」を書いたのは、その登山道周辺の地権者たち。反対運動の人達は「あれは落書きではありません。『意思表示』です。私たちにすれば、八鬼山は、先祖代々、山菜を取り、林業を営み、狩猟をしてきた普通の裏庭です。それが世界遺産にされたことで、かつての自由な生活ができなくなりました。登山者は悲しくなるといいますが、あれを書いて一番悲しいのは、地権者の私たちなんです。あの意思表示は最後の手段です」

名柄住民が行政に不信感をもち始めたのは12年くらい前。それまでの当たり前の山道が、市教育委員会により、突然「熊野古道」という立派な名前に変わりました。世界遺産になれば増える観光客に配慮して、行政は、名柄住民による八鬼山での狩猟を禁止した。「狩猟は、畑を荒らすイノシシやシカの駆除のために必要なこと。それが禁止されると、畑は荒らされ、山の山菜は食べ尽くされています」 この問題点の根底には「行政が住民に十分説明をして同意を求めなかったこと」

そんな地元の人の思いも心に込めて有難く歩かせて頂きました。しかし大木は白いペンキを塗られて泣いてるぜぇ!(ほかに手段はなかったのかと美しい八鬼山峠を越えてきただけに思う)
  感   想
 ●ひ め
宿探しはネットで調べたり、グーグルで調べたりしますが思ったような期待がない場合があります。民宿・嬉志野はリニューアルしたばかりでとても清潔感があって最高の宿でした。お値段も驚くほど安いです。熊野古道沿いには、コンビニやスーパーがなく、昼食用のおにぎり等買えなくて困っていたところ、おかみさんの粋な計らいでたっぷり炊いたご飯と、梅干しと、塩、ミカン、サランラップなど用意して下さり各自でおにぎりを作りました。有難かったです。
 ●JON
八鬼山峠は写真のモチーフとしては良いところだと感じました。春先の新緑のころ、それも雨の日に再び訪れてみたいと思います。特に尾鷲から八鬼山頂上までの石畳は良かったです。八鬼山を越えずして熊野古道・伊勢路を語るなかれ…かな!?。
来春、適当な日を見て天気予報と相談して、小雨の日を選んで出発だあ。
 文:美智子00