熊野古道・伊勢路 11 二木島駅~二木島峠~逢神坂峠~波田須の道~波田須駅…熊野市(紀南荘泊) 2018.01.21
熊野古道・伊勢路 第4回目 JR紀勢本線・二木島駅J~波田須~熊野市~紀伊市木~新宮・熊野速玉大社
●1月21日(火) 第1日目(晴)  二木島駅~二木島峠~逢神坂峠~波田須の道~波田須駅…熊野市(紀南荘泊) 
2018年5月に伊勢参りを済ませ「夏が過ぎて涼しくなったら伊勢路を歩こう」と決意し、秋風の吹き始めた10月3日伊勢路の出発点「田丸」から歩き始めました。第1回目の、お伊勢詣りは日帰りでしたが田丸からは2泊3日の行程で、今迄10回にわたる長いシリーズを歩きました。仲間5人で雨の日の橋掛け作業の体験や、ヒルに吸い付かれたりとアクシデントを笑いに代えて元気な70歳越えグループです。今回、熊野速玉大社にゴールすれば伊勢路シリーズは幕を下ろすことになりました。写真の数も膨大ですが思い出も膨大です。この年になってこれほどに活き活きと山行が出来るのは全て「仲間のおかげ」だと思っています。「ひとり旅も良し、なれど仲間がいればなお良し」「伊勢へ参らば熊野へ参れ どちらかけても 片まいり」 
 仁木島駅スタート12:30⇒キリシタン灯籠12:44⇒二木島峠・逢神坂峠登り⇒巡礼供養碑13:30⇒逢神坂峠⇒仁木島峠案内板13:40⇒施口・庄五郎善吉地蔵14:00⇒逢神坂峠案内板14:12⇒東南海地震の記:⇒新鹿15:20⇒徐福の宮⇒波田須駅ゴール17:00    熊野駅「紀南荘」泊
大阪上本町をいつもの列車午前7時11分発に乗るべく列車待ちをしているとjunkoちゃんから「信号機の故障で電車が遅れてる~間に合わない!」とラインが入りました。止むを得ず4人で出発しjunkoちゃんは特急で追っかけて来ることになりました。名張駅で無事合流。坂駅で近鉄からJRに乗り換え、多気駅乗り換えで二木島駅で下車なんと5時間も電車に乗っていたことになります。(大阪と東京往復できるわぁ!)♪♪思えば遠くに来たもんだ。♪♪
二木島駅で降車 二木島湾
 鯨の供養塔  石灯篭  街道は荒れ気味
 駅前のブロック塀にある表示板を見落さぬ様に歩き始めてしばらくすると鯨の供養塔がありました。昔はこの地方の海岸九十九浦には、みな鯨方が置かれており、特に、二木島は、古くから捕鯨の基地として格別の賑わいを見せていたそうです。碑には「鯨三十三本供養塔 寛文十一竜集辛亥三月吉日 木下彦兵衛」と刻まれていました。
少し進むとキリシタン灯籠がありました。信仰の自由が許されなかった江戸時代初期の弾圧の厳しい時代に、隠れキリシタンが庚申参りにかこつけて、ここで信仰を続けたと言われています。風待港であった二木島には、昔、長崎船など諸国の廻船が数多く入港していたため、ここにキリシタン燈籠が建っているのは不思議なことではありません。庚申さんと称して密かに信仰を続けていた隠れキリシタン灯籠を見ると信仰の自由について考えさせられました。
隠れキリシタンの礼拝像として彫られたもののようです
二木島峠道は 熊野古道・伊勢路の中で一番荒れている峠のようでした
 行き倒れ巡礼供養碑  ホルトの木  国道を離れて山道に入ります
国道311を歩き二木島峠と逢神坂峠の登り口にやってきました。「逢神」とは、伊勢と熊野の神が出会う場所という意味で、かつては狼が出没したためという説もあります。古くから捕鯨の里として知られる二木島から古道にはいると、ほぼ全区間に苔むした石畳が通じていました。ここは1/30の番号が書いてありますので3kmの目安を付けることができます。8/30あたりで二木島峠の案内板がありました。
 巡礼供養碑  巡礼供養碑
きつい荒れた山道を登ります   二木島峠に到着でーーーす
ここが二木島峠でこの先からは逢神坂峠となります。道は意外となだらかな道が続きます。
大きな木の根元に庄五郎善吉地蔵 庄五郎善吉地蔵 猪垣沿いに歩く
 逢神坂峠です 逢神坂峠は標高290mの林に覆われた峠です。昔は大きな松があり、松の下には茶屋があったといいます 
 一里塚跡近くの古道沿いに合計8基もの行き倒れ巡礼供養墓碑が立ち並んでいます。ここまで来て力尽きたのかと考えると可哀想になり、ねんごろに手を合わせました。
逢神坂峠のQRスタンプ収得 逢神坂峠の看板 旅人や荷運びさんの腰掛石
石を抱く根っこ 新鹿目指して下ります
施主・庄五郎善吉の地蔵さん 施主・庄五郎善吉の地蔵さん 猪垣沿いの道
施主・庄五郎善吉の地蔵さんがありました。善吉さんは二木島の庄屋だったそうです。 そして、逢神坂峠に到着。逢神という字には伊勢と熊野の神さまが出会うという意味が込められているそうです。
苔むした石畳の道 橋間の庚申さん
 しばらく歩くと、大きな岩が真ん中からパックリと割れており、まるでお尻の様です。看板がありませんが多分ここが「尻削り」だと想像できます。 
湊川橋を渡る 熊野古道の案内碑 新鹿の町
里山に出ると新鹿登り口の案内板がありました。ここは30/30なので3キロメートルの峠であることがわかります。
左いせ道    右なち山 の碑 東南海大地震の碑と 三浦樗良(みうら‐ちょら)の碑
国道311号に沿って町の中を行くと三浦樗良(みうら‐ちょら)の句碑がありました。三浦樗良は江戸中期の俳人で志摩鳥羽の人で、通称、勘兵衛と言います。
東南海大地震の碑 昭和19年12月7日に起こった自身による津波の碑 「消えもせぬ 有明月の 浜千鳥」
徳司神社
新鹿駅への分岐を過ぎると徳司神社です。ここは丸石の石垣が見事です。荒々しい海岸で角が削られ丸まった石は玉として特別の意味を持っていたのでしょう 
道標を頼りに国道を進み町の外れで路地に入りました。ここからが波田須の道です。トンネルを越え道標に従い進むと祠がありました。祠や地蔵様を見ると自然と手を合わす様になっています。熊野古道を歩いているうちに、行き倒れて亡くなった人達の無念さが伝わってくるようになっています。これこそが「祈りの道」の奥深さだと思います。とても不思議な気持ちです。
波田須の道
波田須の道を登り詰めると波田須峠。ここには西行松の案内板がありました。眼下には美しい段々畑が幾何学模様の不思議な美しさを醸し出していました。
集落を抜けたら山中を歩きます。しばらく歩くと波田須神社到着です。波田須は、二千年以上の昔に不老不死の仙薬を求めて中国からやってきた徐福が上陸した里と伝えられています。海と山の間に棚田や民家が点在、伝説と神話の里で数々の史跡を巡り、悠久の時を感じることができます。徐福が求めた不老不死の薬だといわれる天台烏薬(てんだいうやく)の木は波田須神社や徐福の宮周辺に植えられています。
 徐福の宮
始皇帝から不老長寿の仙薬を探す様にと命令を受けた徐福が上陸したのが波田須だと言われています。その船団上陸の地「矢賀の磯」付近の徐福の宮に今も徐福が祀られています。不老不死の薬を求めて中国から来た徐福は高度な文明を里人に伝えたといわれます。住人は日清戦争中も篤い信仰を続けました。
徐福の宮に「天台烏薬(てんだい・うやく)」の樹があります。
徐福は波田須の村が気に入り母国に帰ることなく、この地で漁法、鯨業、農業などを村人に教え親しまれたそうです。
予定では16時25分の電車に乗るつもりでしたが間に合いません。宿に到着が遅れることの連絡を入れて、波田須駅のホームで寒さに耐えながら18時01分まで電車を待つことにしました。昼間はポカポカと暖かくても、やはり日が沈むと寒いです。
今夜のお宿は熊野市駅にほど近い 旅館・紀南荘さんです
  感   想
 ●ひ め 
昼からの出発と夕暮れの早さに少し焦りましたが、楽しく歩けました。伊勢路コースでは誰にもまだ会っていません。世界遺産に登録されているとは言え、やはり中辺路や大辺路の方が人気の様です。熊野に近づくにつれ行き倒れのお地蔵様が多くなってきました。長旅で力尽きたのでしょうか。さぞかし無念であったろうと思います。田丸を出発するときには、死を覚悟してどこで行き倒れても人様に迷惑かけぬよう弔いの費用を懐に入れていたと言う話もあります。
 JON
急な山肌を背負っている二木島は平地が少なく斜面にへばりつくように集落が形成されているのに驚かされました。そんな中にあっても「鯨の供養碑」や「行き倒れ巡礼の碑」など住民の心の温かさを感じました。二木島峠から二木島側は道が荒れているように感じました。これが自然な熊野古道なのでしょうが少々歩き辛かったです。
波田須の「徐福の宮」は訪れた時間帯も良かったので、目の当たりにした景色から悠久の時の流れを感じることができたような気がします。
 文:美智子00