2016
●第7日目 9月22日(木)  有珠山火口原見晴台
 登別温泉の観光を前日に済ませていたため、有珠山に向けてのんびりゆっくりの出発となりました。まずはガソリンスタンド探しからスタートです。午前8時地獄谷の湯けむりを見ながら高速・道央道に乗り伊達インターを出ました。ススキが風に揺れ北海道の季節は「秋」です。でも昼間は暑いけどね。有珠山はロープウエイを利用しました。人気があるのか山頂駅は多くの人でにぎわっていました。ポッチーはどこからか杖を借り、ゆっくりではありますが元気に歩けています。有珠山は洞爺カルデラの南にできた火山で活動の始まりは1万5千~2千年位前と考えられています。昭和52年8月7日にも大噴火をおこしており、今も噴炎を上げる活火山。昭和新山を真正面にして山頂近くまで106人乗りのロープウェイが運行しています。洞爺湖周辺からはるか羊蹄山や内浦湾などの大展望を満喫することができます。噴火で出来た昭和新山もいまとなっては美しい山でした。
有珠山 
有珠山・昭和新山は、北海道有珠郡壮瞥町にある火山。支笏洞爺国立公園内にあり、国の「特別天然記念物」に指定されている。また、「日本の地質百選」に選定され、周辺地域が洞爺湖有珠山ジオパークとして「日本ジオパーク」「世界ジオパーク」に認定されている。
昭和新山
昭和新山の持ち主は三松正夫さん
昭和18年、突然地震と共に始まり、麦畑が隆起して出来た火山は、後に昭和新山と命名されました。
当時は戦争中のため、食料もなく、フィルム・紙・衣類にも事欠く中で、誰一人として研究する学者もいませんでした。壮瞥町で郵便局長をしていた一人の男がこの噴火を見守っていました。「噴火は地球内部を探る最大のチャンス」の教えに従い、寝食を忘れ、創意工夫を重ねてこの活動の一部始終を記録したのです。
さらに昭和21年には、私財をなげうちこの土地を買い取ったのです。
昭和23年、オスローで開かれた「万国火山会議」に提出されたこの資料は「ミマツダイヤグラム」と名づけられ、多くの専門家に絶賛されたのです。国内では、「第一回北海道文化賞」を始め数々の賞を受け、その功績が讃えられました。
昭和52年、生涯3度目の有珠山噴火を体験、その活動の終幕を待たず、12月8日病にて没しました。御年89歳。
自然を愛する三松さんの思いは、昭和新山の麓に銅像として蘇り、この山を守り続けて行くのでしょう。
 有珠山の全景
 1943年~45年 昭和18年~20年 山麓噴火 
第2次世界大戦後半~終 戦。フカバ集落があった場所が1日60センチずつ成長し昭和新山となった。
時節柄大々的な報道はなされず”濡れるとセメントとなる火山灰”を「神助の戦力」と称し軍が丘珠空港に運んだ新聞記事が残っている。噴煙と雨が重なると鳥がバタバタと落ちた。洞爺湖のヒメマス、ウグイは全滅。
 1977年 昭和52年 山頂噴火 
 このときの噴煙は12,000メートル上空まで達した。 千歳を発って名古屋に向かった飛行機にこの時の火山石が命中し2枚のガラスが割れ引き返した。
吐き出された火山灰の量は霞ヶ関ビル400杯分に達し車の視界は昼間ライトをつけて2メートル。爆発当時の洞爺湖温泉は逃げまどう人々でパニック状態となった。
すしずめ状態のバスの運転手は「噴火より人間が怖かった」と話している。
壮瞥に実家のある横綱北の湖も実家に電話、「父ちゃん速く逃げろ、母ちゃん大丈夫か?」。
また医者と看護婦が逃げる車中で産気づいた妊婦の出産を成功させたと言う美談も残っている。被害総額は316億円。
 2000年 平成12年 山麓噴火
前回の噴火からわずか23年目、有珠山の南西「西山」の麓から噴火した。
3月27日未明の火山性地震の観測から3日目の31日、大勢の町民・マスコミが見守る中で起こった。
虻田町・壮瞥町・伊達市を含む住民は既に避難が完了しており、人命の被害は無かった。
4月1日には、洞爺湖温泉街の背後「金比羅山」に新たな火口を開け、噴火口は合計50ケ以上にも及んだ。
場所を移動しながら活動する様子は、明治43年の噴火によく似ている。
100年間に4度の噴火が起こった有珠山は、活発な活火山を再認識させられるとともに、次回の噴火に備えをすることの大切さを実感させられました。 
有珠山・昭和新山の観光が終わると 大沼駒ケ岳を目指して走ります
文:美智子姫