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1943年~45年 昭和18年~20年 山麓噴火 |
第2次世界大戦後半~終 戦。フカバ集落があった場所が1日60センチずつ成長し昭和新山となった。
時節柄大々的な報道はなされず”濡れるとセメントとなる火山灰”を「神助の戦力」と称し軍が丘珠空港に運んだ新聞記事が残っている。噴煙と雨が重なると鳥がバタバタと落ちた。洞爺湖のヒメマス、ウグイは全滅。 |
1977年 昭和52年 山頂噴火 |
このときの噴煙は12,000メートル上空まで達した。 千歳を発って名古屋に向かった飛行機にこの時の火山石が命中し2枚のガラスが割れ引き返した。
吐き出された火山灰の量は霞ヶ関ビル400杯分に達し車の視界は昼間ライトをつけて2メートル。爆発当時の洞爺湖温泉は逃げまどう人々でパニック状態となった。
すしずめ状態のバスの運転手は「噴火より人間が怖かった」と話している。
壮瞥に実家のある横綱北の湖も実家に電話、「父ちゃん速く逃げろ、母ちゃん大丈夫か?」。
また医者と看護婦が逃げる車中で産気づいた妊婦の出産を成功させたと言う美談も残っている。被害総額は316億円。 |
2000年 平成12年 山麓噴火 |
前回の噴火からわずか23年目、有珠山の南西「西山」の麓から噴火した。
3月27日未明の火山性地震の観測から3日目の31日、大勢の町民・マスコミが見守る中で起こった。
虻田町・壮瞥町・伊達市を含む住民は既に避難が完了しており、人命の被害は無かった。
4月1日には、洞爺湖温泉街の背後「金比羅山」に新たな火口を開け、噴火口は合計50ケ以上にも及んだ。
場所を移動しながら活動する様子は、明治43年の噴火によく似ている。
100年間に4度の噴火が起こった有珠山は、活発な活火山を再認識させられるとともに、次回の噴火に備えをすることの大切さを実感させられました。 |