高野七口 その1  高野七口 その2 高野七口 その3   高野七口 その4 高野七口 その5  高野七口 その6 高野七口 その7 
2020.3.30
第4回目 学文路駅~ 西光寺・学文路苅萱堂~丹生神社・日輪寺~高野の仇討ち場所~極楽橋~清不動堂から不動坂口女人堂 10km
高野参詣道「京・大坂道(きょうおおさかみち)」とは、高野七口の一つ「不動坂口」へ至る参詣道。(京都と大阪からの参詣者で賑わった街道)学文路駅の階段を降りたら
「京・大坂道」の説明板がありました。いつものメンバーで元気よく出発です。
江戸時代に京大坂道の参道の参詣者の安全登山を祈って作られた六地蔵があり今でも子安地蔵として信仰されています。通過中の繁野という集落には六地蔵の「第三の地蔵」があり極楽橋までの間に(3~6)の地蔵様があります。
 ▲玉屋旅館跡
車に注意しながら山側へ登り、高野線の踏切を渡り、しばらく登ると、「高野街道」の路面標示がありました。コースを間違えてないことを確認できます。集落に沿って真っ直ぐ登っていくと「石堂丸物語」の舞台として有名な「玉屋旅館跡」がありました。
石堂丸物語」とは・・
『石童丸の父は石童丸が生まれる前に出家するために京へ行きました。石童丸がどうしても父に会いたいというので母は2人で京へ行くことにしました。石童丸の姉は手作りの衣を父にと持たせました。石童丸の父は既に高野山に移っておりました。高野山は女人禁制、石童丸は1人で高野山に登り、父を探しました。親切なお坊さんに父は死んだと聞かされ、石童丸が山から降り母にそう伝えると母は嘆き亡くなりました。石童丸は高野山に登り、親切なお坊さんに衣をあげて、母を弔ってもらいました。苅萱関に戻ると姉も死んだばかりでした。1人になった石童丸は高野山に登り、親切なお坊さんに弟子にしてもらいました。
親切なお坊さんは本当は石童丸の父で、正体を知られたくありませんでした。石童丸の父は長野の善光寺に去って行きました。』(浄瑠璃、歌舞伎などの演目で有名
) 
▲西光寺 (学文路苅萱堂)  
玉屋旅館跡のすぐ先が物語の舞台となった「刈萱堂(かるかりどう)」のある西光寺に到着。西光寺は「人魚のミイラ」が眠るお寺としても有名で、不老長寿や無病息災を願う人々の信仰の対象となっています。(人魚のミイラ・・それほど見たくないので先を急ぎました) 
集落を抜けて「ゆめさきトンネル」の出口付近で道路を横断します。姫がトンネルの真ん中に立ち、記念写真を撮っていました(危ないよ~!)  
西光寺から車道歩きが続きます。お地蔵さんを目印に集落を抜けて歩き始めるとポツポツと小雨が落ちてきました。空は鉛色で雲が低く垂れておりますが合羽を着るほどの事はありません。「大師の硯水」という水場があると地図にはありましたが確認できませんでした。
その昔、この地を通りかかった弘法大師が硯の水を求めたところ、村人は遠い谷間で水を汲みに行ったそうです。大師はその不便さを気の毒に思い、地面に杖を突き刺したところ清水が湧き出したという言い伝えがあります。
「河根峠」に差し掛かりました。峠からは急な下りになります。九十九折りに竹林を下って行きます。突然、姫がしゃがみ込みました。イタドリを見つけたみたいです。しかも、たった1本だけ「イタドリの標本木やぁ!」と嬉しそうです。この下り坂途中の道はずれに「第四の地蔵」があったはずなんですがもう何番目なのかわからなくなりました。(表示があったりなかったり・・・)
 どこかで道を間違えたらしく柿の木の手入れをしているお爺さんに道を尋ねました。「本道は、こっちじゃないぞ、しかしそのまま歩いて行くと高野山に行き着く」と親切に教えてくれました。やがて集落が見えて「丹生神社・日輪寺」に到着です。ここは神仏習合の珍しい場所で、中心になるのは寺、神主様は、たま~に通ってこられると寺のおばさんが言っていました。トイレを借りてイタドリを自慢げに見せて出発です。
▲枝垂れ梅  ▲今年お初のスカンポ   ▲日輪寺
▲丹生神社と山車
▲元本陣 中屋旅館
河根の集落は参詣者の宿場町だった地域で宿場町を出ると、丹生川に架かる千石橋に到着です。千石橋の前には「二里石」が建っていました。地元のおじさんが千石橋まで来てくれて「山はイノシシが出るから気を付けて」と言って見送ってくれました。流れる川の名前は玉川、台風の時には橋が浸かるほどの勢いで水量が増し、大きな家を3軒飲み込んだそうです。女人堂までまだ8㎞・・・長いなぁ!
千石橋を渡ると、作水坂と呼ばれるキツイ登り坂・・上古沢駅の坂道を思い出します。坂を上り切ると作水集落です。作水集落の中程には「第五の地蔵」が祀られています。
作水集落からもまだまだ登りが続き、西郷集会所の軒下を借りてお弁当を食べました。
「軒下三寸借り受けまして~」とはこのことでしょうか、わずかな軒下でも雨がしのげて助かりました。桜茶屋集落には最後の「第六の地蔵」がありました。
▲千石橋の二里石
▲作水集落の第五地蔵様 ▲第六のお地蔵様
こんな山の中なのに車のとおりが激しくて、おまけに道が狭くて、その上スピードも出ているし怖い車道歩きが続きました。しばらく歩くと「高野の仇討ち」の説明版がありました。実際の仇討ち場所はもう少し先のようです。
1862年に播州赤穂藩でのお家騒動が発端となり、1871年に高野山の宿場町「神谷」の黒岩付近で仇討ちがありました。この事件の2年後に明治政府から「復讐禁止令」が出されて仇討ちが禁止となった為、ここで起こった事件は「日本最後の仇討ち」とされています。仇討ちにより討たれた7名は地元の村人によって「殉難七士の墓」として黒岩の少し先にあるお墓でお祀りされているそうです。私たちも当時をしのんでチャンバラごっこをしました。(よぉ遊ぶわ!)
 ▲御成婚記念道程標 ▲旧白藤小学校
京大坂道の石柱とならんで「一里石」があり、神谷の宿場町に下ってきました。右側から高野下駅から続く長狭街道「槙尾道」が合流します。道脇の石碑は「御成婚記念道程標」。昭和天皇の御成婚を記念して大正時代に建てられたそうです。道程標には「女人堂4400m」とありました。 
▲石仏 ▲京・大坂道 ▲極楽橋 ▲南海・極楽橋駅
 ▲不動谷橋橋畔の石仏 ▲ 極楽橋
▲不動坂 (いろは坂)
 旧道の始めのつづら折りの登りは「いろは坂」と呼ばれ、すべての曲がりをとって「四十八曲がり」とも呼ばれる難所でした。名前の由来はそのまま「いろはにほへと…」の「いろはうた」。このいろはうたは弘法大師がつくったと言われています。いろは坂を登りきると、ここからはなだらかな山道。柵があるこの場所は「万丈転」といい、断崖絶壁の足を踏み外すと命に関わる難所として知られていました。また万丈転は刑場としての側面もあり、罪人の手足を縛り、簀巻きにして崖下に追放した場であったとも伝えられています。(オソロシヤ~)
▲清不動堂
 目の前に立派なお堂が現れました。清不動堂です。こんなところに・・・と思うほど立派なお堂でした。清不動堂の傍に大きな洞穴。ロープが張ってあって近づけませんでしたがかなり迫力のある洞穴でした。清不動堂の脇から再び細い山道に入ります。途中で立派な石仏が立っており、この地を花折坂というそうです。
 ▲花折坂の五輪塔・不動明王・弘法大師像  ▲お竹地蔵尊」
▲不動坂女人堂 ▲不動坂結界門
雨の中の女人堂は味がありました。 「高野山」の大きな門が、その先は神聖なる仏の道だと示している様で背筋がゾクッとしました。
午後3時30分、不動坂口女人堂にゴールしました。雨とアスファルト歩きが多かったため疲れました。不動坂口女人堂は、女人禁制だった時代に、女性参詣者の為に「籠り堂」として高野七口に建てられたお堂の一つです。しっかりとお詣りを済ませスタンプ帳に押印をしてバスで高野山駅に向かいました。いつものルートで反省会無しで解散し家路へと足早にたどりつきました。
 平坦な道を歩いて行くと車道と合流しました。正面に「人・車通行禁止」と大きな看板が立てられており右を見ると見張り小屋もありました。この道は南海林間交通のバス専用道路になっており自家用車、歩行者共に通行が禁止されています。
 ● ひめの感想 
コロナウイルス拡大予防のため、電車の中は送風がかかっていて寒くて寒くて・・いつもなら、うとうと眠るはずなんですが寒さに震えながら戻ってきました。山の中はサクラは勿論の事、菜の花、桃、モクレン、コブシ、三俣の花、ツツジなど大自然の花園で春を満喫できました。
● 靖ちゃん
お疲れ様でした。春の花が沢山見れて良かったですね。ゆっくり休んで下さい。
● 留守番ポッチーさんの感想
おはようございます。桜も咲いていていい感じですね。今日も一日御安全に‼️楽しんで下さい。ついに見つけた!そろそろ出てきた!スカンポ。
● junkoちゃんの感想
今日のコースのお地蔵さまは 地元の方によって美しい花を手向けられ 丁寧にお祀りされていたのが印象的でした。
● 正ちゃんの感想
昨日は所用で東京に出掛けていたので、高野行きはパスとさせていただきました。電車も駅も人影がまばらでガラガラの状況でした。昨日の高野山行きの写真を多く見せて戴きました。花が沢山咲いていて春を感じますね。この次は行きたいと思いますので、どうぞ宜しく!...
● JONの感想
高野七口のコースはコンクリート道やアスファルトの道がほとんどだったため、今日は股関節やら膝裏が痛いです。前回の有田龍神道よりははるかに良いコースでした。
 
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