江戸時代日本は有数の銅産国で、その銅の精錬を一手に担っていたのが大坂です。住友家のルーツである泉屋では日本中からの粗銅を集積し、精錬し、銅座を通じ長崎から広く海外へ輸出していました。その威光を垣間みると共に、世界に誇れる今も現役で400年の時をへて活躍する太閤下水から太閤さんの都市計画を垣間みます。
▲大阪メトロ 鶴見緑地線 松屋町駅 ▲まっちゃまち商店街 ▲夏は花火の町に変わります
松屋町筋の南北約1kmにわたる商店街です。有名 なひな人形店をはじめ、おもちゃ、駄菓子、花火、和 紙などさまざまな種類の問屋や専門店が100軒以 上並んでおり、中には、創業100年を超える老舗も あります。愛称で「まっちゃまち」とも言われ、とくに 5月前になると五月人形を買い求める人たちで溢れ かえり、最近では外国人観光客の姿も多くなってき ています。5月には手作り甲冑を着ての武者行列や 手作り甲冑教室・かぶと試着会といった商店街振興 の催しなども開催されています。  
▲大利鼎吉遭難の地(ぜんざいや事件)
慶応元年(1865)、土佐藩を脱藩した浪士たち(大利鼎吉、田中光顕、大橋慎三、池田応輔)が、当地のぜんざい屋・石蔵屋政右衛門に匿われていました。彼らは大坂市街に火を放ち、騒動を起こす計画を立てていましたが、それを新選組大坂屯所隊長の谷万太郎が察知。万太郎は谷三十郎、正木直太郎、阿部十郎らと一緒に石蔵屋を襲撃しましたが、ほとんどの浪士たちは外出中で中には政右衛門と大利しかおらず、しかも政右衛門は逃亡。2階にいた大利鼎吉だけが討ち取られました。
▲東堀橋 ▲東横堀川と阪神高速環状線
▲九之助橋と東横堀川
東横堀川に架けられています。架けられた時期は不詳ですが、江戸時代初期の慶安~万治年間(1648~1661)の絵 図には既に描かれています。橋の西側は九之助町と呼ばれていました。このあたりには銅吹所を始め、鋳物屋、鍛冶屋な どが多くあり、町名や橋名の「九之助」も、もしかしたら金属関係の人名かも知れませんが詳細は不明です。町橋であっ たため、橋筋の町を中心に町々からの資金によって維持されてきました。また橋近くには淡路屋太郎兵衛という豪商が おり、天王寺の五重塔を一建立(一人の力で奉納)したといわれています。また橋東側の瓦屋町の町名の由来は、大坂城 落城後、徳川家の御用瓦師・寺島宗左衛門がこの地を与えられ、代々、瓦を製造したことによります。
▲九之助橋と東横堀川
 ▲住友銅吹所跡
江戸時代の大坂には数多くの銅関連業者が集中していました。銅精錬は 大坂の基幹産業で、日本の生産量の約1/3を大坂で精錬していました。そ の技術力も非常に高く、銅の純度を99%にまで精錬することが出来まし た。大坂屋や平野屋など有力な業者がいましたが、中でも最大規模を誇っ たのが泉屋(住友家)で、当地には住友家の店舗や住宅なども隣接していま した。泉屋は、元和9年(1623)に大坂・内淡路町に銅吹所を開設。寛永13 年(1636)に長堀に移転。その後敷地を拡張して、元禄3年(1690)には 本店・居宅も同地に移転し、明治時代まで続きました。住友銅吹所には、当 時の幕府高官やオランダ人もよく視察に訪れたといわれています。 ④ 住友銅吹所跡 明治9年(1876)に銅吹所が廃止された後、敷地は住友家の邸宅とな りました。
 ▲元住友家本邸内ビリヤード場(玉突場) 
 明治12年(1879)には洋館や庭園がつくられ、ビリヤード場 はその東側に建てられました。文明開化期に多く見られる「擬洋風様 式」で、ビリヤード場玄関のアーチや円柱飾りは洋風ですが、壁は土蔵 造り、屋根は瓦葺きで、洋風と和風とが混在しています。明治25年 (1892)以前の建築と考えられており、独立建物のビリヤード場として は、わが国最古のものです。ちなみに日本にビリヤードが伝わったのは 1800年代で江戸時代にオランダから長崎出島に上陸しました。現在 のポケットビリヤードは1900年頃にアメリカから伝わったもので、明 治時代はポケットの無いビリヤード台でした。
▲末吉橋と松屋町筋
▲松屋町筋と松屋町商店街
▲UHA味覚糖本社ビル
 昭和24年(1949)設立。ビル内2階には自社商品が 並んでいるサテライトショップがあります(サテライト ショップの営業は平日のみ午前9時~午後6時まで)。 2階ロビーには平城遷都1300年記念事業のマス コット「せんとくん」を制作した大阪市出身の彫刻家・ 薮内佐斗司さんの作品が多数展示されています。 ⑦ U
▲太閤下水が覗けます ▲太閤下水見学施設の碑 ▲この下を太閤下水が流れています
豊臣秀吉は大坂城築城とともに上町・船場の開発 にも取り組み、町屋から出る下水を排水するため の下水溝を整備しました。大坂城に向かう東西道 を軸に碁盤の目のように道路を走らせ、その道路 に面した建物の背中(裏口)に下水溝を掘り、これ を背割下水(太閤下水)と呼びました。当時の大坂 は、この背割下水(太閤下水)に挟まれた約40間 (72メートル)四方の区画が、町割りの基本となり ました。下水は広いところで幅約3.6メートル、高 さ約2メートルといわれます。もともと全体は開渠 でしたが道路が横断する場所では石蓋が設けられ ていました。秀吉の時代から420年以上の歳月が 経ちますが、今も約20キロ以上にわたり、現役で 使用されています。 
▲南組惣会所跡
江戸時代、大坂の市中は幕府の派遣した大坂町奉行支配のもとに北組、南組、天満組の三組 に分かれ、総称して大坂三郷と呼ばれていました。北組・南組は現在の中央区の本町通を境と する南北にあたり、天満組は北区の大阪天満宮を中心とする一帯をさします。また三郷の町 数は600から620の間で増減を繰り返し、天明2年(1782)以降、幕末までは620町(北組 250、南組261、天満組109)あったといわれています。三郷の組にはある程度の自治が認 められ、町の行政を担当するため、町人の中から選ばれた惣年寄達が月番で惣会所に詰め、 下部組織には町年寄や惣代が実務を担当しました。また、大坂町奉行所のもと、年貢の取り立 てやお触れの伝達調査、町年寄の任命、火消しの人足の指揮など、現在の司法、消防、警察な どの業務を総合的に担っていました。
▲今回は谷町四丁目交差点で終わりです
 
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 美智子ooo  
かたちをイメージしてつくられたそう