▲京街道の碑 ▲国道1号 関目交差点 ▲大阪メトロ 谷町線 関目高殿駅
秀吉が伏見城から大坂城に行き来するために整備したという京街道。大坂城防衛のため、秀吉の策略で七曲がりの街道にさせられたとか。鎌倉時代には猿楽の座が繁栄して、文化勃興の地となりましたが、戦国時代には三好一族の戦乱に巻き込まれ、幕末にも新選組や明治天皇が行き来して動乱の舞台となりました。京街道が見てきた、紆余曲折京街道の碑の歴史に触れてみて下さい。
▲京街道  七曲り
京街道 秀吉が伏見城から大坂城に行き来するために、毛利家に造らせました。 淀川の左岸で、現在の京阪電車沿線にあたります。大名の参勤交代に も使われました。近年、整備され、大阪城京橋口から何kmと刻まれた 石碑が所々に建っています。関目のあたりには「関目七曲(ななまが り)」と呼ばれる湾曲した道が残されています。大坂城防備のため、道路 を数回屈折させ、大坂城下にまっすぐ進めないようにすると同時に、敵 の進軍を俯瞰して、その陣容や兵数を察知できるように配慮したと伝 えられています。
▲関目神社
「関目」という地名は中世の榎 並荘(近衛家の荘園)の時代か らあり、この地に見張り所(目で 見る関所)があったことから名 付けられたといわれます。関目 神社の正式名称は須佐之男尊 神社といい、天正8年(1580)、 秀吉が大坂城築城の際、鬼門に あたる当地に、鎮護のため「毘 沙門天」、「牛頭天王」を勧請し、 祠を建立したのが起源といわ れています。また西井茶屋にあ った明治天皇御駐輦之跡碑が 移築され、「明治帝が関目で休 憩の折、当地の農民を励まし た」とあります。
明治天皇聖躅碑(西井茶屋址) 慶応4年(1868)3月21日、江戸へ向かって官軍が進 行する中、15歳の明治帝が大勢のお供を連れて、京の 御所を出立しました。京街道を西へ下り、1泊目は石清 水、2泊目は守口、23日になって、関目の西井茶屋で休 憩。石碑はその折のものです(大正年間の京街道は伏 見~大坂間は徒歩約6時間ほどの距離でした)。その 後、明治帝は北御堂に2ヶ月近く滞在。この間に江戸城 が無血開城されました。
 ▲榎並講の祠
昭和初期、この辺りで大峰山信仰が流行し、男の 子は13歳になると1泊2日で大峰詣をしました。 厳しい行は青年への通過儀礼でした。大峰山は 熊野から吉野にいたる、日本三大修験場の一つ で、信仰者の集まりである講の祠は昭和8年 (1933)7月に建てられ、現在でもご近所の方々 の手で手厚くお祀りされています。
▲来迎寺
真宗大谷派、境内に慶安5年(1652)の年号の 入った手水鉢があります。文化文政年間(1804 ~1830)頃、住職の居なくなった来迎寺の門徒 に願われて、現住職の先祖が住職となり、今に いたるとのことです。榎並小学校創立(明治9 年)前後は、時の住職が村の子どもたちに読み 書き・そろばんを教えていたと伝わります。現在 の本堂・大門・庫裏は昭和10年(1935)ごろの 木造建築です。戦災を免れ、本堂には見事な欄 間や柱が残されています。なお梵鐘は第二次大 戦中の鉄回収で供出され、現在は鐘楼の台座の み残っています。
▲野江水神社
天文2年(1533)、三好政長が榎並城築城の折、水火除 難を願って城内に小さい祠を造営して祀ったのが起源と いわれています。ご祭神は「水波女大神」で、「水」を神様 に祀ることは非常に珍しいといわれています。それだけ、 先人たちは淀川の水害に悩まされたということなのでし ょう。明治18年(1885)の大洪水の時には、この辺り一 帯、3ヶ月間も水につかりました。その際、社殿も倒壊しま したが、明治21年(1888)に現在の社殿に再建されてい ます。またその洪水のさいに流されてきたという地蔵様 も神社の隣に祀られています。かつて、淀川は恵みの川 であるとともに、嘆きの川でもありました。
▲野江水流地蔵尊
▲榎並城跡・ 榎並猿楽発祥の地 (榎並小学校内)
奈良時代に中国から「散 楽」と呼ばれる芸能が移入 されました。軽業や手品、曲 芸、歌舞、音曲など様々な 芸能が含まれていました が、やがて物真似などの滑 稽芸を中心に発展していっ たのが猿楽(申楽)です。寺 社や街角などで芸を披露 して、日本全国各地に座が 出来ましたが、鎌倉時代末 期に丹波猿楽の新座が榎並に作られました。住吉大社 の御田植神事に奉仕して、南北朝時代には榎並座と呼 ばれ、一時は本座を凌いで丹波猿楽の楽頭にまでなり ました。また室町時代には第6代将軍の足利義教の後 援なども受けています。大和猿楽の観阿弥(能の観世 座の始祖)も学んだという鬼の風の名手・馬の四郎、世 阿弥(観阿弥の息子)も影響を受けた謡曲「鵜飼」「柏 崎」の作者・榎並左衛門五郎、獅子舞の名手・徳寿とい った猿楽師の名前が伝わっています。しかし応永31年 (1424)には大和猿楽に丹波猿楽の楽頭職を奪われ、 また榎並の地が応仁の乱(1467~1477)に巻き込ま れたことで衰退、消滅してしまいました。榎並城は淀 川・旧大和川・池などに囲まれた天然の外堀を持つ堅 城で天文2年(1533)に三好政長が築きました。小さ いながらも東成郡随一の要衝といわれましたが、天文 17年(1548)、三好長慶の攻撃で陥落。現在は政長が 水火除難のために城内に建てたと言われる野江水神 社が近くにあるのみです。
 
     このページのTOPへ     
 美智子ooo  
かたちをイメージしてつくられたそう