奈良時代に中国から「散 楽」と呼ばれる芸能が移入 されました。軽業や手品、曲 芸、歌舞、音曲など様々な 芸能が含まれていました が、やがて物真似などの滑 稽芸を中心に発展していっ たのが猿楽(申楽)です。寺 社や街角などで芸を披露 して、日本全国各地に座が 出来ましたが、鎌倉時代末 期に丹波猿楽の新座が榎並に作られました。住吉大社 の御田植神事に奉仕して、南北朝時代には榎並座と呼 ばれ、一時は本座を凌いで丹波猿楽の楽頭にまでなり ました。また室町時代には第6代将軍の足利義教の後 援なども受けています。大和猿楽の観阿弥(能の観世 座の始祖)も学んだという鬼の風の名手・馬の四郎、世 阿弥(観阿弥の息子)も影響を受けた謡曲「鵜飼」「柏 崎」の作者・榎並左衛門五郎、獅子舞の名手・徳寿とい った猿楽師の名前が伝わっています。しかし応永31年 (1424)には大和猿楽に丹波猿楽の楽頭職を奪われ、 また榎並の地が応仁の乱(1467~1477)に巻き込ま れたことで衰退、消滅してしまいました。榎並城は淀 川・旧大和川・池などに囲まれた天然の外堀を持つ堅 城で天文2年(1533)に三好政長が築きました。小さ いながらも東成郡随一の要衝といわれましたが、天文 17年(1548)、三好長慶の攻撃で陥落。現在は政長が 水火除難のために城内に建てたと言われる野江水神 社が近くにあるのみです。 |