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 ~水郷・海老江から浦江聖天を経て「売れても占い商店街」まで~ 
 
熊野古道を終えて妙に名所旧跡が興味深々となりました。いままで見向きもしなかった町のお地蔵様までも手を合わしたり覗き込むようになったのです。
ひょんなことから「大阪あそ歩」のマップを見つけまずは近場から歩いてみることにしました。全シリーズを歩くと150コースもある様子です。
まずはどんな具合か福島区を歩いてみることにしました。淀川流域に位置して、数多くの島々が浮かび、難波八十島の光景が広がっていた海老江(海老洲)。明治以降は大和田街道沿いの集落として栄え、戦災に遭わなかった地域は、いまでも石畳の路地や長屋が残っています。懐かしい大阪の下町情緒を満喫できるエリアです。
阪神電車神戸線・野田駅が今回のスタ-トです。駅を出て神戸方面よりにある国道2号の西側歩道を淀川方向に進んでいき、中海老江のバス停を過ぎたところの左側に石畳の道があります 。入っていくと旧家があり懐かしい風景に出会えます。
次の車道を右にとり少し歩いて右に折れると再び国道2号に出ます。 中海老江交差点の南側に赤い欄干の山門のある高野寺があります。
中海老江交差点の北側を少し淀川方面に行くと、次の角に大和田街道の碑があります。そこを右に折れます。
そのまま直進、八坂神社の参道を越えて行くと大通りの手前右側に上記右の碑があります。ここを見たら一本戻って八坂神社の参道を北へ進んで境内に入ります。
大和田街道(梅田街道とも言う)起点は難波橋北詰で海老江から西成大橋、姫島、大和田、出來島、佃、左門殿川を通り尼崎の大物(だいもつ)に至る旧国道です。
地図を片手に細い路地に入ると住民の方々は不審者を見るが如くジロジロと私達に視線を送ってきます。
▼八坂神社
神社の創建の時期は詳しくはわからないが、境内に天治(1124年頃)大治(1126年頃) の年号が記された石灯籠があり、また、村の旧記に永徳3年(1383年)霜月社殿再建と書かれていることからして相当古い神社である。その昔は、牛頭天王社と呼ばれていたが、明治の初めに八坂神社に改称された。この付近は、鷺洲とか海老江洲と呼ばれた砂洲であり、干拓により村ができ鎮守社として創建されたものと思われる。元亀元年(1570年)織田信長が石山本願寺攻めで野田城の三好一族を討とうとしたとき、戦勝を祈り、先陣の将、荒木村重に命じて陣馬陣刀を献じたと記録にある。
 
境内には明治後期に関西の俳壇で活躍した松瀬青々の句碑がある。「菜の花のはじめや北に雪の山」と詠まれ、菜の花畑をとおし、雪をいだいた六甲山を望み詠んだもので、明治40年の作である。
淀川改修記念碑 大峯岩大阪海老江講記念碑 道標
羽間文庫 鷹野地蔵尊
間重富(1756-1816)は江戸中期の天文・暦学者。麻田剛立(ごうりゅう)の塾で西洋の天文学・暦学を学び、幕府の改暦に功績があった。重富は、その子重新と天文観測機器の改良をはじめ観測データなど多くの資料・文献を残した。また、重富は大阪蘭学の発展にも寄与した。羽間文庫は、天体観測の記録や器機のほか、稿本、写本など貴重な資料を多数保管していたが、間重富(しげとみ)と重新(しげよし)の資料は、大阪市立博物館に寄贈された。

来た道を八坂神社東門まで戻り東へ進むと右側に南桂寺があります
▲南桂寺
鷺洲山南桂寺といい、明暦3年(1657)の創建である。境内にある石橋と郭公塚には明治初年の逸話が残されている。このあたり江戸時代の新淀川の開削によって変貌したであろうが、幸いにも戦災に免れたため、旧家には古い資料や文化財が残されている。近くの羽間文庫には宝暦年間の天文観察の器機や暦学の文献が多数保存され郷土の貴重な存在である。
▲松瀬青々旧跡
松瀬青々は明治2年4月船場の薪炭商の長男として生まれた。本名は弥三郎、北浜上等小学校を卒業後、丁稚奉公や呉服行商をしたが、そののち、第一銀行大阪支店に入社した。28歳の頃から俳句を学び「ホトトギス」に投句したのがきっかけで子規と会い、勤めていた第一銀行を辞めて上京し「ホトトギス」の編集にあたった。明治33年大阪へ戻り大阪朝日新聞社に入り朝日俳壇を担当した。翌年「宝船」(のちに「倦鳥」と改題)を創刊し、没年までこれを主宰した。また、句集『松苗』『妻木』などを発刊した。松瀬青々の俳句は、清澄な主観的人事句にすぐれ、関西の高浜虚子と言われた。
 
明治39年の年の瀬に、生地の大川町(中央区の北浜4丁目)から八坂神社の近くに移り、大正10年まで住んでいた。そこに今、「松瀬青々旧跡」の碑が建てられている。
松瀬青々は、昭和12年、69才で亡くなったが、青々13回忌に海老江に住んでいたころの門人たちにより、「南桂寺」境内に「青々先生」と刻んだ碑が建てられている。
和貴地蔵堂は撤去されて荒れ地になっていました
終戦後の昭和20年に焼け跡から掘り出された地蔵で、この地に安置されていたが、昭和33年に地蔵堂が建てられた。聖徳太子の十七条憲法の「和を以って貴しと為す」から名がついた。無くなっていたのは非常に残念です。
たかの巳社
 江戸時代の初めの頃、この海老江の地は尼崎城主青山大膳の鷹狩りの地であったが、白蛇が住みついているとの言い伝えから、お社が建てられたと伝えられている。
▲樹齢200年のクスノキ ▲朝日地蔵尊 ▲街道の名残り
樹齢200年の楠があると書いてあるのですが、探せども探せども見つかりません。どうにか見つけて近所のおじさんに問うと「ああそれは少しだけ残して既に切り倒されてマンションが建っている。楠を切り倒した後、不幸な事故が続いている」と怪談話にも似た話をしてくれました。 
▲大通りを離れて聖天通り商店街へと入っていきます
▲商店街の途中で左に折れると聖天さんがあります
如意山、了徳院は「浦江の聖天さん」の通称で親しまれている。
 江戸時代初め頃、浦江は一面の湿地帯でかきつばたの名所であった。境内に芭蕉の「杜若 語るも旅の ひとつ哉」の句碑がある。
▲聖天さん
聖天さんは昔は相場師、占い師、遊女などがお参りに来たそうで境内の玉垣や奉納品には曾根崎の芸妓の名前が刻まれているそうです。
ゴールのJR環状線の福島駅近くで昼食を摂り、たい焼きとアイス最中を買って阪神電車福島駅に到着です。
ちょっと暑かったです。
 
 文:美智子姫