天文2年(1533)、証如上人を守るために殉教死した21人の門徒衆の菩提のために、久左衛門と申す者が証如上人より教圓という名を授けられて、天文3年(1534)に一宇の坊舎を建立しました。これが居原山円満寺のはじまりです。創建時は摂津国下仲嶋野田村惣道場と称していました。境内には証如が与えた感謝の文書と供養碑があります。
円満寺から高速沿いの道路を北へ進んでいくと二十一人討死の碑があります。 |
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▲二十一人討死之碑 (玉川コミュニティセンター南側) |
玉川地区には21人討死碑が4基あります。玉川コミュニティセンター内にある「21人討死之碑」は昭和15年(1940)に西野田青年団が生涯橋のすぐ西側に建てたものです。下福島中学校のプール建設のため昭和52年(1977)に現在地へ移されました。ここから信号を東へ渡り、すぐ南へすすで行くと玉川南公園がありますので公園を横切るように住宅地の中へ入っていくと右手に春日神社があります。 |
玉川コミュニティセンターの前の信号を渡り、すぐ右に行くと玉川南公園があり公園の中を通り抜けると小さな春日神社の鳥居がありました。 野田の藤跡です。その昔、野田界隈は難波の西端で、砂州(野田州)が出来ていました。そこに洪水などで上流から土砂とともに藤の木が流れ着いて根付いたものが野田藤です。当時は松の木などに絡まって自生していて、起源は鎌倉初期(13世紀)といわれていま
す。やがて「難波かた野田の細江を 見渡せば 藤波かかる 花のうきはし」(西園寺公経。鎌倉時代の公卿・歌人)、「いにしえの ゆかりを今も 紫の
ふじなみかかる 野田の玉川」(足利義詮。室町幕府第2代将軍。1364年に住吉詣での途中に詠んだも の)といった和歌が詠まれて有名になり、豊臣秀吉も千利休や曽呂利新左衛門をお
供に藤見に訪れて茶会を開いたり、「吉野の桜、野田の藤、高尾の紅葉」と詠われる ほどの花の名所となりました。『摂津名所図会』『浪花百景』などにも紹介され、
1700 年代には、上方へ来た商人・武士は土産として野田藤を持ち帰り、宇和島 「天赦園」、福岡県「中山の大藤」などの名所が出来ました。ちなみに単に「藤」と言えば「野田藤」のことを意味します。
更に小さな白藤大神が祀られていました。高速沿いには影藤大神が祀られています。 |