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~水郷・海老江から浦江聖天を経て「売れても占い商店街」まで~ 
 
かつてこの辺りは鹿飢島(餓鬼島)と呼ばれていましたが、九州大宰府に左遷させられる菅原道真公が、当地の住民に慰められ、そのさいに福島へと改名しました。
源平合戦のさいは、源義経と梶原景時が軍議を行って逆櫓論争を起こし、戦国時代には本願寺と信長の主戦場となりました。いくつもの人間の争いやドラマが引き起こされた土地ですが、その一方で、ここは美しい野田藤が咲き誇る花の名所でもありました。ものいわぬ野田藤が眺め続けてきた、野田福島絵巻を覗いてみるために今回はJR環状線「野田駅」から出発します。
野田駅の高架の柱には野菜、果物などの色鮮やかなペイントで描かれていて通り抜けが楽しく感じました。さすが大阪中央卸売市場のある街です。玉川一帯は野田城があったらしく城跡の碑が立派に立っていました。今まで何度も通過しているのに目にはいらなかったんです。改めて地図を片手に歩いてみるとオモシロイ。
 JR環状線「野田駅」  ▲野田城跡伝承地
享禄4年(1531)頃、三好元長と細川晴元が対立し、三好方の浦上掃部の軍勢が野田・福島に陣取ったさいに砦を築いたのが城の起源とされています。元亀元年(1570)に三好三人衆と織田信長が対立すると、打倒信長をめざす石山本願寺が呼応して三好勢と籠城。石山合戦がはじまって、天正4年(1576)に明智光秀・荒木村重の猛攻で落城しました。
現在、野田城の遺構は全く残っていませんが「城之内」「弓場」という地名が明治はじめまで残されていたことから、玉川付近にあったと推察されています。
JR野田駅の東側の玉川4丁目交差点を南下するとすぐに野田城跡があります。それからさらに下って地下鉄の5番出口を過ぎたところを左折東へ歩いていくと極楽寺があります。ここは拝観できませんでした。
▼真宗大谷派(東本願寺)の野田御坊 極楽寺 
真宗大谷派(東本願寺)の野田御坊です。天文2年(1533)、本願寺第10世証如上人が布教活動中、六角定頼と法華宗徒に襲撃されました。この時、野田福島の一向宗門徒の百姓たちが、命がけで証如上人を守って紀州へ逃がしましたが、21人が殉教死しました。その菩提を弔うため、門徒衆の墓所に建てられたのが極楽寺です。江戸初期には、大坂・南御堂(難波別院)の掛所となり、その後、野田御坊として今日に至っています。もう少し進んでいくと野田恵比寿神社です。
▼野田恵美須神社 
野田恵美須神社 社伝によれば永久元年(1113)、当地開発のさいに恵比須神 を勧請したのが起源とされます。神社に保存されている建石 には「永久三乙未年三月」と刻まれています。当時このあたり は「難波八十島」と呼ばれ、漁業が盛んな地域でした。恵比須 神は古来から漁業の神として祀られており、当社も野田福島 の漁民の守り神として信仰されていたと考えられます。
 野田恵比寿神社の北門を出て左へすぐ右へ曲がると円満寺です
 ▼野田村21人討死御由緒 居原山・円満寺
天文2年(1533)、証如上人を守るために殉教死した21人の門徒衆の菩提のために、久左衛門と申す者が証如上人より教圓という名を授けられて、天文3年(1534)に一宇の坊舎を建立しました。これが居原山円満寺のはじまりです。創建時は摂津国下仲嶋野田村惣道場と称していました。境内には証如が与えた感謝の文書と供養碑があります。
円満寺から高速沿いの道路を北へ進んでいくと二十一人討死の碑があります。
 ▲二十一人討死之碑  (玉川コミュニティセンター南側)
玉川地区には21人討死碑が4基あります。玉川コミュニティセンター内にある「21人討死之碑」は昭和15年(1940)に西野田青年団が生涯橋のすぐ西側に建てたものです。下福島中学校のプール建設のため昭和52年(1977)に現在地へ移されました。ここから信号を東へ渡り、すぐ南へすすで行くと玉川南公園がありますので公園を横切るように住宅地の中へ入っていくと右手に春日神社があります。
 玉川コミュニティセンターの前の信号を渡り、すぐ右に行くと玉川南公園があり公園の中を通り抜けると小さな春日神社の鳥居がありました。 野田の藤跡です。その昔、野田界隈は難波の西端で、砂州(野田州)が出来ていました。そこに洪水などで上流から土砂とともに藤の木が流れ着いて根付いたものが野田藤です。当時は松の木などに絡まって自生していて、起源は鎌倉初期(13世紀)といわれていま す。やがて「難波かた野田の細江を 見渡せば 藤波かかる 花のうきはし」(西園寺公経。鎌倉時代の公卿・歌人)、「いにしえの ゆかりを今も 紫の ふじなみかかる 野田の玉川」(足利義詮。室町幕府第2代将軍。1364年に住吉詣での途中に詠んだも の)といった和歌が詠まれて有名になり、豊臣秀吉も千利休や曽呂利新左衛門をお 供に藤見に訪れて茶会を開いたり、「吉野の桜、野田の藤、高尾の紅葉」と詠われる ほどの花の名所となりました。『摂津名所図会』『浪花百景』などにも紹介され、 1700 年代には、上方へ来た商人・武士は土産として野田藤を持ち帰り、宇和島 「天赦園」、福岡県「中山の大藤」などの名所が出来ました。ちなみに単に「藤」と言えば「野田藤」のことを意味します。 
更に小さな白藤大神が祀られていました。高速沿いには影藤大神が祀られています。
▲ 野田の藤跡(春日神社)  ▲野田藤
▲白藤大神 ▲影藤大神
 白藤神社お参りのあとは再び高速沿いの歩道に出て左へ行くとすぐに影藤大神があります。
▲延命地蔵尊 ▲船津橋と堂島川
 影藤大神から歩道を南下していくと、神船津橋から少し手前に延命地蔵尊があります。さらに緩い坂をもぼっていくと上船津橋です。橋の手前を左に曲がり東方向へ進んでいくと左側に天神社があります。 
▼天神社(下の天神さん) 
福島三天神のひとつで、福島天満宮を上の天神というのに対して、天神社は下の天神といわれています。延喜元年(901)に菅原道真が九州・大宰府へ左遷させられたさい、当社に参拝して海路の平穏を祈ったと伝えられています。当時、この辺りは「鹿飢島(餓鬼島)」と呼ばれていましたが、地元の人たちに非常に親切にもてなされた菅原道真は、好字の「福」をつけて「福島」へと改めさせました。
天神社から少し戻って広い道を左折進んでいくと左手に下福島公園があります。公園内の東側に藤庵の庭があります。
▼下福島公園
 野田藤と藤庵の庭  ▲中の天神さん
かつての大日本紡績株式会社(現ユニチカ株式会社)の主力工場であった福島工場跡地に、大阪厚生年金病院(現在の大阪病院)などと共に建設されました。福島区内では福島公園に次いで古い公園であり、面積は区内で最大規模を誇っています。ここには文禄3年(1594)、豊臣秀吉が藤を鑑賞して、茶会を開いたといわれている藤庵の庭が復元されています。このとき、秀吉が休息した茶店「藤亭」で彫らせた額「藤庵」は、野田藤を守ってきた地元の庄屋・藤家に、今も伝わっています。
 下福島公園を出て東へ進んでいくと堂島大橋北詰交差点があります。変則的な交差点ですが迷わず直進してください。上天神交差点の少し手前に源義経・逆櫓の松跡があります。
▼源義経・逆櫓の松 
元暦2年(1185)、源頼朝から平家追討の命を受けた源義経は、摂津国の港・渡辺津に軍を集めました。『平家物語』によれば、源義経と梶原景時が軍議を行い、景時は「船先にも櫓をつけて転回出来るようにしたい」と進言しますが、義経は「最初から逃げることを考えるのは臆病者のやることだ」と一蹴。景時は「進むだけで退くことを知らない猪武者め」と反論して逆櫓論争を起こしました。そのうち暴風雨のために景時は出陣を見合わせようとしますが、義経はわずか5艘150騎で出航して、通常3日の航路を6時間ほどで到着し、平家が居た屋島を急襲して劇的勝利を治めました。その後、景時の本隊140余艘が到着しますが、景時は「6日の菖蒲」(5月5日の端午の節句に間に合わない菖蒲)と嘲笑されました。この軍議場所は、幹の形が蛇のような樹齢千年を超える松が生えていたので、逆櫓の松と呼ばれ、石碑はその老松の跡地です。
上天神交差点の東側歩道を南へ、大阪朝日放送局の前を通り玉江橋北詰を左に折れると福沢諭吉誕生の地跡があります。
 ▼福沢諭吉誕生地
福沢諭吉は天保5年(1834)、 堂島浜にあった中津藩蔵屋敷 で、下級藩士の福沢百助・於順 の次男(末っ子)として生まれま した。諭吉という名は、父・百助 が『上諭条例』(清の乾隆帝治世 下の法令を記録した書)を手に 入れた夜に生まれたことに因み ます。百助は大坂商人を相手に 藩の借財を扱う職で、儒教に通 じた学者でしたが、身分が低い ため名をなすことができず、諭 吉が1歳6ヶ月のときに世を去 りました。その後、母と一緒に中 津に戻って勉学に励み、安政元 年(1854)に長崎へ遊学して 蘭学を学び、安政2年(1855) には大坂・船場の適塾に入門。 2年後には塾頭を務めるまでに なりました。のちに藩の招きで 江戸に下って蘭学塾を開き、万 延元年(1860)には咸臨丸の 艦長・木村摂津守の従者として 渡米。欧米諸国を積極的に歴訪 し、『西洋事情』『学問のすゝめ』 などを著述しました。また慶応 4年(1868)には蘭学塾を芝新 銭座に移転し、年号をとって「慶 應義塾」と改名、これが慶應義 塾大学の前身です。明治維新後 は洋学の普及を主唱しながら、 明治13年(1880)には専修学 校(現・専修大学)の創設に協 力、明治15年(1882)には日刊 新聞「時事新報」を創刊したり と、教育者・啓蒙家として活動。 明治34年(1901)に脳出血で死去しました。
再び戻って上天神交差点を西に渡り北へ進んでいくと福島天満宮があります。
福島天満宮のお参りして北へ少し上った新福島駅がこのコースのゴールです
 福島天満宮元は福島三天神の上の天神と称された天満宮上之社で、 第2次世界大戦後、戦災に遭った天満宮中之社(中の天神)を合祀して福島天満宮と 改称しました。そのため、中の天神跡地(堂島大橋北詰・大阪病院正門南側)は、福島天満宮の行宮として飛地境内地となっています。901年に菅原道真が九州大宰府へ左遷させられたときに、当地の里人・徳治郎に旅情を慰められたことを いたく喜び、後年、菅原道真が大宰府で失意のうちに死 亡したのを聞いた里人らが、 小祠を建てたのが起源とされています。
大阪朝日放送局の一画で撮影しました 
 
 文:美智子姫