紀伊山地の霊場と参詣道:熊野古道 大辺地 6 古座~紀伊浦神 2018.04.09

 
 
●3日目:4月10日 (火) 快晴
古座~紀伊浦神駅  (13km)
 古座8:15➡田原➡堂道➡熊野境界祉12:35➡清水峠➡紀伊浦神駅13:30  13:48分発の電車で紀伊田辺へ 
▲旅館 やまざき屋の前にある 互盟社
互盟社
明治時代に創立された古座川町高池下部地区の青年会「互盟社」は、河内祭や神戸神社例大祭で演じられる由緒ある古座流の獅子舞を伝承しています。互盟社会館は当時としてはモダンな木造洋館で、注目すべきは玄関柱に古代ギリシャ風彫刻が施されています。石造物ではなく木彫であるところがユニークで、当時の大工の心意気が感じられる貴重な建造物になっています。 
旅館 やまざき屋から 栴檀並木を通り古座橋へ向かいます ▲池の鯉
▲古座のセンダンの並木と町屋
古座川河口に近い古座川町高池の川岸の、町道(古座街道)沿いにセンダンの木が10数本立ち並ぶ一画があり、並木と川との間が石垣の護岸が施された埋め立て地の広場になっています。ここは近年まで木材協同組合の丸太置き場でしたが、製材業の衰退とともに使われなくなりました。
埋め立てられる前はセンダンの並木のところが川岸で、物資を運ぶ川舟の往来や丸太流し(管流しという)が盛んだった時代に、それらを係留するためにセンダンの木を植えたのだそうです。
向こう岸から見ると、整然とした石垣の護岸と、並木に沿って今は少なくなった京町屋風の家が建ち並ぶ光景が懐かしく、往事の繁栄をしのばせてくれます。
古座街道の道路元標
平成22年3月、串本町古座の和歌山東漁協古座支所裏の町道交差点に、古座街道の起点を示す道路元標が設置されました。「これより上 古座街道」「下 大辺路街道」「右 古城山」「左 大辺路街道」と記され、40cm四方、厚さ2cmの真ちゅう製で、デザインは東京日本橋にある「日本国道路元標」を模してつくられました。
道路元標とは、全国に道路網を整備するための基準物として、旧道路法によって大正8年(1919年)に各市町村に1か所ずつ設置することが定められたもので、昭和27年(1952年)の新道路法施行にともない廃止されました。ほとんどが石柱で、和歌山県内には17個が現存しています。
この場所には、かつて旧古座町役場があり、道路元標も設置されていましたが、たび重なる道路改修の中で、いつの間にか失われてしまいました。この場所はまた、江戸時代には紀州藩の高札場がおかれ、「札の辻」とよばれた往来の盛んだった場所で、地元民にかつての古座街道の賑わいと郷土史を意識してもらうことをねらって、新たに設置されたものです。
なお、現在の古座街道は和歌山県道38号線(すさみ古座線)をさし、司馬遼太郎が紀行文『街道をゆくー熊野・古座街道』で通ったルートもこの県道でした。しかし、明治39年に路線が大幅に変更されるまでは佐本~朝来間も古座街道に含まれており、川舟の往来が盛んで、海岸廻りの大辺路よりも距離が短い古座街道が、新宮~田辺間を結ぶ主要物流ルートとしての機能を担っていたようです。また、豊かな自然景観と古い街並の風情が残る古座街道は、朝日新聞が行った読者アンケートで司馬遼太郎の「街道をゆく」シリーズ中の「行ってみたい街道No.1」に選ばれています。
▲善照寺
旧古座町古座地区の古座街道沿いにある浄土真宗本願寺派の寺院、善照寺は、立派な石垣とナマコ壁が印象的なお寺です。入口の山門は時を知らせた太鼓が納められた鼓楼で、串本町の文化財に指定されています。寺宝として注目すべきは、鎌倉時代の作である「絹本阿弥陀三尊仏画」(重要文化財:非公開)があり、脇侍の観音菩薩が十一面観音として描かれている、他に例を見ない大変珍しいものです。
善照寺は、石山本願寺の戦いに加わった紀州雑賀党の武将、山本善内之介弘忠が、天正9年(1581年)に創健しました。現在の本堂は江戸時代に入った明和2年(1765年)に地元産のケヤキを使って建てられたものです。また、本堂正面の梁に霊獣「水犀(すいさい)」が二頭彫られています。水犀は、実在の動物であるサイとは異なり、亀の甲羅をもった想像上の生き物で、火災よけのシンボルとして神社仏閣に彫刻されていることがあります。
古座川の町屋
 紀伊半島内陸部に源を発し、半島南端付近で太平洋に注ぎ込む古座川。流域に大きな市街地を持たないため、非常に清澄な流れとして知られており、平成の名水百選にも選ばれている。古くは古座水軍と呼ばれた水軍が存在していたといわれ、また水運により紀伊半島の奥地と往来できることから物流も盛んだった。またこの川に沿い古座街道が伸びていた。これは古代からの道大辺路が高波などで通行できないときに重宝したという。
江戸時代、流域の村々とともに古座組が形成され、周参見代官所の支配地となった。寛永21(1644)の記録では153軒の家屋、346人の人口とともに80艘余りの船舶を有しており、川運及び漁業が既に盛んだったことがわかる。 当時牟婁郡の中心地として位置づけられており、在郷町的発展もあって醸造業、海運業も早くから発達していたが基幹産業は漁業であった。特に太地浦などとともに捕鯨が盛んで、鯨方役所が置かれ、明治初年まで続いていた。
河口付近左岸には古座の町並が川岸に平行に連なっている。その延長は約1kmにも及び、意外なほどの規模がある。南側は比較的新しい家屋や商店が目立つものの、北半分ではつし2階建ての町家風建築、袖壁を両妻に張り出した商家、二階正面部に木製欄干を施した家屋など伝統的な佇まいが見られる。その姿は漁村というより在郷町・商業町としての歴史の方を強く語り継いでいるように感じた。古座川の河口付近は川幅が広く悠々とした風情を感じた。
古座川舟渡し場跡
熊野古道大辺路が古座川に出会う古座川河口には常設の渡し船がありました。江戸時代の天和二年(1682年)に書かれた『紀陽道法記』には渡し賃について「近里ノ者秋ニ至テ米ヲ出ス、旅人舟賃不定」。つまり、地元民は秋に収穫米で支払うが、旅人の渡し賃は定まっていないと記しています。
古座川河口には明治以降になって木製の橋が架けられるようになりましたが洪水でしばしば流され、昭和27年に永久橋である古座橋が完成した後も、まだ自動車が十分普及していなかった昭和30年代中頃までは櫓(ろ)で漕ぐ渡し船が地域住民の足として活躍していました。
両岸の舟渡し場のうち、古座川左岸(現古座漁協前付近)は大辺路と古座街道が交わる交通の要所で、紀州藩の高札場があったことから「札の辻」と呼ばれていました。
▲古座神社
古座川河口に発展した旧古座町の中心地、古座区の大辺路街道沿いに古座神社があります。大正時代までは八幡神社と呼ばれていましたが、対岸の西向にあった住吉神社を合祀し、古座神社と改称されました。本殿のほか、境内社として竜王神社、蛭子神社、そして九龍島(くろしま)神社遥拝所で構成されています。本殿は大正時代の建築ですが、とくに境内社の竜王神社内に納められている旧住吉神社社殿は室町時代の作といわれ、串本町の文化財に指定されています。また背後の鎮守の森である樹齢数百年のウバメガシ林は串本町の天然記念物に指定されています。
石切岩 ▲勘九郎磯 (かぐろいそ)
勘九郎磯
串本町津荷(つが)の国道42号線カーブに石切の鼻と呼ばれる地名があり、石切岩という切り立った岩があります。その先の磯は「勘九郎磯(地元読みは、かぐろいそ)」と呼ばれ、ここに住んでいた勘九郎という男の娘が村の男と恋仲になりますが、勘九郎が亡くなる間際、娘に「二人は本当はこの沖で古座の小山水軍に討たれた足利尊氏方の武将石堂義慶の子で、実の兄妹なのだ」と明かしたいう悲恋伝説があります。
▲一里塚跡の地蔵尊 ▲津荷の地蔵尊
▲JR紀勢線 津荷地区を歩く
▲津荷海岸
▲ちょっと休憩 ちょっとスカンポ ▲紀伊田原の地蔵尊
▲大沛の磯
大沛の磯
旧古座町津荷(つが)~田原間の国道42号線沿いの海岸に、平らな磯がかなりの面積で広がっている場所があります。これが「大沛(おおはい)の磯」で、ここに立つとまるで千畳敷のような広大な空間に圧倒されます。地質学的には海食台と呼ばれるもので、浅い海底が隆起し、波に浸食されて平らな地形が形成されました。 
▲スカンポ背負って熊野古道 ▲紀伊田原の八幡橋 ▲田原地区津波避難施設
国道の土手でヤマブキをゲット 堂道から田原湿地に入ります
▲田原湿地
串本町田原~那智勝浦町浦神間の山間部に、JR線路と国道42号線の間に湿地が広がる場所があります。ここには堂道周辺、下才谷(しもしゃや)湿田、岩屋湿田の3つの湿地帯があり、モウセンゴケなどの希少植物や昆虫、特に水棲昆虫やトンボ類の宝庫となっており、「日本の重要湿地500選」にも選ばれています。ここの熊野古道大辺路は古道は残っていませんが、今の国道42号線の道筋に沿うルートであったことは古図で確認されており、とくに堂道では国道と湿地の間に国土交通省によって古道ウォークや湿地観察のための歩道が整備されています。またここは「日本の地質百選」に選ばれた「古座川弧状岩脈」沿いの地域でもあります。 
思うにこの道は新自動車国道42号が施設されるまでの旧国道とも思える道だった。
田原湿地の西側にはマムシグサの群落がありました 湿地に中の木橋を渡ると国道42号と合流
▲口熊野奥熊野境界址 ▲水準点
口熊野奥熊野境界址
串本町田原(旧古座町田原)と那智勝浦町浦神の境界である大辺路清水峠(しみとうげ)の国道42号線脇に「口熊野奥熊野境界址」と刻まれた鬼御影の石碑が建っています。昭和2年に田原村軍人会が建立したもので、当時地元では、ここが口熊野(くちくまの)と奥熊野の境であると考えていたことを示しています。
じつは口熊野と奥熊野というエリア区分には決まった定義は無く、地域の人々の慣習的な呼称で、時代により、地域により、人により定義はまちまちです。古文書には、「口室(くちむろ)」、「奥室」という呼称も出てきますが、これは室=牟婁郡(むろぐん)の意味で使われており、「口熊野」、「奥熊野」と同義語です。
『紀伊続風土記』には、大塔山を境として以西を口熊野、東を奥熊野と呼ぶとし、田原と浦神の間がその境界であると考える人がいるのは、中世から江戸時代を通じて、この大辺路清水峠を境にして、東側が堀内氏、浅野氏、水野氏が支配してきた新宮領であったためであろうとしています。
一方、明治34年(1901年)に完成した紀州藩の歴史書『南紀徳川史』には、新宮川(現熊野川)より東を口熊野、西を奥熊野と呼ぶとしています。この場合、新宮領は口熊野に含まれることになります。 
▲清水峠の押印所 ▲杉木立
▲清水峠
清水峠
口熊野と奥熊野の境界になるのが大辺路清水峠(しみとうげ)です。旧古座町と那智勝浦町との境にあたります。
峠の古座寄りの古道沿いに、元は石仏の台座であっただろうと思われる道標石があり、「右上田原 左大へち 施主 七兵衛 おゆき 与助」と刻まれています。これは、「大へち(大辺路)」と表記された唯一の道標です。
このあたりの古道は「日本の地質百選」に選ばれている「古座川弧状岩脈」に沿って通り、峠の海側には独特のクジラの背のような、つるんとした形の岩脈が走っています。
▲浦神の地区へと下っていきます 
 13:30 紀伊浦神駅に到着でーす   ▲13:48分発の電車で紀伊田辺へ
清水峠は足に優しくて魅力ある峠でした。峠を越えると休憩用の椅子があり、長めの休憩を取りゴールである紀伊浦神駅に到着しました。20分待ちで電車に乗れそうです。電車に揺られる事1時間、みんな爆睡です。馴染みのある紀伊田辺駅に到着し怪我も無く、トラブルも無く、高速バスで無事帰阪となりました。
旅の感想文
 ●ひ め
3日間とも天候に恵まれ、寒くもなく、暑くもなく、最適な条件で歩くことができました。まだ少し残っている山桜とも出合え、新緑の山肌の美しさに見惚れ、海の藍さに感動し、イタドリの季節と重なったこともあり私にとっては今迄で最高のコースであったと思っています。中辺路と違い3日間の大辺路歩きで登山者にはひとりも出合わずでした。道標の少なさも気になるところです。観光協会は定期的に看板の修繕が必要だと痛感しました。(潰れたり、消えたりしてるよ)宿泊先はネットで調べていますので当たり外れがありますが仲間達は文句ひとつ言わずに笑顔で「良かったよ」と言ってくれるのが救いです。和歌山の良さを満喫したコースでした。
 junko 3日間を振り返って
今回は紀勢本線 江住駅から紀伊浦神駅までのコース。私は新大阪発7時33分太平洋をイメージしたブルーと白のツートンカラー「特急くろしお1号」にウキウキ乗車、天王寺で皆さんと合流、2泊3日の旅に出た。途中、和歌山駅、御坊駅で熱烈歓迎(?)の横断幕を目にした。今回も「念佛僧徳本上人の六字名号碑南無阿弥陀仏」の修行の道を辿り、たまたま一泊目の「ダイバース深海」は死者の魂を海の彼方の浄土に送る念仏島の側であった。本州最南端の町和深、和深駅には映画「たまご」にちなんだ玉子型のモニュメントが青い海に向かいあっていた。この地方の昔の集落跡小高い山の上の「平見」が磯道と小坂を繋いでいた。一番の出来事は今回の旅で一番ルートが分かりにくかった「袋平見」では阿倍晴明ならぬ我々の姫の神がかりな足で枯葉をひとなで「大辺路」という赤い文字が浮かび上がって下る道の方向が定まった。分かりにくい「平見」への入り口は地元の人が親切に教えてくれた。浜に打ち上げられたサンゴ礁のように穴だらけの頭には同じような景色が多いせいか思い出すのに苦労するが、この季節ならではのイタドリ(ゴンパチ)や山蕗は「グリコのおまけ」帰宅後大いに楽しんだ。重いイタドリを持っていただいたり、忘れかけたり失敗もたくさん、お世話をお掛け致しました。.    横川
 ●JON
三日目のコースは車道歩きがおおく排ガスを吸いながらの歩行でしたが、海岸線を歩いているため景色の移り変わりはよかったです。紀伊田原を過ぎて田原湿地の景色や清水峠もよかったです。この辺りには古座川弧状岩脈が通っているためクジラの背のような、つるんとした形の岩脈が見られるようですが気づかずに通過したのが非常に残念です。十分下調べをしたつもりでしたが毎回一つや二つの見落としがあるのを何とかしたいものです。
 文:美智子姫 
 
     このページの上へ戻る    
は平成12年(2000)に完成した東横堀川水門は、道頓堀 川水門と対になっている閘門です。①門の前後で水面の 高さが違う時に水門内で水位の調整を行い船舶を航行さ せる、②大雨や高潮で水位が上昇する時は水門を閉めて 浸水被害を防ぐ、③潮の干満を活かして門を開閉して水 質をきれいにする、という役割があります。水門が開閉す るときに船の信号がわりに出る噴水は、大阪市章「みお つくし」のかたちをイメージしてつくられたそう