紀伊山地の霊場と参詣道:熊野古道 大辺地 5 田並~古座 2018.04.09

 
 
熊野古道:大辺路が始まりました
 ●2日目:4月9日(月)快晴  田並の宿~古座 (15km)
田並8:15➡飛渡谷道9:50➡有田駅分岐➡串本海中公園12:00➡御場の鼻➡鬮野川➡紀伊姫16:15➡伊串橋➡原町のお堂➡第五福竜丸碑➡
古座の渡し跡➡古座橋➡古座川の宿 旅館:やまざき屋
 ▲田並の民宿 ダイバーズ・深海
田並の民宿 ダイバーズ・深海さんに別れを告げて古座川を目指します
 ▲念仏島
ダイバーズ・深海さん前にあるこの岩は、念仏島といって、田並に住んでいる方の多くが、いまも葬式が終わった後、ここに立ち寄って念仏を唱えるんだそうです。
この風習は、海の彼方に浄土がある、という信仰が背景にあるという説もあるそうで、独特の文化が残っている町という気がしました。
午前8時15分、宿を出発して昨日出てきた道を過ぎ、国道42号越えてすぐ山道に入りました。車道歩きと違い山道に入るとホッとします。ほっとしたのもつかの間、堤の宝篋印塔を目指し道なき道を進みます。
奥に入っていくに連れて、藪漕ぎとなり集落跡辺りが近づくと、どうにか歩けるようになりました。
 ▲石積み跡
石積みの跡を見つけてホッとしました。かつては集落が存在し大辺路の道筋として機能していたようです。
▲どうにか見つけることができました 堤の宝篋印塔
▲堤の宝篋印塔 串本町の文化遺産になっているようです
▲宝篋印塔から田並地区へは畑仕事への道を下っていき、JRの線路を越えて田並地区の中へ入ります
円光寺
国道42号 田並地区から飛渡谷道へと入っていきます
串本町田並~有田間の大辺路古道はAコープ前で国道42号線から田並川を渡り、ほぼ旧国道沿いに進みます。
池ノ谷の涅槃地蔵
池ノ谷の涅槃地蔵
池ノ谷に入ったところに石仏群があり、それぞれ江戸時代の年紀が入った地蔵尊と墓碑が6体ずつ集められています。池ノ谷の石仏は古道脇のスギの根元に安置されていて、ここには小さい涅槃仏(寝仏)の像があり、大変珍しいものです。古道ルートは池ノ谷の細い坂道を通って旧国道に上がります。現在この坂道はオートバイで上がれるように舗装されていますが、昔は立派な石畳道だったそうです。
飛渡谷道 大辺路押印所 
立江地蔵
立江地蔵
串本町田並~有田間の山間部を通る旧国道は大辺路街道と重なる部分が多いのですが、高場平見の南側の旧国道建設のために大辺路街道を掘削した法面の岩盤の穴に「立江地蔵」が祀られています。 「四国霊場第十九番札所 立江寺」と刻まれ、四国八十八カ所の根本道場として知られる徳島県の「立江寺」から勧請された地蔵尊で、昭和初期に田並の人が建立したということです。当時、事故や自然災害が相次ぎ、安全祈願のために祀られたと伝えられています。立江地蔵は古座川町の大イチョウで有名な光泉寺境内にも祀られており、四国霊場の信仰が大辺路でも盛んだったことが伺えます。
大辺路と旧国道の交差
大辺路は幾度となく旧国道と交差をしていきます。途中で地区の男性が細い竹を獣道らしきところに仕掛けておられました。「シカやイノシシなどの行動範囲を把握するため」とおっしゃっておられました。
田並・有田の境界石
串本町の田並地区と有田地区の間の大辺路街道は山中を横切る旧国道に沿って通り、比較的保存の良い古道が残る地域です。田並と有田の境界付近の林に、紀州藩主が領地巡視の際に休息をとったといわれる「御茶屋の段」と呼ばれる平坦な場所があり、この古道の脇に「東 有田浦 西 田並浦 境」と彫られた「田並・有田の境界石」が建っています。大辺路でも保存の良い境界石のひとつです。
江戸時代~明治、大正期には、漁場や山林をめぐって村々の間で境界争いが絶えず、一夜のうちに境界石が動かされしまったということもあったそうです。
ここから山に向かって尾根道を行くと、峠に「大タワの地蔵」があり、ここから南北に伸びる稜線が旧田並浦、有田浦間の境界線で、そこに境界石が建てられました。
この「御茶屋の段」のほかに、「大タワの地蔵」と、海岸にも境界石が建てられているようです。 
   ▼田並・有田の境界石
 高場平見の展望台
 高場平見の展望台
大辺路街道の優れたビューポイントのひとつが串本町有田の高場平見(たかばひらみ)の展望台です。「平見(ひらみ)」とは海成段丘の上の平らな台地のことで、串本町の古道は磯歩きと平見越えの連続なのが特徴です。この高場平見展望台は本来の古道の道筋から少し外れているのですが、ウバメガシなどの豊かな照葉樹林と有田港と枯木灘の絶景が望める所として、古道歩きの際は、ぜひ、お立ち寄りください。
戎の祠 有田の徳本塔  逢阪峠の「いせみち道標」
逢阪峠の北向地蔵尊 藪を漕いで大乗妙典塔へ 大乗妙典塔到着…命がけでした
有田の徳本塔
串本町有田の国道42号線沿いに串本町で最大の徳本塔があります。徳本塔とは、紀伊国日高郡出身の念仏行者、徳本(とくほん)上人(1758?-1818年)の遺徳をしのんで念仏講の人々が建立した碑で、全国に3000基はあるといわれています。 徳本上人が説く念仏と清貧の思想は、大名から庶民まで熱狂的な支持を集め、文化十年(1813年)、古座浦の阿弥陀寺に上人が巡錫した際には大阪方面から来た人々も加え200人余りが出迎えたという記録があります。
この徳本塔は全長が2m36cmあり、独特の徳本文字と呼ばれる書体で上部に「南無阿弥陀仏」の名号が、台座に「念仏講中 文政八年歳次乙酉五月造」と刻まれており、串本町の文化財に指定されています。なお、徳本塔の裏側に下端の文字が欠けた「南無阿弥陀仏」の六字名号が彫られています。これは当初彫られた文字ですが、地震で塔が倒れ一部欠損したので、反対側を正面として新たに文字を彫り直したものです。
 逢阪峠の「いせみち」道標
串本町有田の貝岡地区から逢阪峠に上がる小道に「いせみち」と刻まれた道標石が建っています。「左いせみち 右やまみち」、「文久二壬戌年 施主 若山 為 森藤三郎」と記され、明治36年の県道改修時に撤去された後、地元住民の敷地内に保管されていましたが、近年の急傾斜地工事の際に元の場所に近い現在地に設置されました。
大辺路で唯一の「いせみち」と刻まれた道標で、伊勢参りとの関連がうかがえる貴重な交通遺跡として平成22年3月に串本町の文化財に指定されました。
 逢阪峠の北向地蔵尊
大辺路の難所であった串本町有田の逢阪峠周辺は石造物が集中しています。国道42号線逢阪トンネル脇から入る旧国道の法面に「北向地蔵尊」と呼ばれる地蔵3体が祀られています。建立年は不明ですが、首から上の病にご利益があるとされ、今も参拝者が絶えません。
古道は、この石塔群沿いに通っていたと思われますが、周囲は旧県道や国道の造成にともなって掘削されて急峻な崖になっております。和歌山県の街道マップでは、石塔群に行くには旧国道から稲村崎の先端に向かう舗装路に架けられた稲村橋のたもとから入ればしっかりとした階段もつけられており簡単に行けます。私たちは帰りに使いました。 
大乗妙典塔 (逢阪峠の石塔群)
逢阪峠の石塔群
逢阪峠の頂上部に3基の石塔が建っています。2基は「大乗妙典塔」、1基は墓石と思われる石塔で、平成22年3月に串本町の文化財に指定されました。妙典塔とは、元の意味は末法の世の後まで法華経を伝えようと、お経を埋蔵した石塔のことで、さまざまな願をかけた供養塔として建てられたものと思われます。
妙典塔には向かって左の塔に「大乗妙典一石一宇之塔 寛政十二申年 施主 結城氏」、右の塔に「大乗妙典一石之塔 宝暦十三未十一月」と刻まれています。
澤心坊の道標地蔵(串本海中公園) 姫はまぐろ丼食べたい 靖っちはラーメンやあ junkoちゃんは豚丼かあ
串本海中公園の入り口の植込みに、串本町の文化財に指定されている道標地蔵が安置されています。
「右ハわかやま 左ハいそみち」、「享保十二未年 願主 太地浦 澤心坊」と刻まれ、願主の名や年紀も串本町姫に建つ道標地蔵と一致し、同じ人物が同時期に奉納したものと思われます。 道標地蔵は、道中の安全祈願と道案内を兼ねて建立されたもので、大辺路の沿道のあちこちに残存しています。
 このお地蔵様は、若いお母さんの乳受けの御利益があるというので、遠方からも祈願に来られるそうです。また、このお地蔵様には1727年の頃、太地浦の鯨舟が姫の松原に上陸して一休みした時、若者たちは、この地蔵さんを鯨に見立てて、銛を投げて突く稽古をしたのだそうです。その翌日、漁に出て銛を打ち込んだ大鯨に引きずられて、30名ほどの漁師が行方不明になってしまいました。その時、姫の地蔵さんのたたりと言うことになって、太地の人たちは新しく地蔵尊を寄進して、亡き人の冥福を祈ったそうです。
海中公園を見ながら浜辺に出て昼食タイムとなりました。しかし姫だけは昼食も取らずにイタドリ採りに熱中しています。しばらくすると両手に溢れるほどのイタドリを抱えて戻ってきました。天気よし、眺めよし、収穫よし。
東雨の洞門 (大辺路の通り穴)へ向かう
東雨の洞門 (大辺路の通り穴)
東雨の洞門 (大辺路の通り穴)
串本海中公園の東側、国道42号線の高濱トンネルの海側に、廃道となった磯の岩山をくりぬいた古い県道のトンネルが残されています。そのさらに下側に、県道の工事で半分以上崩されてしまっていますが、磯辺に自然に開いた穴があります。これがかつて大辺路街道として使われていたトンネルで、平成22年3月に串本町の文化財に指定されました。
大辺路でもこのような岩穴をくぐって通行する場所は珍しく、いくつかの古文書にも「通り穴」、「岩穴」、「石門」などと記載されています。幕末に紀州藩が編纂した『紀伊続風土記』の東雨(あずまめ)村の項には、「海濱の往還に通り穴といふ岩穴ありて其穴をくぐりて往来す」と記されています。
海が荒れたときには山越えのルートを通ったようですが、明治時代にサーカスの一行が通行したときにはゾウがくぐるには穴が小さすぎ、やむなくさらに海側の磯辺を迂回したという話が伝わっています。また、弘法大師が杖の一突きでこの穴を空けて道をつくったという伝説もあります。
導き地蔵 電波水準点  徳本塔
壁の中の庚申像
壁の中の庚申像
串本町二部(にぶ)の旧国道の民家の壁面に庚申像が埋め込まれています。ここが熊野古道大辺路であったことのしるしですが、道路拡張によって民家の壁に祀られるようになったと思われます。 庚申(こうしん)像や庚申塔は、江戸時代に庚申信仰が盛んになるにともない、全国的に数多くつくられるようになり、街道沿いやお寺の境内などに建てられているのをよく見かけます。今でも、失せもの捜しにご利益があるとして、庚申様にお参りするということは広く行われています。
庚申の本尊は道教に由来するといわれる青面金剛(しょうめんこんごう)で、法輪や刀などを持ち、足下に「見ざる、聞かざる、言わざる」のいわゆる三猿や、日月、鶏などが彫られているという特徴があります。この二部の庚申像は摩耗が激しく、年紀も不明ですが、鶏が彫られているのを確認することができます。
様々な表情の石仏を鑑賞しながら歩くのも、古道歩きの楽しみのひとつです。
トルコのお守り「メドゥーサの目」 旅の弘法大師像
トルコのお守り「メドゥーサの目」
二色地区の外れに不思議な円盤状のものが見えます。これはトルコでよく見られる「ボンジュック」と呼ばれるトルコブルーの目玉のお守りです。ガラスや陶器などいろいろな材質で作られ、形は円盤状のものが多いようです。毛髪は毒蛇で、見た物を石にすると言うギリシャ神話のゴルゴン3姉妹の末娘「メドゥーサ」の『目』であると言われています。英雄ペルセウスに退治された「メドゥーサ」のこの『目』は、他人の邪悪な目や悪意からこのお守りを身につけている人を守ると信じられています。
芝桜の季節には、このあたりの道路は「芝桜ロード」と呼ばれ、この目玉のまわりも芝桜のピンク色になってとても美しいようです。
旅の弘法大師像
「メドゥーサの目」の西側に立派な像が建っています。由来説明板を読むと「旅の弘法大師像」とあります。その由来は、昔一夜の宿を乞った旅の僧をこの家の妻女が心をこめて丁重にもてなしました。その夜、この妻女が歯痛をおこし困っていたところ、旅の僧がお経を唱え息を吹きかけて直してくれたとのことです。この僧は弘法大師の化身に違いないと言われ、この坂本家では爾来「弘法大師堂」を建てて祀っていました。
道路建設、拡幅工事に伴いこの「大師堂」を取り壊すことになり、その代わりにこの「旅の弘法大師像」を平成8年に建立したということです。この像の後ろには「紫陽花」が植えられ開花の時期には美しいそうです。
ちょっと栄養も入れたし、鍛冶屋さんもあった。土地の人に袋平見越えのルートも教えてもらったし、さあ鬮野川まで頑張って行くぞー 
土地の人たちは、このルートは津波からの避難路として常々念頭に置いておられるようです。避難路の看板の所から急な登りの山道へ入りました。津波の避難路とは言え、こんな険しい急登を足の悪い人が果たして逃げ切れるのだろうかと心配するほどの急な登りでした。しかし入ったものの標識はないし、ピンクのテープはルートに関係なく付いているし、もうたいへん。どうにか集落跡に出たものの下りの方角が分からない。車道を行ったほうが賢明だったかと思いつつも、必死で下りのルートを探す。
 袋平見の集落跡
大辺路の案内標識に出合ってホッとしました
登り切ったところが広場になっており標識が見当たりません。「アレッ?古道はどっちだ?」道迷いかと思った時、枯葉の中から壊れた古道の看板を見つけました。微かな踏み跡を頼りに下りました。やっと道標が出てきて、それに沿って進むと袋平見集落跡がありました。 
おっ! リングワンデリングかあ 出ました…ここは鬮野川へのポイントです 振り返ってみれば山は深そう
熊野古道大辺路 鬮野川地蔵
熊野古道大辺路 鬮野川地蔵
熊野古道大辺路は本州最南端串本町に入り、市街地の北側の「くじの川」に沿って、紀伊姫駅付近へと至ります。その後はほぼ国道42号線に沿って古座川河口付近へ進みます。熊野古道のイメージとは少し違って険しい山道などはありませんが、田園地帯や海を眺めながら、のんびり歩けるコースです。
市街地の北を流れる鬮野川(くじのがわ)に沿って、のんびりとした田園地帯を歩きます。
JR紀伊姫駅付近で再び国道42号線と合流し、雄大な熊野灘に導かれるようにして清流古座川の河口に開けた古座の町に向かいます。
 展望台 と しりでの坂 しりでの坂で尻出して
展望台 と しりでの坂 
串本町姫~くじの川の山間部を通る道が本来の大辺路街道ですが、江戸時代後期には現串本町の中心部が発展するとともに海岸部を廻るルートが主に使われるようになりました。姫のコメリ前からJRの鉄道を横切って、くじの川へと向かう坂道が古道の「しりでの坂」です。その坂の途中から山に上がる道があり、「展望所」の案内板があります。ここが大辺路刈り開き隊が開いた「しりでの坂展望台」です。
ウバメガシのトンネルのような山道を数10m登れば、正面に紀伊大島、右手に橋杭岩と潮岬、左手には古座川沖の九龍島(くろしま)と鯛島が一望のもとに見渡せる絶景がひろがります。大辺路を歩く際にはぜひ立ち寄りたいポイントです。
ここは串本 向かいは大島 中をとりもつ 巡航船�…今は「くしもと大橋」がありますね
 姫のお地蔵様  JR紀伊姫駅に到着
 原町のお堂  古座川の街並み
原町の小堂
国道42号線に並行して大辺路は進みます。伊串→西向→原町と進んで民家の横に小堂があります。この小堂には石仏が三体納められています。中央に地蔵尊、地蔵仏は高さ1.5m。享保5年(1720年)の建立です。向かって右は徳本上人の念仏塔です。上人が布教した全国各地に建てられたもので、文化10年(1813年)古座阿弥陀寺に留錫され、その後文政13年(1830年)に西向、神野川両村の念仏講の人達が建立したものです。左側には「法華塔」と記された1.5mの刻経塔が建っています。これらの石仏は、古から古道を行き交う人々を見守り続けてきました。 
第五福竜丸建造地の碑
第五福竜丸建造地の碑
古座川河口に架かる古座大橋のたもとに「第五福龍丸建造の地」と書かれた記念碑が建っています。米国の水爆実験で大量の「死の灰」を浴び、その後わが国の反核兵器平和運動のシンボル的存在になったマグロ漁船「第五福竜丸」が古座で造られたことを記念し、次世代にその意義を語り継ぐために、1999年(平成11年)4月に旧古座町が建立しました。
終戦後間もない1947年(昭和22年)、神奈川県の漁業会社からの注文で、当時古座川河口の中州にあった古座造船所でカツオ漁船「第七事代丸(だいななことしろまる)」が建造されました。そして神奈川県三崎港を本拠地にカツオ一本釣り漁を行っていましたが、その後マグロ漁船に改造され、1953年(昭和28年)に焼津市の船主に売却され「第五福竜丸」と改称。
1954年3月1日、アメリカ領マーシャル群島ビキニ環礁で水爆実験が行われ、そこから当時安全圏とされた約160キロ離れた場所で操業していた第五福竜丸は、俗に「死の灰」と呼ばれる放射性降下物を浴び、多量の放射線を被曝した乗員23名のうち、重症だった無線長の久保山愛吉さんが半年後に死亡しました。
第五福竜丸は、その後東京水産大学の練習船「はやぶさ丸」として使われますが、1967年(昭和42年)に廃船となり、エンジンは他に転売され、船体は東京夢の島に投棄されたままになります。
保存運動の結果、1976年(昭和51年)に東京都立第五福竜丸展示館がオープン。そこに熊野灘に沈んでいたエンジンとともに永久保存されています。
今夜のお宿は古座川の 旅館・やまざき屋 
この日の宿「やまさき屋旅館」には午後5時到着です。宿に一歩足を踏み入れると何とも愛くるしい調度品の数々が品よく並べられており心が和みました。お風呂もゆっくりと入ることができ夕食はおかみさんの手作りが多くどれも美味しくいただきました。勿論乾杯もしました。酔いもまわったところでさあ寝ようか・・いやいや本日収穫したイタドリの皮剥きが残っているよと女性陣は精を出しました。
旅の感想文
 ●ひ め
見どころいっぱいのコースで大満足でした。袋平見の集落跡では看板が枯葉に隠れていて、偶然踏んずけて看板を見つけましたが大辺路はあまり多くの人が歩いていない(私たちのように何が何でも地図通りに歩く人はいないのかも・・・笑) 暑くもなく、寒くもなく、快適に歩けました。峠越えが無いと思い込みウオーキングシューズで歩きましたがやっぱり登山靴がいいねっ。山らしい山には登ってないと思っていましたが熊野古道も立派な山だぁ!
 ●JON
今回のコースでは2度藪漕ぎをしました。堤の宝篋印塔と袋平見の集落跡です。迷うことは無かったのですが標識が無いというのは時間がかかります。何事もなく通過できましたが、大辺路などと侮ることなかれ、地形図にコンパスの携行はお忘れなく。
それと幼い日、山陰の片田舎の漁村で育ったので第五福竜丸の事件はよく覚えています。家族も村人もその話はしばらく続きました。漁獲したマグロを捨てたという話は幼心にもったいないと思ったものです。今回古座の記念碑を訪れることができたのは良い思い出になりました。
 文:美智子姫 
 
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は平成12年(2000)に完成した東横堀川水門は、道頓堀 川水門と対になっている閘門です。①門の前後で水面の 高さが違う時に水門内で水位の調整を行い船舶を航行さ せる、②大雨や高潮で水位が上昇する時は水門を閉めて 浸水被害を防ぐ、③潮の干満を活かして門を開閉して水 質をきれいにする、という役割があります。水門が開閉す るときに船の信号がわりに出る噴水は、大阪市章「みお つくし」のかたちをイメージしてつくられたそう