長柄人柱となった巌氏(いわうじ)、百姓普請による大水道工事である中島大水道な ど、世のため人のために自らが犠牲となった人々にスポットを当てました。崇禅寺に 至るまで、涙流さずにはいられない、大阪の先人たちの偉業に触れるまち歩きです。 
今回は大阪メトロ:東三国駅から出発です。
▲地下鉄・東三国駅 ▲歴史街道の碑 ▲東三国2丁目交差点
▲蒲田神社
室町時代の創建で、御祭神は宇賀御魂大神と別雷大神で す。蒲田神社は、かつては室の社と呼ばれていましたが、明 治42年(1909)に当時の地名である大阪府西成郡中島村 大字蒲田の字名を取って蒲田神社に改名しました。現存す る境内の古木には蒲田千年楠を始め数株があり、かつて数 十株の大樹が繁茂していた頃の名残をとどめています。
  ▲大願寺
自ら進んで長柄の人柱となった巌氏(いわうじ)の功績は朝 廷にまで伝えられ、推古天皇の勅命により、巌氏の冥福と長 柄橋の守護を目的とする大願寺が建立されました。宝永6年 (1709)に、両替商の天王寺屋彌右衛門が再興しました。
大願寺 鐘楼 ▲歴史街道の碑
 ▲長柄人柱 巌氏碑
長柄人柱 巌氏碑 長柄橋の架橋は、度重なる失敗を繰り返す非常な難工事で した。垂水の長者・巌氏(いわうじ)は、横継ぎを当てた袴を 履いていながら、「袴に横継ぎを当てている者を人柱にすれ ばよい」と進言し、橋がないことに苦しむ人々のため、自らが 人柱になることを申し出ました。巌氏は、人柱となる日、娘の 照日らに別れを告げ、石櫃に入り、生きながら橋柱の下深く 埋められました。巌氏が人柱となるや、橋は難なく架設され、 大水が出ても流されることがなくなりました。推古天皇の治世613年のことです。父の死後、悲しみのあまり、物言えなく なった巌氏の娘・照日は心まで閉ざしてしまい、ついに嫁ぎ 先から里方に帰されることとなりました。長柄橋を渡って垂 水まで来た際、一羽のキジが鳴き、夫が弓で射止めました。輿 の中から見ていた照日は「ものいわじ 父は長柄の橋柱 鳴か ずばキジも 射られざらまし」と詠じ、泣き入ったと伝えられ ています。その後、夫婦は仲良く暮らしました。長柄人柱巌氏 碑から地図上でほぼ真北の方角に垂水神社があります。垂水神社付近はかつて雉子畷と呼ばれ、現在も雉子鳴き道と いう通りに碑が残されています。
 長柄人柱 巌氏碑 から須賀神社跡に向かうときにありました。少し遅い感じはしましたが、まだまだ十分楽しめそうでした。
▲東海道線の下をくぐる 西側 ▲東海道線の下をくぐる 東側
このガード下を通るとき二本の列車が通過しました。桁したが低いためその轟音たるもの凄いものでした。自転車に乗って通過する人も多くいましたが生活道路のため慣れておられるのか我関せずという感じでした。
▲須賀神社跡
西淡路は、昭和33年(1958)まで国次町という地名でしたが、これは 刀工・来国次から取ったものです。来一族が南北朝の戦乱を避けて京 から淡路に移り住んだ際、一族の鎮守として創建されたのが須賀神 社です。須賀神社は、明治43年(1910)に中島惣社に合祀されまし た。大阪府天然記念物に指定された樹齢600年と言われる大楠が残 っています。
▲中島大水道顕彰碑
北中島22カ村の庄屋や村民が、度重なる水害と水はけの悪さに耐え かね、延宝2~4年(1674~1676)にかけて何度も江戸幕府に対して 公儀普請による水路開削を請願しましたが、幕府は多額の工事費出費 を嫌がり、百姓普請を前提に水道開削を許可しました。庄屋たちは22 カ村の村民を説得して資金2千両を募り、延宝6年(1678)の春にわ ずか50日間で伝法・申新田に至る9.5キロメートルの大用水路を貫通 させました。この中島大水道は、淀川改修期の明治32年(1899)まで 220余年もの間、その機能を果たし続けました。東淀川区役所には中 島大水道の古絵図と復元模型が展示されており、当時の水路を知るこ とができます。
 ▲永春寺  
永春寺 来一族の居住地があった場所で、境内には来一族の石廟と、一族が 使用した空井戸が残っています。また、淡路で7年程暮した上田秋成 寄贈の石燈籠があることでも有名です。 
▲中島惣社
白雉2年(651)に五穀豊饒を祈って創建されたと伝えられます。中島郷 48カ村の親宮で惣社と言われ、明治末年には19,000坪余りの境内を持 っていました。境内に残る芭蕉句碑は、芭蕉顕彰に生涯を尽くした俳人・不 二庵二柳の弟子、三四坊扇暑が文化10年(1813)に建立しました。中島惣 社の北側を流れていた中島大水道の一部が落ち葉川とも呼ばれていたこ とから、「宮人よ わが名を散らせ 落ち葉川」の句を選んだと伝えられてい ます。
▲崇禅寺 本 堂
▲遠城兄弟の墓と塚
崇禅寺
天平年間(729~749)に法相宗の行基により創建されました。嘉吉 元年(1441)の嘉吉の乱で播磨守護・赤松満祐によって殺害された 室町幕府六代将軍・足利義教の首が寺に葬られ、翌1442年に時の 管領・細川持賢が大伽藍と寺領を寄進し、足利義教ならびに細川家 の菩提寺として再興されました。その折、特叟亨隣大和尚を開山とす る曹洞宗に改められました。足利義教の首塚とともに、特叟亨隣大和 尚、細川玉子(ガラシャ夫人)の墓が並んでいます。
遠城兄弟の墓
正徳5年(1715)11月4日、大和郡山の藩士・遠城治左衛門と安藤 喜八郎兄弟は、末弟の宗左衛門が剣術の試合で負かした生田伝八 郎に闇討ちに遭って殺されてしまった仇を討とうとしましたが、反対 に伝八郎の多勢の門弟によって、崇禅寺境内で返り討ちに遭いまし た。当時の住職十四世門啓天岑和尚と、元江戸町方与力の勝見宗春 が崇禅寺内に墓碑を建立し、兄弟を弔いました。
ここが今回の最後のポイントになります。時間をかけて参拝されてはいかがでしょうか
今回のコースは、阪急電車京都線 崇禅寺駅がゴールです
 
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 美智子  
は平成12年(2000)に完成した東横堀川水門は、道頓堀 川水門と対になっている閘門です。①門の前後で水面の 高さが違う時に水門内で水位の調整を行い船舶を航行さ せる、②大雨や高潮で水位が上昇する時は水門を閉めて 浸水被害を防ぐ、③潮の干満を活かして門を開閉して水 質
をきれいにする、という役割があります。水門が開閉す るときに船の信号がわりに出る噴水は、大阪市章「みお つくし」のかたちをイメージしてつくられたそう