明治時代の改修で大きな変貌を遂げた淀川。改修の歴史に触れるとともに、心地良い風を体に受けなが ら、淀川左岸堤防沿いに橋寺・赤川の両廃寺跡や渡し跡を訪ね、心和むワンド群を眺めつつ赤川鉄橋へと 向かいます。
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大阪メトロ 谷町線・太子橋今市駅3番出入口
▲北へ歩いて、歩道橋を渡ります
▲歩道橋から南を望みます…大阪内環状線です
▲豊里大橋と淀川左岸堤防
豊里大橋(とよさとおおはし)は、淀川に架かるA型斜張橋で、大阪府大阪市東淀川区豊里と旭区太子橋とを結ぶ、全長561.4m、幅員19.5mの橋。正式な構造名称は、3径間連続鋼床版箱桁A型斜張橋と呼ばれるものである。国道479号(大阪内環状線)の一部である。浪速の名橋50選選定。
日本万国博覧会の関連道路の一環として整備され、1970年(昭和45年)に完成した。当時、大阪市では初めての本格的な斜張橋で、中央支間216mは当時日本最長であった。しかし、1975年(昭和50年)に中央支間250mの末広大橋(徳島県徳島市)が完成し、記録が破られた。
その後建設された、大阪メトロ・今里筋線が豊里大橋の地下を通過している。
▲淀川改修
淀川改修 近代的な淀川の改修は、オランダ人技師のデ・レーケを中心に行われた修築工事(1874~1888)と、日本人 技師の沖野忠雄を中心に行われた改良工事(1896~1910)の大きく2つに分けられます。前者は低水工事 で主に伏見~大阪間の蒸気船航路確保のために行われ、粗朶沈床工(そだちんしょうこう:木の小枝や下草 を使って格子状に組んだマットを幾重にも重ねて大きな石で両岸の川底に沈める工法で、ケレップ水制とも 言われる)という水制を用いることで、明治初期に平均水深40cmと言われた淀川の流れを真ん中に集めて 水深を150cmに保ち、川の流れを穏やかに曲げました。この水制によって多数のワンド群が形成されていま す。また、デ・レーケは淀川水系の砂防工事にも力を注ぎました。後者は、明治18年(1885)の淀川大洪水で 甚大な被害を被ったことを契機として沿岸住民より淀川改修運動が起こり、洪水による河川災害を防ぐ必要 性から行われた高水工事です。瀬田川から河口までの区間で、新淀川と長柄運河の開削、毛馬第一閘門・洗 堰の建設から瀬田川の浚渫と洗堰建設に至るまで、現在の淀川を形作る工事でした。
豊里大橋から淀川左岸を500mほどさかのぼれば堤防の街側に碑が見えてきます。これが橋寺廃寺跡の碑です。
▲橋寺廃寺
昭和34年(1959)に、 淀川河川敷で井戸、古代 の瓦、中世土器が発見さ れ、地名を取って橋寺廃 寺と名付けられました。 『行基年譜』の天平13年 記記載の高瀬橋院では ないかとも言われていま す。行基はこの辺りに高 瀬大橋を架けたとされ、 橋を管理するための寺が 置かれたものと思われま す。
橋寺廃寺跡からは来た道を豊里大橋に向けて戻り橋の手前で河川敷に降りて橋脚の下を通り、次に出てくる道で堤防の上に上がります。
▲淀川の豊里大橋左岸に建てられた慰霊碑 「艇友よ 時は経るとも 君の魂は 我が心の中に 生きん」
平成元年3月7日、赤川から上流に向かっていた神戸大学漕艇部の2隻のボートが突風にあおられる。豊里大橋でUターンをしたが、後から来た1隻が、突風により横転。18名が船から投げ出され、3名が命を落とす。そして、午後3時15分に船は転覆。長い間、遺族は大学と調停を行っていたが、和解。そして、平成7年にボート部OBが募金を集め碑が建てられた。
慰霊碑と平太の渡し碑は同じようなところに建立されています。平太の渡し碑のほうが河口側に位置しています。
▲平太の渡し碑
▲平太の渡しの有ったところ
幕府より渡船権利を得た沢田太郎左衛門は、延宝4年(1676)頃より平田の渡しの営業を開始します。平田の渡しは、明治40年(1907)に大阪府営、大正14年(1925)に請負制度による大阪市営となり、昭和23年(1948)に大阪市直営となりました。約300年にわたって営業が続けられた平田の渡しは、船頭が竿と櫓を使う手漕船でしたが、昭和35年(1960)に発動船が導入され、最盛期には1日に3,000人の乗客と670台の自転車を運ぶ、まさに市民の足となりました。昭和45年(1970)、大阪万博開幕直前の3月3日に豊里大橋の開通と同時に最後の営業を行い、最終日には「おなごり乗船券」が発売されました。
▲カモ
▲ムクドリ
▲今市中学校に沿って下ります
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大阪工業大学エントランス
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大阪工業大学キャンパス
大阪工業大学エントランス 大正11年(1922)、関西工学専修学校(現大阪工業大学)の初代校 長兼理事長に就いた建築家の片岡安(かたおか やすし)は、東京帝 国大学卒業後、日本銀行技師を経て、明治38年(1905)に辰野金吾 と辰野片岡建築事務所を開設しました。同事務所は、大阪市中央公 会堂を設計することとなり、大正2年(1913)から建設を着工し、大 正7年(1918)に完成させました。大阪工業大学では、同大学開校 70周年を記念して、大阪市中央公会堂を模したメモリアルゲートを 建設しました。
大阪工業大学エントランスの前を通り西へ進んでいくと城北公園に行きます。
▲江野川の案内板
▲江野川に架かったていた大和橋の親柱
▲城北公園 と 園内の城北菖蒲園
(この時期菖蒲園は、まだ開園されていませんでした)
城北公園
昭和3年(1928)、淀川改修工事に伴い廃河川敷となった地を利用 して、「豊里公園」建設計画が立案され、昭和8年(1933)に起工し、 翌昭和9年(1934)に公園が開園しました。その際、大阪城の北方に 位置することから「城北公園」と名称を改めました。開園当時の設備 としては学校教材用の植物園や貸農園、池などがあり、後に昆虫館 が設けられました。
城北菖蒲園
昭和28年(1953)に城北公園内の貸農園が廃止され、花菖蒲 園の造成計画が立てられましたが、予算が付かず実現しません でした。その後、昭和36年(1961)に菖蒲園造成に着手し、翌年 から菖蒲を植え始めました。当時、菖蒲で有名だった名古屋の鶴 舞公園や明治神宮の菖蒲園から菖蒲を株分け・分譲してもらい ました。昭和39年(1964)には関西で初めてできた回遊式の花 菖蒲園として開園し、昭和49年(1974)に菖蒲園を面積1. 3ha まで拡張しました。5月下旬頃から約250品種、約13,000株の ハナショウブが咲き乱れ、開園期間中は毎年多くの見学者が訪 れます。
▲淀川左岸城北公園のモニュメント
▲千人塚
千人塚
昭和20年(1945)6月7日の大阪大空襲は、甚大な被害をもた らしました。戦死者数万人のうち、身元がわからない千数百人の 遺体をこの辺りに集め、疎開家屋の木材を利用して火葬しまし た。当時、黒煙が天に昇り、それは三日三晩に及んだとされます。
淀川ワンド イタセンパラ 発見の地
イタセンパラ 発見の地
別名ビワタナゴと呼ばれる日本固 有種の淡水魚で、板のように平た く、色鮮やかな腹部を持つことか らイタセンパラ(板鮮腹)と呼ばれ ています。淀川水系の他、富山平野 と濃尾平野にのみ分布し、淀川水 系では琵琶湖や巨椋池に生息して いましたが絶滅しました。淀川では ワンド周辺以外では見ることがで きず、現在はなかなか発見するこ と が で き ま せ ん 。昭 和 4 6 年 (1971)に淀川では絶滅したと思 われていたイタセンパラを市岡高 校の生物部がワンドで発見し、3年 後に天然記念物指定されました。
ワンド
淀川修築工事で用いられた 水制は、岸から川に向かって 垂直に幾つも設置されまし た。川が自然に運ぶ土砂は これらの水制にひっかかる ことで次第に溜まり、土砂 の上に木や草が生え始め、 時を経て現在数多く見られ るワンドの形になりました。 ワンドは水の流れがほとん どなく、魚の棲みやすい環 境が作られています。
ヨハネス・デ・レーケ
(1842~1913) 明治6年(1873)に日本政府招請 のお雇い工師(土木四等工師)とし て来日し、大阪に居住しながら淀川 修築工事に従事しました。淀川だけ でなく、大阪築港計画の立案、木曽 川改修など、明治36年(1903)に オランダに帰国するまでの約30年 間の功績が認められ、日本の近代 河川・港湾の恩人と言われていま す。
沖野忠雄
(1854~1921) 豊岡に生まれ、東 京 で大 学 南 校に通った 沖野は、明 治9 年 (1876)に文部省留学生としてパリ中央諸芸学校土木建築科に 留学し、フランスの土木工学を学びました。明治14年(1881)に 帰国した後、内務省に入省し、日本各地の土木監督署で諸河川の 工事に携わりました。明治22年(1889)に大阪を管轄する第四 区(後の改正で第五区)土木監督署勤務となり、土木監督署長と なった沖野は、明治27年(1894)に内務大臣・井上馨に「淀川高 水防禦工事計画意見書」を提出し、明治29年(1896)から行わ れた淀川改良工事の計画を立案、工事監督を務めました。翌明 治30年(1897)からは淀川改修と不可分の関係にあった大阪 築港工事の工事長を併せて務め、明治44年(1911)に内務技監 として東京に戻るまで長きにわたり大阪にて職を全うし、後に日 本の治水・港湾の祖と崇められる程の功績を残しました。
赤川廃寺跡
日吉神社
赤川廃寺、日吉神社
淀川大改修によって川床となった場所に、1225~1230年頃、赤川寺(せきせんじ 別名:大金剛院)と呼ばれる寺院があったと推定されています。赤川寺の境内には山王社または山王権現と呼ばれた神社があり、日吉大社の分霊を祭神としていました。赤川寺は大坂夏の陣の戦火によって炎上して廃寺となりましたが、神社は類焼しませんでした。その後、明治32年(1899)に淀川改良工事によって境内地を200m南へ移し、明治40年(1907)に山王社は日吉神社と改称しました。
赤川鉄橋
赤川鉄橋
正式には城東貨物線淀川橋梁と 言いますが、地元では赤川鉄橋と 呼ばれています。貨物列車の走る 鉄道橋の真横を木橋の人道橋が 通り、淀川堤防を散歩する人、自 転車に大変人気のスポットです。 1日のうち、貨物列車が通る本数 は限られていますが、幸運な時は 貨物列車を見かけることができ ます。大正14年(1925)に城東 貨物線を着工し始め、昭和4年 (1929)3月に吹田操車場~放 出区間が開通しました。貨物だけ でなく客車の運行については昭 和27年(1952)にすでに城東貨 物線客車運行促進同盟会が結成 されていました。JRおおさか東 線として、久宝寺駅から新大阪駅 までの工事施工認可を得ていま すが、放出以北は未開通です。現 時点の工事完成期限は平成30年 度末に予定されており、その時、 人道橋がどうなるのか注目が集 まっています。
現在人道橋は閉鎖されており東淀川区へ行くことはできません。
このコースは対岸の
東淡路1丁目バス停
がゴールになっていますが、通行止めの看板に従って左側に降りていき
赤川3丁目バス停
をご利用ください。
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美智子
は平成12年(2000)に完成した東横堀川水門は、道頓堀 川水門と対になっている閘門です。①門の前後で水面の 高さが違う時に水門内で水位の調整を行い船舶を航行さ せる、②大雨や高潮で水位が上昇する時は水門を閉めて 浸水被害を防ぐ、③潮の干満を活かして門を開閉して水 質
をきれいにする、という役割があります。水門が開閉す るときに船の信号がわりに出る噴水は、大阪市章「みお つくし」のかたちをイメージしてつくられたそう