紀伊山地の霊場と参詣道:熊野古道 大辺地 1 紀伊田辺~日神社 白浜 2018.03.02

 
 
熊野古道:大辺路が始まりました
熊野古道・大辺路とは紀伊田辺から海岸線に沿いに進み、熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)に至る道のことです。中辺路に比べ距離が長く、奥駈をする修験者や西国巡礼を三十三回行う「三十三度行者」と呼ばれる専門の宗教者が辿る道であったそうです。ただし、江戸時代からは、信仰と観光を兼ねた人々の利用が知られ、本来の姿が良好に保たれている範囲は限られていますが、海と山の織りなす美しい景観に恵まれた道だといわれています。
 紀伊田辺駅前11:30➡蟻通神社11:47➡藤巌神社➡二つ池➡田辺工校➡大潟神社13:10―13:20-➡峠の地蔵➡山王橋➡保呂の虫喰岩15:43―15:53➡庄川口➡富田橋➡草堂寺➡2.3km戻って➡紀伊富田駅へ➡白浜駅(泊)  民宿innしらはま 駅の宿
熊野古道:大辺路は武蔵坊弁慶生誕の地、紀伊田辺からスタートします 
▲北新町道標 中辺路と大辺路の分岐点
北新町(三栖口)の道標は、往時の賑わいを今に伝える貴重な史跡です。高さ218cm、幅厚約30cmの石製角柱で、安政4年(1857)の秋、大阪西横 堀炭屋町の石工・見かげや新三郎が再建したものです。
ここ三栖口は、熊野道の中辺路ルートと大辺路ルートの分岐点で、本町・栄町方面からやってきた旅人 は、「左 くまの道」に従って普通は万呂・三栖方面(中辺路)へ進むわけです。小さい字で「すくハ 大へち」とあるのは直進すれば礫山・新庄方面(大辺路)へ続く事を示しています。逆に万呂方面からやって来ると「右 きみゐ寺」に従い栄町・本町へと進むことになります。
蟻通神社
 春を待ち、いよいよ熊野古道大辺路をスタートすることにしました。大阪からの移動なので紀伊田辺駅のスタートが午前11時と、かなり遅くゴールの時間が気になるところではありますがメンバー全員、元気に、はじめの第一歩を踏み出しました。まずは蟻通神社にお詣りです。
むかしのことです。ここ紀州田辺に外国の使者がやってきました。
その使者は『今から出す問題を解いてみよ もし解けなければ日本国を属国にしてしまう』といいました。そして、持ってきた法螺貝を出して、その貝に一本の糸を通すことを命じました。
日本の神がみは、この難問にたいへん頭を痛めました。その時、ひとりの若い神様が前に進み出て『私が法螺貝にその糸を通してみせましょう」といって貝の口からどんどん蜜を流し込みました。蜜は、貝の中の複雑な穴を通り抜けて貝尻の穴へと流れ出しました。そして、この若い神様は蟻を一匹捕らえて糸で結び貝の穴から追い込みました。蟻は甘い蜜を追って、複雑な貝の穴を苦もなく通り抜けました。蟻の体には糸が結ばれていますから法螺貝には完全に糸が通ったのです。
これを見た外国の使者は『日の本の国はやはり神国である』と恐れその知恵に感服して逃げ帰りました。
日本の神がみは、たいそう喜んで『我国にこれほどの賢い神があるのを知らなかった』といって、その若い神様の知恵をほめました。そして、蟻によって貝に糸を通したことにより蟻通しの神と申し上げるようになりました。今では知恵の神とあがめられています。
▲藤巖神社(とうがんじんじゃ) 
 馴染みのある闘鶏神社でまずはスタンプ押しを済ませます。「来たことあるよねぇ!」「トイレ借りとこ」山の中と違い、町中歩きは目印の建物などが無くなっていたり、建て替わっていたりと立ち往生するときも度々あり、目標の神社仏閣を見つけた時にはホッといたします。
現在の田辺の原形を作られた,田辺藩初代藩主「安藤直次(藤巖公)」の功績に感謝し、明治19年(1886)有志により、鬪雞神社境内に建立された神社です。
安藤直次(なおつぐ)   弘治元年(1555)~寛永12年(1635)
安藤直次公は幼少から徳川家に近侍し、姉川合戦、長篠合戦長久手合戦などに従軍。のちに家康の側近として幕政に参画しました。
慶長15年(1610)家康の第十子頼宣の傳役となり、大阪の陣には頼宣に従って出陣。元和五年(1619)頼宣が紀伊に移ると、紀州徳川家附家老として田辺藩主となり三万八千八百石を支配しました。
屋敷城(後の錦水城)の築城と城下町の整備が進められ、商業や文化面に力を注ぎ、領内に痩せ地や耕作不能の土地が多いことから、梅の栽培を奨励。税を免除して保護政策を取ったことで梅栽培が広まったと伝えられています。
寛永12年5月13日没。享年81歳 位牌は田辺市内の慈航山海蔵寺に安置されており、墓所は三河国磐海郡(愛知県岡崎市大和町)桑子山妙源寺。
法名が『藤巖院殿祟賢居士』であるため「藤巖公」と呼ばれています。 
 ▲闘鶏神社 本殿  ▲武蔵坊弁慶と熊野別当 湛増の像
古くは田辺の宮、新熊野権現(いまくまのごんげん)田辺の宮などと呼ばれていた闘鶏神社でしたが、次に記す故事により、新熊野鶏合権現(いまくまのとりあわせごんげん)、新熊野闘鶏権現社(いまくまのとうけいごんげんしゃ)などと称されるようになりました。闘鶏神社となったのは明治に入ってから。神仏分離令によりそのように改名させられました。 闘鶏神社という社名は次のような故事によります。
弁慶&湛増 源平の合戦も大詰めに入ったころ、熊野別当 湛増が平氏に味方するか源氏に味方するかを迷い、占いをたて、神意を問うことにした。その占いとは、社前で赤白の鶏をたたかわせ、赤の鶏を平氏、白の鶏を源氏に見立てて勝ったほうに味方するというものであった。赤白の鶏を相対峙させてみると、赤の鶏は白の鶏を見て逃げだした。これを見て、湛増は源氏に味方することを決めたという。 この故事により闘鶏権現という呼び名が生まれました。
湛増は2000余人、200余艘に及ぶ熊野水軍を率いて壇の浦へ出陣。平氏を壇の浦に沈めたのでした。
▲県道31号の橋谷交差点より南東に入ると古い街道筋を歩きます
▲街道沿いに佇む赤いポストは今も現役で活躍しているそうです
大潟神社
 出発して2時間ほどで大潟神社に到着。ここは毎年7月14日にお祭りがあり、その前日の「ぎおんさんの夜見世」で有名です。祭りの前夜、名喜里橋から神社までの家々で、軒下や玄関先に出し物を飾りつけます。昔話や伝説に 因んだものや縁起のよいものを、野菜、花、木の葉などで工夫して作るものです。新庄町名喜里の民俗行事で、これを夜見世といいます。その昔、大潟神社のぎおんさんに夏場の流行り病をお払いしてもらうために始まったと伝えられています。参拝後、しばし休憩しました。国道を少し歩き峠の高地蔵を過ぎたあたりに「糠塚」がありました。熊野に向かってのこのあたりが、ぬかるんでいたからともいわれているそうです。地名って面白いですね。
道分け地蔵 ▲昔の街道 ▲峠の高地蔵
▲藪をかき分けるようにして街道を歩きます  ▲町に降ろされた峠の高地蔵 
▲峠の高地蔵
▲峠の大師堂 ▲糠塚(ぬかづか)
JRの跨線橋を越えて櫟原神社を目指します
▲櫟原神社(いちはらじんじゃ)
山王橋
紀伊本線を越え朝来街道を歩いて行くと冨田川に架かる山王橋(潜水橋)に出ました。山王橋は四万十川に架かる沈下橋と構造がよく似ており橋の欄干がありません。風も強くおっかなびっくりで渡っているとバイクが走って来るのが見えました。「えーっ?こわいなぁ!端っこに寄ったら落ちそうや!」どうしたものかと立ち往生していましたが相手は慣れている郵便屋のバイク、構わず突っ込んできます。「ちょっと待ったたらどやの?怖いやないのっ!」と言うと「スミマセン」と言って通過していきました。ほんの少しの心遣いが欲しかったです。ほんま怖かったです。 
▲山王橋から保呂の虫喰岩に向かいます 
▲保呂の虫喰岩と大日如来堂
保呂の集落に入り、しばらく田圃の中を歩いて行くと保呂の虫喰岩に到着し、驚きの光景が目の前に広がっていました。蜂の巣にも似た形状で虫喰岩が目の前にドカーンと立ちふさがるように存在していました。虫喰岩の手についた砂で体の不具合部分をなでると治るとも言われているそうです。
保呂の虫喰岩は、地元住民から「大日さん」と呼ばれて古くから親しまれ観音堂の横に露出する砂岩層に形成されています。大小無数の小洞窟が虫喰状の特異な岩肌が珍しい景観を示しています。(高さ約20m、幅約30m)
虫食い状になった大岩をご神体にしているらしい。神社の中に洞穴がありご神体の不動明王が祀られているらしいですが見えませんでした。
▲天然記念物おおうなぎ生息地 ▲平間神社 鳥居 ▲記念樹
天然記念物おおうなぎ生息地 
しばらく国道歩きをして行くと大ウナギの看板を見つけました。
大ウナギは普通のウナギと種類が違い、目方は10~20㎏に達し、体長は割合に短く胴まわりが太く腹に斑点が多いのが特徴だそうです。
そうこうしているうちに平間神社に到着です。
▲平間神社(ひらまじんじゃ)
満願寺(まんがんじ)
▲魚濫観音 (ぎょらんかんのん)
魚籃観音は、三十三観音に数えられる観音菩薩の一つ。中国で生れた観音の一つで、同じ三十三観音のひとつである馬郎婦観音(めろうふかんのん)と同体ともされる。
中国唐の時代、魚を扱う美女がおり、観音経・金剛経・法華経を暗誦する者を探し、めでたくこの3つの経典を暗誦する者と結婚したがまもなく没してしまった。この女性は、法華経を広めるために現れた観音とされ、以後、馬郎婦観音(魚籃観音)として信仰されるようになったという。この観音を念ずれば、羅刹・毒龍・悪鬼の害を除くことを得るとされ、日本では中世以降に厚く信仰された。形象は、1面2臂で魚籃(魚を入れる籠)を持つものや、大きな魚の上に立つものなどがある。 
日神社 (にちじんじゃ)
更に進んで万願寺を参拝しました。ここから宿まではアスファルトばかりの国道歩きのため時間短縮と体力温存のためにタクシーを呼ぶことにしました。タクシーに乗り「日神社」に立ち寄ってもらい富田川沿いに走っているとタクシーの運転手さんに「郵便橋」の説明をしてもらいました。明治4年に便制度が始まったころ、富田川を渡るいくつかの渡しのうち、ここの渡しだけは郵便物を乗せるために県営で行われていました。その由来から「郵便橋」と命名されたそうです。
▲今夜のお宿 ▲今夜の夕食 やぶ寿司
タクシーを利用したおかげで宿には約束の時間にチェックインできました。宿は素泊まり専用のため、宿の女将の勧める寿司屋で、まずは腹ごしらえと祝杯をあげました。魚が新鮮で何を食べても大阪とは一味違うご馳走に疲れが吹っ飛びました。飲んで食べて・・一体お勘定はいかほどかとドキドキしていたら安かったっ!
旅の感想文
 ●JON
久しぶりのロングウオーク、少々疲れました。紀伊田辺~紀伊富田間は平成27年10月以前の改訂版では和歌山県街道マップには紹介されていませんでした。29年1月の改訂版から、今回歩く紀伊田辺~紀伊富田、見老津~串本と古座~那智が導入されましたので紀伊田辺の北新町道標から那智の振分石道標までつながることになりました。
今回のコースは街歩きだけかと思いきや、距離こそ短いのですが藪の中を歩いたり、昔は船で渡ったであろう富田川にかかる潜水橋を渡ったり楽しいこともいっぱいでした。中でも保呂の虫喰岩や平間神社の神殿の美しさは格別でした。
 ● ひ め
紀伊田辺駅前で仁王立ちし、にらみをきかす弁慶像。何度となく熊野古道で訪れており、妙に懐かしさを覚えました。以前には海辺に大きな弁慶像が立っていたのですが今は何故かありません。弁慶が田辺生まれだとする考えは、地元では広く信じられています。1日目の印象深い箇所は何と言っても保呂の虫喰岩でした。重かった身体がフワッと宙に浮いたような嬉しさでした。上まで行ってはみたものの・・・もうちょっとで滑り落ちるところでした。(笑)
 文:美智子姫 
 
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は平成12年(2000)に完成した東横堀川水門は、道頓堀 川水門と対になっている閘門です。①門の前後で水面の 高さが違う時に水門内で水位の調整を行い船舶を航行さ せる、②大雨や高潮で水位が上昇する時は水門を閉めて 浸水被害を防ぐ、③潮の干満を活かして門を開閉して水 質をきれいにする、という役割があります。水門が開閉す るときに船の信号がわりに出る噴水は、大阪市章「みお つくし」のかたちをイメージしてつくられたそう