神崎川 佃防災船着場  
平安時代には皇族、貴族の熊野詣の起点として、江戸時代には大坂、京都を往き 来する三十石船の発着場として賑わった八軒家。現代でも電車や水上バスが往 来して、交通の要所としての役目は昔から変わっていません。そんな熊野街道筋を歩きます。 
 京阪電車の改札を出て北の方に向かって建物から出れば八軒家浜です
八軒家 浜(川の駅はちけんや) 京阪電車中之島線の工事に伴って整備され、平成20年(2008)3月29日開港。桟橋を3基連結 し、観光船が同時に3隻まで着岸できます。平成21年(2009)8月1日にはレストラン・観光船案 内所・情報発信スペースからなる「川の駅はちけんや」がオープン。水辺の遊歩道も整備されてい ます。
八軒家浜船着場跡 仁徳天皇が開削した難波の堀江は八軒家界隈という説がありますが、当地は古代より海上交通の要所として栄えたようで、『万葉集』にも詠まれています。江戸 時代には大坂と京都を結んで淀川を行き来した三十石船の船着場があり、8軒の船宿があったため八軒家と呼ばれました。下り(京都⇒大坂)は約6時間、上り (大坂⇒京都)は約12時間かかったと記録があります。また森の石松の「江戸っ子だってねぇ、寿司食いねえ」の話は、この三十石船の中での出来事ということに なっています。
 ▲旧八軒家浜船着場跡 熊野街道起点の碑
熊野街道 渡辺津(窪津)を起点とし、熊野三山への参詣に利用され た街道です。京都から淀川を船で下り、八軒家浜に上陸、 御祓筋を南下して四天王寺、住吉大社などを経て熊野に 向かいました。平安時代中期頃から上皇や貴族の熊野詣 が盛んになり、後白河上皇は34回、後鳥羽上皇は28回も 参詣しています。やがて武士、庶民もこれに続き、たくさん の人々がこの街道を行き来したため、「蟻の熊野詣」と呼ば れるようになりました。街道沿いには、熊野権現の分霊を 祭祀した九十九王子と呼ばれる王子社が設けられ、参詣者 は参詣道中の無事を祈念しながら熊野三山への旅を続け ました。王子社は道標や休憩所としての役割も兼ねていま した。
▲昆布処 永田屋
永田屋さんの前から西へ一筋、そこに熊野古道起点の碑が建っていますここを左に折れて南下していきます三筋目を右に入ります。
角から大坂町中時報鐘の屋根が見えます
 大坂町中時報鐘
大坂町中時報鐘 寛永11年(1634)、3代将軍徳 川家光が大坂城を訪れた際、大 坂三郷の地子銀(固定資産税) を永久に免除することを約束し ました。これに感謝した人々は 鐘楼を建て、時刻を報じて永く その恩恵を記念しました。明治 3年(1870)に鐘楼は撤去され ましたが、地元有志の努力によ り昭和60年(1985)元の場所 へ。現在でも1日3回鐘の音を響 かせています。
元の道まで戻り南下を続けていくと右手に大きな中大江公園があります。この公園の北側のやや西寄りに宇野浩二文学碑があります。
▲宇野浩二文学碑 『清二郎夢見る子』(中大江公園)
宇野浩二(本名:宇野格次郎)は、明治24年(1891)、福岡 市で生まれ、幼少期を大阪の糸屋町(中大江公園界隈)や宗 右衛門町で過ごした後、明治43年(1910)、早稲田大学英 文科に入学。大正8年(1919)に発表した『蔵の中』『苦の世 界』により新進作家としての地歩を確立し、ユーモアとペー ソスを交えた饒舌体の作品を多く発表しました。しかし昭 和2年(1927)、妻と愛人との板挟みなどから精神異常に 陥って入院。昭和8年(1933)に『枯れ木のある風景』で復 帰すると作風が一変し、昭和13年(1938)の『器用貧乏』や 昭和23年(1948)の『思ひ川』など、無飾の文体で冷厳に 現実を見つめる作風となり、「文学の鬼」と呼ばれました。
 中大江公園の南東角からさらに一筋南へ下り東へ入るとすぐに山本能楽堂があります。
▲山本能楽堂
昭和2年(1927)、先代・山本博之氏が創立しました が、昭和20年(1945)の大阪大空襲で燃失。その後、 昭和25年(1950)に3階建ての木造建築として再建 し、平成18年(2006)には文化庁より登録有形文化財 の指定を受けています。客席は1、2階とも桟敷席の舞 台で、鏡板は松野奏風作で老松を下から見上げる珍し い形です。屋根は桧皮葺きで舞台の重厚感を一層引き 立て、また音響効果を良くするため、舞台下には大きな 瓶が12個並べられています。
 ▲山本能楽堂  ▲月山貞一旧居跡 
▲山本能楽堂から東へ一筋目を南へ下り本町通を越えて一本目を東へ入ると右側に月山貞一旧居跡があります。
月山貞一旧居跡 月山とは日本刀の刀匠の一派で、 鎌倉から室町時代にかけて出羽国 月山を拠点に活動していました。幕 末には大坂に移住し、関西を拠点 として作刀活動を行っています。初 代貞一は帝室技芸員に選ばれて宮 内省御用刀匠となった名刀鍛冶 で、明治天皇の佩刀や伊勢神宮の 宝刀も製作しています。
月山貞一旧居跡から東へ進むと谷町筋へ出ます。ここは横断できませんので右に折れて次の信号を東側に渡りすぐ北へ進みます。100mほど行くと舗道の左側に井原西鶴終焉の地碑 があります
井原西鶴終焉の地碑
 井原西鶴(本名:平山藤五)は寛永19年(1642)、大坂鑓 屋町で生まれました。西山宗因に師事し、談林派の俳諧を 学びました。連続で多くの句を作る「矢数俳諧(大矢数)」 の分野で大活躍し、一昼夜に2万3500句を詠む最高記 録を打ち立てました。その後は浮世草子に力を入れ、『好色 一代男』『日本永代蔵』『世間胸算用』などを執筆。この碑は 西鶴没後300年を記念し平成5年(1993)9月25日(旧 暦8月10日・西鶴の命日)に西鶴文学会の手により建てら れました。
 井原西鶴終焉の地碑から350mほど北へ進み谷町2丁目の交差点を右に折れるとすぐに大阪英語学校跡碑があります。
 ▲大阪英語学校跡碑
大阪英語学校跡碑 明治2年(1869)、大阪に舎密局(せいみきょく)と洋学校 が開校。舎密局は理化学を教える学校、洋学校は理科・ 史科・政科・兵科・文科・語科など基礎的な分野を系統的 に教える学校でしたが、後に統合、名称変更を繰り返し、 明治7年(1874)4月、大阪英語学校となりました。この 学校では、単に語学だけでなく外国語による一般教科目 の授業が行われ、広く西日本各地から生徒が集まる特色 ある存在でした。明治22年(1889)には京都に移転し、 第三高等学校(現在の京都大学)となりました。
 大阪英語学校跡碑から東へ進み次の信号を北へ折れると左手に大阪府庁があります。右手には大阪城の天守閣が見えます。
▲大阪府庁 ▲大阪城
大阪府庁 初代大阪府庁は中央区本町橋付近にあっ た西町奉行所を使用していましたが、明 治7年(1874)に西区江之子島に移転し、 大正15年(1926)には現在の大手前に 移転しました。建物設計にはコンペ方式を 取り入れ、全国81通の応募の中から、平林 金吾・岡本馨両氏の共同設計が採用され ました。この庁舎の本館は現役で使用さ れている全国一古い都道府県庁舎です。
大阪府庁から北へ進み大手前の交差点を渡って左折すると大坂東町奉行所址碑があります。
▲大坂東町奉行所址碑
 大坂には大阪城京橋門外、西外堀の西側に東西2 つの奉行所が置かれ、1ヶ月交代で執務にあたって いました。奉行所は、町奉行⇒家老⇒用人⇒取次⇒ 町与力⇒町同心という機構であり、両町奉行の配 下で実務を担当したのは町与力30騎と町同心50 人でした。享保9年(1724)の大火(妙知焼)で両 町奉行所は焼失し、一時難波別院(南御堂)に移り ますが、まもなく東町奉行所は元の場所に再建さ れ、西町奉行所は本町橋東詰に移転しました。
 今回はここがゴールになります。ここから少し戻って大手前交差点の北に架かる跨線橋に上がると大阪城の乾櫓と西外濠の景色を楽しむことができます。
 
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 文:美智子姫 
は平成12年(2000)に完成した東横堀川水門は、道頓堀 川水門と対になっている閘門です。①門の前後で水面の 高さが違う時に水門内で水位の調整を行い船舶を航行さ せる、②大雨や高潮で水位が上昇する時は水門を閉めて 浸水被害を防ぐ、③潮の干満を活かして門を開閉して水 質をきれいにする、という役割があります。水門が開閉す るときに船の信号がわりに出る噴水は、大阪市章「みお つくし」のかたちをイメージしてつくられたそう