神崎川 佃防災船着場
淀川の下流部にあたるこの辺りは、難波八十嶋(やそしま)と言われたほど多くの島々がありま した。古くは田蓑島と呼ばれた佃島には難波の海で魚を獲る多くの漁民が生活をはじめました。神崎川を挟んだ対岸の大和田は「浜清く」と万葉集に詠われた難波の浜が広がっていました。
今回のスタート地点の阪神本線駅:千船駅
千船駅東の方に出て駅舎に沿って神戸方向に進みます。交番の左奥に見えるのが見市家です。
見市家
見市家と藪床 (佃鍬入の地)
15世紀の半ば、寛正年間に紀氏、見市 氏、芥川氏など17軒の者が協力してこ の地の開発をはじめました。土地には大 藪といわれる藪の根が四方に延びて、 開発は困難を極めました。「佃鍬入の地」 の碑があるところはかつて見市家の屋 敷があったところで、藪床(やぶとこ)と 呼ばれ、2000坪(6600平方メートル) の土地に米俵100俵を収納する米蔵が あったそうです。いまでも、見市家には 古文書や古地図など多くの歴史資料が 保存されています。
(一般公開はしていません)
此処から東へ進んでいくと佃幼稚園、そこを左へ、幼稚園に沿って右へ。幼稚園のはずれを左へ折れ次を右折、細い道を東へ進んでいくと開発公園の中に佃鍬入の地碑があります。
佃鍬入の地(開発公園入口すぐ左)
明正寺裏通り
佃鍬入の地
当地は長禄、寛正年間(1457年~1466年)に紀氏、見市氏、芥川氏、平岡氏、江川氏、渡辺氏、高岡氏、神田氏、佃氏など17軒の者が協力して開発せし所なりと、此の所は大藪といわれる藪の根が四方に張りて網の目の如く土地に食ひ入り張りめぐらし土地は堅く開墾を総称して俗に藪床と云ひし由
「意は藪どころの義なりとぞ」
と記されている
そのまま東へ進んでいくと国道2号に出ますのでそこを左折。左門橋まで進みます。そこで国道2号の信号を渡り少し戻り次の辻を東へ入ります。
国道2号
左門橋左岸防潮鉄扉
左門殿川と左門橋
左門殿川と左門橋
元和3年(1617) 、たびたびの洪水を防 ぐため、尼崎城主戸田左門氏鉄(うじか ね)が大規模な改修をしました。領民が その名を偲んで川に「左門殿」という名 をつけました。現在のようになったのは 昭和初期で、鉄鉱石、石炭、木材、紡績素 材の重要な運搬航路でした。
被爆者鎮魂の碑と地蔵尊
上の写真では 右方向に進み佃小学校に沿って右折します。校門当たりを左折して進んでいくと田蓑神社へ到着します
田蓑神社
田蓑神社
住吉の大神を祀る佃の産土神です。こ の辺りは昭和初期までうっそうとした 森に囲まれていました。神社境内には大 阪府下で最も古いといわれる狛犬(元 禄15年正月17日)が本殿垣内にありま す。また、家康の没後、寛永8年(1631)、 当社に東照宮が祀られました。将軍家 との特別の関係が窺われます。「佃漁民 ゆかりの地」の石碑は大阪市によって 建立されました。
徳川家康と佃漁民
天正14年(1586)、徳川家康が大坂住吉大社から摂津多田神社へ 参拝の折りに神崎川の渡船を佃漁民が務めた縁で、家康が江戸幕府 を開いたのちにも特別な関係が結ばれました。慶長17年(1612)、 将軍家に献魚の役目を命じられ、佃村の庄屋、森孫右衛門と佃・大和 田の漁民34名が江戸に入りました。彼らに「江戸近辺の海のどこで 漁をしてもよい」という特権が与えられ、さらに日本のどの海でもよ いと拡大され、税も免除されました。大坂の佃漁民もこの特権を行 使したそうです。おそらく幕府隠密としての海の監視という役目もあ ったのではと言われています。江戸に定住した佃漁民たちは、隅田川 河口の干拓の許可を得て造成事業を行い、正保元年(1644)に完成 させ、その土地にふるさとと同じ佃島と名付けました。今でも大阪と 東京の佃島の交流があります。森孫右衛門の墓は、江戸からふるさ とへ帰って正行寺にあります。
紀貫之の歌碑
謡曲「芦刈」 ゆかりの地碑
東照宮
紀貫之歌碑
平安時代の歌人紀貫之が旅の途中田蓑嶋(現在の佃)に立ちよられ歌を詠まれたのが次の歌です。境内に歌碑があります。
雨により 田蓑の嶋を けふゆけど なにはかくれぬ ものにぞありける
謡曲「芦刈」
昔、津の国の難波に仲のよい夫婦がおりま した。川辺の芦を刈りながら貧しさに耐え暮 らしていましたが、「そなたのような若い女 にこんなみじめな暮らしをさせておくこと はできない」と、男は妻を京にやり、別れて暮 らすことにしました。女はやがて貴人に仕 え、優雅な生活を手に入れ、見違えるほど美 しくなりましたが、難波の男のことを片時も 忘れられません。お祓いを受けるという口 実で供を連れて難波へでた女は、芦を刈っ ている男に出会います。乞食のようにみす ぼらしい男でしたが、それは夫。すだれの間 から見える高貴な女は、妻。さて、謡曲「芦 刈」では、ここで男と女が歌を交わして、互い の気持ちを伝え、ともに京へ向かうというこ とになっています。男「君なくてあしかりけり と思ふにもいとど難波の浦ぞすみうき」(君 と別れて悪いことをしたと思うけれど、芦を 刈って暮らす難波は住みづらいことよ)女 「あしからじよからんとてぞ別れにしなにか 難波の浦は住みうき」(よかれと思ったから 別れたのです。難波の浦が住みにくいなん て言ってはなりませぬ)しかし、謡曲の原典 になったであろう『大和物語』では、女は泣き 崩れ、男はいずれとも知れずどこかへ去って いきます。あなたはどちらの話が好きです か。佃の川岸には、その昔、芦が群生してい ました。謡曲「芦刈」の碑は田蓑神社にあり ます。
田蓑神社からは来た道を戻り佃小学校に沿って左折次の道を右折、西へ向かって進みます。広い道は国道2号です。この信号を渡って左折、神崎大橋から右に折れて佃ふれあい公園に入ります。神崎川に沿って千舟橋まで右岸を歩きます。
神崎川と佃防災船着場と公園
神崎川
丹波からの安威川と北摂からの猪名川が合流して神崎川となり、そ もそもは淀川と別の水系でした。ところが淀川の洪水を防止するた めに、延暦4年(785)、和気清麻呂が安威川と淀川をくっつける工事 を行いました。これによって、京から瀬戸内へ出る航路は神崎川回り が最短コースになり、平安時代から江戸時代にかけて大いににぎわ ったものです。千船大橋を渡ると一帯は大和田になります。
ちふねばし
神崎川左岸を走る なにわ自転車道
千舟橋を渡り左岸のなにわ自転車道を歩きます。150mほど行ったところから左に降り、大和田住吉神社に向かいます。
大和田住吉神社
大和田住吉神社万葉歌碑の由来
濱きよし うらうるはしき 神代より 千船のとまる 大和田の濱
万葉集にかいまみることのできる大和田を歌った古い和歌の碑である 併しこの歌の大和田の泊と呼ばれた付近を読んだものであるとの説があるが これは謬りで 摂津名所図会には大和田が
「御手村の西北にあり此所尼崎に近くして河海の界なり 故に魚鱗多し殊に鯉掴という なお浦浜古詠あり兵庫の和田岬とするのは謬也」
とことわってある
なお土佐日記の一文を引用しこの歌をのせているのでこの万葉碑の重要性を再認識したいものである
判官松の碑の由来
平家物語巻第十一逆櫓の記述によれば
「元暦二年二月三日 九郎大判官義経 都をたって摂津国渡辺(今の堀江)より ふなぞろへして八嶋へすでに よせんとす。三河守範頼も同日都をたって摂津国神崎(今の西淀川)より兵船をそろえて山陽道におもむかんとす」とある。平家追討の軍勢は折からの台風の襲来にあい一時退避を余儀なくされ 陣を張ったのがこの地である
その時義経はあらためて住吉大明神に海上安全の祈願をし一本の松の苗を手植えした それが判官の松の由来である 亦一説に義経の軍が流れ着いた時 大和田の庄屋が鮒の昆布巻きを献上しこまごまと生活の煩事を援助した 喜んだ義経は食事の箸を地中に立てその意を天に示した どうしたことかみりみるうちに生きかえり松の姿に生長した
尚、この庄屋に「鮒子多」の姓を与えたとも伝えられている(大和田墓地に鮒子多家の塚と墓石が現存している)
爾来この判官の松は年と共に天を突き沖を往き交う船人たちに航海の指針として親しまれた。
明治十年雷火の為に不幸にも焼失の災いにあい今はその大要を地元青年団が良しに刻み後世に伝えている
境内の案内板に記述
大和田住吉神社から神崎川の方向に進み、船溜まりの堤防に上がると水に浮かぶ白天宮が望めます
大和田川跡の船溜まりに浮かぶ白天宮と阪神高速道路
大和田川(新千船橋) と船溜まりと鯉つかみ
神崎川から分流し て、昔、大和田川が 流れていました。そ の分岐点が現在の 船溜まりです。その あたりでは鯉の手 つかみ漁が盛んで 「大和田の鯉つか み」と言われていま した。一度に6匹の鯉をつかむ技 の持ち主がいて殿様の前で実演 し、鯉屋六兵衛の名前をもらっ たそうです。大和田川には大和 田街道に新千船橋が架かってい ました(昭和3年~46年)が、そ れはモダンな鉄橋の初代心斎橋 が移設されたものでした(現在 は鶴見緑地西橋に再移設されて います)。その親柱が住吉神社に 保存されています。
船溜まりの南角から西の方へ進んでいくと大和田街道に出ます。ここを渡って阪神電車本線 出来島駅を目指します。
歴史の道 大和田街道
大和田街道
中之島から尼崎・大物へ通じる旧道で、大正15年(1926)に淀川大橋 が完成し新国道ができるまでは中国街道から山陽道へ向かう幹線道 路でした。地元の人は、梅田街道とも阪神街道とも旧国道とも呼んで いました。
阪神電車西大阪線 出来島駅
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文:美智子姫
は平成12年(2000)に完成した東横堀川水門は、道頓堀 川水門と対になっている閘門です。①門の前後で水面の 高さが違う時に水門内で水位の調整を行い船舶を航行さ せる、②大雨や高潮で水位が上昇する時は水門を閉めて 浸水被害を防ぐ、③潮の干満を活かして門を開閉して水 質をきれいにする、という役割があります。水門が開閉す るときに船の信号がわりに出る噴水は、大阪市章「みお つくし」のかたちをイメージしてつくられたそう