鼻川神社
今回のスタート地点のJR塚本駅
塚本駅は西側に出てください。駅舎を出たらすこし神戸方面に寄ってから西方向に歩き始めてください。
塚本駅から鼻川神社の御旅所への道
鼻川神社の御旅所
鼻川神社の御旅所です。
御旅所の東側の曲がりくねった街 道が、昔の中津川左岸の名残り であるといわれています。『摂 津名所図会大成』によれば、「中 津川の下流 野里村にあり この 街道は大坂より尼がさきにい たる近道なるがゆへに 西国往 返の旅人兵庫西の宮尼が崎等 の諸商人ことごとくこの渡しを 越ゆるにより常に行人間断な く 別けて尼がさきの魚商人飛 脚をはじめ西宮兵庫の飛脚諸 商人日毎に通行して頗る賑わ しき道条なり」とあります。
御旅所の東側の道を南へ下ってください。これが昔の中津川の跡です。道なりに進んでいきます。
中津川の跡 この川ではモクズガニがよく獲れ島村蟹と呼ばれて野里の名産物だった
島村蟹
戦国時代の享禄4年(1531)6月、尼崎から大坂に かけて細川晴元・三好元長連合軍と細川高国との あいだで「大物(だいもつ)崩れ」と呼ばれる合戦が 行われ、とくに最大の激戦地となったのが野里川 (中津川)で、5千人とも1万人ともいわれる犠牲者 を出しました。そのさいに細川高国の臣・島村貴則 の奮戦が凄まじく、最後は敵兵ふたりをかかえ川 中に身を投じたといわれます。その後、野里川には 人面蟹が発生して、これは島村貴則の恨みのこも った島村蟹だ、という伝説を産み出しました。
花川墓地財産区の牛馬納骨塔
園内のお地蔵様
中津川堤防跡と くろがねもち
中津川堤防跡とクロガネモチ
当地は明治29年~43年(1896~1910)の淀川 改修工事により埋め立てられた中津川左岸堤防の 位置に当たります。堤防に自生したクロガネモチが いまも残っていて、平成15年(2003)、「緑の遺 産」として大阪市保存樹に指定されました。
此処を過ぎたら堤防下の道に出ます。右に折れると鼻川神社です
。
西成大橋親柱
西成大橋親柱の碑
鼻 川 神 社 境 内 に ありま す 。明 治 4 2 年 (1909)に新淀川開削が完成しましたが、 そのさいに架けられたのが西成大橋です。 現・淀川大橋の付近にあって、梅田街道(大 和田街道)に通じ、梅田方面から西淀川区 へ入る玄関口でもありました。親柱の碑文 には「明治41年12月竣工」「延長四百四間 参分(約735メートル)」「高欄内法参間(幅 約5.5メートル)」と記されています。
鼻川神社
鼻川神社
社伝によれば、神功皇后が鹿島に御幸のさ いに当地に立ち寄り、付近の住民たちが柏 の葉に載せた餅を献上。神功皇后は、当地が 無名であると聞いて、川の対岸に突出した 「鼻」のような地形であったので地名を「は なかわ」、渡しを「かしわ」と命名しました。そ の後、神功皇后を祀り、後に住民と関係の深 い海老江の氏神、須佐之男命を併せて祀る ようになったのが神社の縁起といいます。
鼻川神社前の堤防から梅田方面をの望む
新淀川
有史以来、淀川は、しばしば大洪水を起こしてきました。なかでも明治18年(1885)6 月の大洪水は有名で、大雨で枚方付近で200メートルほど堤防が決壊して、大阪市中 が水浸しの大災害を被りました。そこで淀川支流の中津川を拡張して新淀川を作り、 大阪湾に水を流すという遠大な改修計画をオランダ人土木技師デ・レーケが立案。予 算がないので、なかなか着工されませんでしたが、日清戦争後の明治29年(1896)、 公共河川法案が帝国議会で可決され、ついに改修工事が開始されました。デ・レーケの 設計案をもとに大阪築港計画も併せて進められ、沖野忠雄博士による技術的修正を 加えて工事は進み、毛馬の閘門が完成。淀川から大川への流量が調節され、明治42年 (1909)、ついに新淀川が誕生しました。この工事で、新流路にあたる町村は水没し、 3000名を超える人々が立ち退きを余儀なくされたと言われています。
淀川大橋北詰
野里交差点
鼻川神社から車道を西へ進んでいくと国道2号の淀川大橋北詰にでます。ここを右に折れて野里交差点まで進んでください。
野里本町商店街
野里交差点を過ぎると右側に野里本町商店街がありますので、そこを右に折れて商店街を歩いてください。
住吉神社門前の旧家
商店街を出ると野里住吉神社があります。 左側を見ると旧家があります。
野里住吉神社
淀川戎神社
野里住吉神社
社伝によれば、永徳2年(1382)、足利義満の創 建といいます。野里は、明治末期の新淀川開削 までは、旧中津川の右岸に沿って開かれた村落 でした。現在の野里住吉神社の東側の石垣は、そ の当時の中津川の堤防の名残をとどめていま す。毎年7月31日と8月1日の2日間に渡って、夏 祭が執り行われ、北之町の枕太鼓、中之町、東之 町、西之町の3台のだんじりが町中を行き交い ます。とくに8月1日夜の宮入は、だんじり、枕太 鼓が一同に集まり、その大迫力は見物です。
野里住吉神社一夜官女の祭りの由来と乙女塚
一夜官女祭 野里住吉神社の神事(府の指定文化財)です。かつて野里村は「泣き村」と呼ばれるほど、風水害 や疫病に見舞われた時代がありました。悩み苦しんだ村人たちは「村を救うために乙女を神に 捧げよ」という神託を聞き、旧暦1月20日に白矢の打ち込まれた家の娘を唐櫃に入れ、人身御 供として捧げることにしました。7年後、村を通りかかった1人の武士がこの話を聞いて「神は人 を救うが人を犠牲に求めることはない」と述べ、乙女の身代わりに唐櫃の中へ。翌朝、村人が様 子を窺うと武士の姿はなく、唐櫃から血の跡が点々と残っていて、それを辿ると大蛇(狒々とい う説もあります)が絶命していました。講談などでは、この武士は武者修行中の岩見重太郎とさ れ、のちに直木三十五や司馬遼太郎が小説化しています。現在の一夜官女祭は2月20日に執り 行われ、氏子より選ばれた7人の少女が美しく飾られた御供物の桶7台とともに神前に進み献 じます。祭具の中には元禄15年(1702)の墨書のものがあって、300年以上前からあることは 確認できています。また毎年、乙女が運ばれた場所は社殿裏の龍の池で、その池は現在は埋ま り、跡地に乙女塚が建てられ、往時を偲んでいます。
野里住吉神社の東側を北方向に進んでいくと右側に 野里の渡し跡・槲の橋跡 があります。
槲の橋・野里の渡し跡碑
野里の渡し跡・槲の橋跡
新淀川改修以前の中津川はこの付近を流れ、「野里の渡し」が置かれていまし た。『摂陽群談』(元禄14年・1701年刊行)には「野里済(わたり)」とあり、尼崎方 面への街道の一部になっていました。その後、明治9年(1876)に「槲(かしわ) の橋」という有料の木橋が架けられ、この橋は中津川が埋め立てられる明治 39年(1906)頃までありました。
此処から北へ進んで一本目をひだりへ、また一本目を右に行くと旧い佇まいの池永家住宅 があります。一般公開はされていません。
文化庁・登録有形文化財 池永家住宅
池永家住宅
江戸時代の都市近郊農家で、歴史的景観に寄与しているものとして、国指定登録 有形文化財になっています。主屋は18世紀中期に建てられ、文化年間(1804~ 1818)の増改築を経て、明治中期に現在の形となりました。柱や土間の梁組など 古民家の要素をよく残していて、かつての野里村の農村景観を彷彿とさせます。
池永家住宅の前にある 北之町子安地蔵・道祖神
今回はここがゴールになります。東の方向に進んでいくとJR塚本駅へ行きます。
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文:美智子姫
は平成12年(2000)に完成した東横堀川水門は、道頓堀 川水門と対になっている閘門です。①門の前後で水面の 高さが違う時に水門内で水位の調整を行い船舶を航行さ せる、②大雨や高潮で水位が上昇する時は水門を閉めて 浸水被害を防ぐ、③潮の干満を活かして門を開閉して水 質をきれいにする、という役割があります。水門が開閉す るときに船の信号がわりに出る噴水は、大阪市章「みお つくし」のかたちをイメージしてつくられたそう