大野川緑陰道路 
西淀川区には竹島、御幣島、佃島、出来島、百島、中島、城島、西島、外島など島という地名が非常に多くあります。古代に 大阪湾に淀川の大量の土砂が流れ込んで砂州が大小の島々となり、「難波八十島」と呼ばれた時代の名残ですが、その うちのひとつ姫島を廻ります。新羅の女神アカルヒメ伝説や、中島大水道の悲話を追いながら・・・。
阪神本線「姫島駅」
明治38年(1905)4月12日に阪神本線開業と 同時に稗島駅として開業しました。その後、大正 14年(1925)に姫島駅に改称されています。姫 島という地名は、昔、アカルヒメが新羅の王子ア メノヒボコに嫁いだもののうまくいかず、九州 を経由して難波に逃げました。その時に滞在し た比売島(大分県姫島)から名付けられたとい われています。また「ひめ」がなまって「ひえ」(稗 島)とよばれ「へじま」と発音されていた時代も ありました。 
姫島駅を出たら淀川の方向に進んでいきます。堤防の壁に突き当たったら右へ行くと堤防上に上がる階段と右に折れる道があります。これが歴史の道大和田街道です。
難波八十島と国産み伝説
西淀川区には、姫島以外にも竹島、御幣島、佃 島、出来島、百島、中島、城島、西島、外島など島 という地名が非常に多くあります。これは古代 に大阪湾に淀川の大量の土砂が流れ込んで砂 州が大小の島々となり、「難波八十島」と呼ばれ た時代の名残といわれています。月日が経ると ともに自然と島々が出来上がっていくことか ら、これは八百万の神々の力によるもので、記紀 神話の「国産み伝説」の原型になったともいわれ ています。また、かつては天皇が交代するたびに 「難波八十島祭」というのを執り行いました。巫 女が天皇の御衣を難波の地に持ってきて禊ぎ を行い、国産みの神々の祝福を祈願するという 即位儀式でした。
 歴史の道 大和田街道
明治41年(1908)竣工。起点は難波橋北詰で西 成大橋・姫島・大和田・出来島・佃・左門殿川を通り 終点は大物(尼崎市)にいたる旧国道です。大物か らは中国街道に合流し、西宮を経て山陽道として 下関に達する主要幹線道路でした。姫島村のメイ ンストリートで、かつては商店、市場、芝居小屋(大 源座)などが立ち並び、現在でも慈雲寺、遍満寺、 姫島神社などがすべて街道沿いにあります。しか し、大正15年(1926)に淀川大橋が架かって新国 道ができると、自然と街道は廃れてしまいました 
 慈雲寺 真宗大谷派
西暦1580年頃、藤原氏の流れを くむ重藤重左衛門が出家して祐徳と名乗って道 場を開いたのがはじまりで、その後、東本願寺よ り木仏本尊を賜りました。江戸時代は天満別院 となり、江村姓が代々住職を務めています。宝物 に親鸞聖人真筆の大経三願文(京都国立博物 館預託)、鎌倉期の釈迦十六善神像(奈良国立博 物館預託)があります。また本堂再建時に本尊 真下の地中より、「安永9年8月3日釋尼榮喜」と 記された素焼きの骨壷が発掘されました。
大和田街道沿いにある旧家と祠 
大和田街道と府道の交差点の「姫島バス停」にある路アシス
 遍満寺
正式には龍法山遍満寺といいます。 開基は初代住職・釈浄願で、天文6 年(1537)に創立されました。姫島 最古の寺院です。明治7年(1874) には、西成郡第5区の第3番校(慈雲 寺)、第4番校(遍満寺)が創設され ましたが、これが現在の大阪市立姫 島小学校の前身となります。姫島住 民は慈雲寺を「東の寺」、遍満寺を 「西の寺」と呼んでいます。
姫島神社
創建年代は不詳ですが、江戸初期にはご鎮座していたといわれています。ご祭神は阿迦留姫命と住吉大神です。『摂津国風土記』 逸文には「比売島の松原。昔、軽島の豊阿伎羅の宮に天の下をお治めになった応神天皇の世に新羅国に女神があった。夫から逃 れて筑紫国の伊波比の比売島に住んでいたが、この島へ夫が尋ねて来ると難波の島に逃げた。それで前に住んでいた島の名前を とって比売島と名づけた」という記述があります。また『古事記』の応神天皇条には「新羅国の女が昼寝をしていると、その陰上に 太陽が虹のように輝き、やがて産んだ赤玉が美女と化したのがアカルヒメである」という記述があり、「アメノヒボコはアカルヒメ を追って難波に渡来しようとしたが渡しの神が遮ったため、引き返して但馬国に留まった」という記述もあり、この渡しの神は住 吉大神という説もあります。『日本書紀』には、100年後の安閑天皇の時代に「牛を難波の大隅嶋と媛嶋松原に放つ」とあって、姫 島が白砂青松の松原となって放牧地であったことが記述されています。境内には明治33年(1900)建立の万葉歌碑「妹が名は 千代に流れむ 姫島の 小松がうれに 苔生すまでに」があり、「千代に」「苔生すまで」のフレーズから『古今和歌集』の「君が代」に影 響を与えたといわれています。題詞によれば「和銅4年(711)、歳次辛亥、河辺宮人、姫島の松原に娘子の屍を見て悲嘆しびて作 る歌」で、河辺宮人はどういう人物か謎ですが、飛鳥の河辺の宮(川原宮)に関連する人物という説もあります。また樹齢900年と いわれる大楠がありましたが、残念なことに空襲で焼かれてしまい、現在は根と幹だけになっています。
大野川緑陰道路
大野川緑陰道路は、西淀川区歌島二丁目から百島二丁目に至る約 3.9キロメートルの歩行者・自転車専用道路で す。大野川遊歩道とも呼ばれます。もともとは神 崎川と新淀川を結ぶ大野川で、かつては地域の 舟運や治水などに利用されてきました。しかし 時代が下ると工場排水によって河川の汚濁が目 立つようになり、環 境 改善として昭 和 4 6 年 (1971)から埋め立てられ、昭和54年(1979) に完成しました。
 中島大水道跡碑
江戸時代、北中島地域22ヶ村(東淀川区・淀川 区・西淀川区)は一万数千石の米を生産する農村 でしたが、淀川・神崎川・中津川に囲まれた低湿地 で、古代から水害に悩まされ、悪水抜きの排水路 が必要でした。そこで延宝元年(1673)、一柳太 郎兵衛、西尾六右衛門、沢田久左衛門の三庄屋が 排水路を設けてほしいと幕府に強訴。延宝5年 (1677)、幕府は「工事費用を百姓が負担するな ら」と許可しますが「全負担では難しい」と嘆願す ると許可が取消されました。業を煮やした三庄屋 は延宝6年(1678)、新太郎松樋を水路拠点に無 許可で工事を強行。村民は老若男女を問わず参 加して昼夜の別なく働き、福村吐口樋までの 5102間(約9200メートル)、深さ3尺(約90セ ンチメートル)の水路を28日間(50日間説もあ り)で完成させました。しかし無許可工事に幕府 は激怒して出頭を命令。三庄屋は同年4月9日、 西村の細目木(現・淀川区西中島7丁目)付近で江 戸の方角を向き抗議の自決をしました。村民たち はこの悲壮な行為に感動し、幕府もこれを無視で きず、2年間かけて補助金も出し、中島大水道を 完成させました。その後、明治30年代から40年 代にかけて行われた淀川改修工事に伴って神崎 川支流の大野川と合流。300年以上の長きに渡 って地域住民に多大な恩恵を与えてきましたが、 都市化とともに河川機能を失い、大野川とあわせ て埋め立てられてしまいました。
 中島大水道跡碑を過ぎた次の横断歩道辺りから南へ折れて、だんじりの通る道を南へ下っていきます。途中旧い趣のある工場やお菓子屋さんの前を通りスタート地点の阪神電車本線の姫島駅へと戻ります。ゴーーーーーールです。
阪神電車本線 姫島駅に到着です
 
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 文:美智子姫 
は平成12年(2000)に完成した東横堀川水門は、道頓堀 川水門と対になっている閘門です。①門の前後で水面の 高さが違う時に水門内で水位の調整を行い船舶を航行さ せる、②大雨や高潮で水位が上昇する時は水門を閉めて 浸水被害を防ぐ、③潮の干満を活かして門を開閉して水 質をきれいにする、という役割があります。水門が開閉す るときに船の信号がわりに出る噴水は、大阪市章「みお つくし」のかたちをイメージしてつくられたそう