011-019
 
東横堀見聞録 天下の貨の七分は浪華にあり
 天正13年(1585)に豊臣秀吉の命で大坂城の外堀として開削された、大阪市内で最も古い堀川・東横堀川。東側の上町から東横堀川に架かった高麗橋を越えると船場に入り、そこは「天下の貨、七分は浪華にあり」と謳われたほど、煌びやかで華やかな商家文化が息づいていました。戦後の高度経済成長時代に川の上に高速道路が通されて往年の景観は損なわれましたが、近年は地元住民や東横堀川水辺再生協議会(e-よこ会)などの活動によって、数々の水辺再生の取り組みが為されています。いま時代の最先端を進む「最も新しい堀川・東横堀川」。その魅力に迫るまち歩きです。
 今回は京阪本線北浜駅近くの大阪証券取引所前がスタートです。
 ▲大阪証券取引所  ▲五代友厚像
大阪証券取引所は金融の町北浜の象徴でもあり金の相場会所跡でもある大阪証券取引所前からスタートします。
天正13年(1585)に豊臣秀吉の命で大坂城の外堀として開削された、大阪市内で最も古い堀川・東横堀川。東側の上町から東横堀川に架かった高麗橋を越えると船場に入り、そこは「天下の貨、七分は浪華にあり」と謳われたほど、煌びやかで華やかな商家文化が息づいていました。
五代友厚は維新の動乱で衰退した大阪経済を近代化に導いた立役者。「大阪の恩人」と言われるほどにその生涯を大阪の発展に捧げ、49才という若さで他界。五代は家業に固執する大阪商人たちを説得し、多くのジョイントベンチャーを興します。大阪市内には五代ゆかりの場所が数多く残っており、そのうちのいくつかは今なお大阪の経済の重要な役割を果たしています。
五代友厚像があるので一番有名なのはこちらの「大阪取引所」。大阪のビジネスパーソンならだれもが一度は目にしたことのあるこの銅像ですが、このモデルとなった人物が五代友厚だと知ったのは最近のこと…という大阪人も結構多いはず。
「大阪の恩人」と言われながらも、普段の生活ではなかなか触れる機会のない五代の功績。ですが、証券の街・北浜近辺には大阪の近代化に大きく貢献した五代の銅像が残っています。
土佐堀通の北側歩道を東へ歩いていくと北浜レトロがあります。
▲北浜レトロ   ▲三権分立 暫次立憲のレリーフ
美しく優雅な空間から想像もつかないくらい古い歴史を持つ北浜レトロ。
1912年(明治45年)建築され、国登録有形文化財にも指定されており、かつて証券会社や専門商社の社屋として使用されていました。
中層ビルの間に埋もれ、1994年を最後に廃ビルと化していたところ現オーナーさんの目に止まり、北浜ビルヂングと名付けられたこのビルは建築当時の姿のままにリノベーションされ、1997年に「北浜レトロ」がオープン。 
 更に東へ進んでいくとビルの一階に花外楼があります。その前の信号を南へ渡り通りの南側歩道を東へ進むと葭屋橋と今橋のV字ゾーンに出ます。
▲花外楼
 大阪会議と花外楼
維新の元勲たちが1875年(明治8)に大阪に集まって立憲政体の樹立を約した会議。
征韓論の紛議や、征台の役に反対して、多くの参議が辞職。「大久保利通」を中心とする政府は、孤立無援の状態になった。
そこで「井上馨」「五代友厚」の周旋により、同年1月に大久保利通・木戸孝允・板垣退助・伊藤博文らが、大阪に会し2月に至って、政治改革についての合意をみた。
その内容は元老院・大審院・地方官会議を設け、内閣と各省を分離し元勲は内閣にあって輔弼に任じ、第二流の人物によって行政の責にあたらせるというものであった。
この会議の結果、板垣と木戸が参議に復帰し、4月14日に政体改革に関する大詔が発せられ、漸次立憲政体へ移行することが国是となった。
この会議の成功を祝って「木戸孝允」より贈られた屋号が「花外楼」であり、以来政界や官界の大立物が、続々と出入りされることとなった。
明治8年、日本の政治の行方を決める重要な会議、俗にいう「大阪会議」がこの北浜にある「花外楼」で開催されました。
「葮屋橋よしやばし」遊興の地・築地への架け橋
俗に築地と呼ばれた蟹島遊廓への通路として設けられた橋。この遊廓は天明4年(1784)、葭屋庄七らによって開発されたもので、橋も天明年間 (1781~1789)に架設されたと考えられています。蟹島の地は大川の眺望が非常によく、料理屋、旅館などが建てられ発展しました。近年、東横堀川の玄関として、船の運航ルール標識が川に 面して設置されました。 一つの欄干に二つの橋名があるのは非常に珍しいです
 「今橋」上町から仙波への新たな橋
豊臣末期の頃には、すでに架けられていたと言われていま す。大坂の陣などの折か、何かの事情でなくなったものが、 この通りが繁昌するにつれて新しく橋が架けられ「今橋」と 名付けられたとされています。かつて葭が生い茂るだけの 浜岸だった地に、江戸時代には大両替商が軒を並べ、橋近 くに平野屋五兵衛と天王寺屋五兵衛が向かい合って店を開 き、二丁目には鴻池屋も開店し以後の鴻池繁栄の根拠地と なりました。
今橋を渡り右に折れて道なりに左カーブをしていき、二本目の道を南へ折れると左手に開平小学校の塀があります。此処の壁にはいろいろなレリーフあり。
▲大阪市立開平小学校校門と南西角にある「天五に平五 十兵衛横丁の碑」とレリーフ 
江戸時代、経済制度の発展に伴い、今日の銀行的業務の必要が生じ両替商が生まれてきた。大坂では寛永5年(1628)天王寺屋五兵衛が始めたのが最初という。寛文10年(1670)には幕府により十人両替が誕生した。ここにはその中でも最大手の天王寺屋五兵衛と平野屋五兵衛の2軒が、道を挟んで店を構えていたことからこのように呼ばれた。 
 校門の前を通り、次の角を南へま、た次の角を東へ折れて進んでいくと右手に渋谷利兵衛商店があります、そのまま進むと高麗橋です。
 渋谷利兵衛商店  高麗橋
渋谷利兵衛商店創業享保9年(1724)、9代目当主が伝統を伝える老舗婚礼儀式品店。戦前には中之島に結婚式場や花嫁学校を経営し、総合ブライダルプロデュースの先駆けともいえる商いを展開。「ホテルで神前結婚式」というスタイルは、七代目当主と御霊神社、旧大阪ホテル(大阪初の西洋式ホテル)が協力して開発したとのこと。 
▲高麗橋 大阪歴史の表舞台
大坂城築城の頃、外堀として東横堀川が掘られた時に架けられたとされています。橋の名前は当時この橋を中心に高麗 との貿易が盛んだったとか、迎賓館の名前に因んだものだと か言われています。江戸時代、大坂城と船場を結ぶ橋の中でも公儀橋として最重要視され、西詰には御触書を揚げる高 札場、明治時代に東詰には諸国への距離をはかった起点= 里程元標が設けられました。高麗橋通りには呉服や食べ物 などの店が立ち並び商業の中心地として繁栄し、明治3年 (1870)には大阪で初めての鉄橋に架け替えられました。
 高麗橋を渡り松屋町筋の手前まで行くと右手に大阪銀座跡があります。
 東京より先にあった大坂の銀座
銀座とは、江戸幕府の銀貨の鋳造・発行所のことである。慶長6年(一六〇一)、徳川家康(とくがわいえやす)が京・伏見で、堺の銀商・大黒常是(だいこくじょうぜ)に鋳造させたことに始まる。伏見では銀の品位を決め、通貨を製造していたが、慶長13年(一六〇八)には現在の京都市中京区に移された。時を同じくして大坂にも銀座ができたが、通貨の製造はせず、おもに生野・石見(いわみ)銀山の産銀や粗銅から抽出した銀を京都に回送していたようだ。銀座はこのほかに静岡と長崎にあり、東京の銀座は慶長17年(一六一二)に駿府から移されたものである。すべての銀座は明治元年(一八六八)に廃止される。3年後には造幣局が創設され、貨幣の製造を開始した。
 ここから引き返して高麗橋を渡って左折、すぐ階段を下って東横堀川緑地へ入っていき川沿いに南下します。
高麗橋から見た東横堀水門
「東横堀川緑地」は、大阪最古の堀川である「東横堀川」に沿った緑地公園である。 東横堀川自体歴史が深く、 1594(文禄3)年大阪城の総構え として開かれた。「葭屋橋」「今橋」「高麗橋」「平野橋」「大手橋」「本町橋」「農人橋」の7つの橋を有し、歴史や文化を体験できるスポットが多く存在する。特に「高麗橋」は、江戸時代には公儀橋となり、街道の基点が集中した。また、近松門左衛門の浄瑠璃の舞台・大阪で初めて鉄橋になったなどの逸話が残る橋でもある。
 ▲東横堀川水門
東横堀川水門は 平成12年(2000)に完成した東横堀川水門は、道頓堀 川水門と対になっている閘門です。①門の前後で水面の 高さが違う時に水門内で水位の調整を行い船舶を航行さ せる、②大雨や高潮で水位が上昇する時は水門を閉めて 浸水被害を防ぐ、③潮の干満を活かして門を開閉して水 質をきれいにする、という役割があります。水門が開閉す るときに船の信号がわりに出る噴水は、大阪市章「みお つくし」のかたちをイメージしてつくられたそうです。
▲平野橋
御霊さん神明さんをつなぐ一六夜店。
江戸時代、平野橋を東にいったところに神明神社、西にいったところに御霊神社があり、その門前の盛り場として賑わっていました。1と6のつく日に定期的に開かれる 一六夜店は当時の大阪名物のひとつとされ、明治期までその賑わいは続いたそうです。平野橋両側の町名は旧町 名をそのまま受けついでおり、東側は「内平野町」、西 側は「平野町」といいます。このことから、東横堀川の東 側は大阪城の“内側”だったということが分かります。
 平野橋をくぐり南側から平野橋に上がります。ここから西へ進み二本目を南へ折れます。この辺りには数件の旧家屋を見ることが出来ます。また右手のマンションに気を付けながら進んでいくと一画に古い平野橋の碑があります。
そのまま進んで次の信号を左へ折れ突き当りを右へ折れると大手橋が左手に見えます
 ▲大手橋【北に行くか南に行くかの思案橋】
橋の東側をまっすぐ行くと大阪城の大手門に通じる大手橋。古くは思案橋と呼ばれていました。西側は行き止まり、北(淡路町通)へ行くか、南(瓦町通)へ行くか思案するところから命名されたとか、豊臣秀吉が五奉行の一人、増田長盛に、この橋の名前を付けるよう命じた時、思案してもなかなか決まらなかったことからとの説もあります。橋の一つ北側の通り内淡路町に忠臣蔵で有名な天野屋利兵衛の邸があったと言われています。
▲岸本瓦町邸 大阪産業創造館
東横堀川筋大手橋の西詰正面に岸本瓦町邸があります。住友工作部の笹川慎一の設計によるもので,竜山石による外装など住友ビルとの類似性が認められる。外観意匠は抑制されているが,室内意匠は密度が高く,昭和期大阪財界人の邸宅建築を代表する作品とすることができる。 大阪市(の外郭団体)が運営する、中小企業・ベンチャー企業を総合的に支援する団体のビルです。なので、一般の人が利用することは少ないと思いますが、地下にある大阪企業家ミュージアムは大阪のベンチャー企業(今では大企業になっている)の歴史をたどれる興味深い施設になっています。
そのまま南下していくと本町通に出ます。 
アイスクリームのゼー六 ▲本町橋
右:「本町橋」現存する大阪最古の橋
江戸時代には公儀橋であり、豊臣秀吉が大坂城築城 に際して東横堀川を外堀として開削した時に架けられたと考えられています。現役の橋としては大阪市内最 古の橋といわれ、大正2年(1913)に本町通が市電 開通にあわせて拡幅されたのと同時に建設されまし た。橋詰の北東側は、享保9年(1724)の大火事以降 に西町奉行所が、その後明治に入ると初代大阪府庁 が設置されるなど、行政の中心地となりました。
左:アイスクリームのゼー六
本町橋の西詰に佇む大正2年(1913)創業の 老舗喫茶店。名物のアイスモナカは大阪人なら 一度は食べたことがあるのでは。「ゼー六」とは 「贅六文化」のことで、禄(資金)、閥(人脈)、 引き(裏交渉)、学(学歴)、太刀(武器)、身 分、の6つの贅沢を必要とせず、心の通じ合う 商売をした大阪商人の生き方を大切にしようと いう初代の想いが込められています。
▲ゴールはシティプラザ大阪 ▲井原西鶴の碑     ▲上は天野屋利兵衛の碑   石垣護岸▲
ゴールはシティプラザ大阪太閤さんのひょうたんをイメージした建物です。そのあと、コースから外れていましたが天野屋利兵衛の碑まで行って見ました。訪れる人がいないのかペンペン草が生い茂り、あやうく見落とすところでした。 
  
 
    このページのTOPへ     
 文:美智子姫 
は平成12年(2000)に完成した東横堀川水門は、道頓堀 川水門と対になっている閘門です。①門の前後で水面の 高さが違う時に水門内で水位の調整を行い船舶を航行さ せる、②大雨や高潮で水位が上昇する時は水門を閉めて 浸水被害を防ぐ、③潮の干満を活かして門を開閉して水 質をきれいにする、という役割があります。水門が開閉す るときに船の信号がわりに出る噴水は、大阪市章「みお つくし」のかたちをイメージしてつくられたそう