012-009
 
浪華八百八橋!中之島名橋コレクション
TOPの写真は淀屋橋です 
かつての大坂は浪華八百八橋と謳われたほどの橋の名所でしたが、現在の中之島にも素晴らしい名橋が数多く架かっています。中之島の橋の物語、ドラマを巡りながら、水の都・大阪の歴史を探っていきましょう! 
中之島の名橋 かつて大阪は「浪華八百八橋」と謳われたほどの橋の名所でした。現在の中之島の名橋をご紹介します。
●堂島大橋…昭和2年(1927) 架橋。大阪空襲の痕跡が残っています。
●土佐堀橋…大正期に市電 桜川中之島線の開通のために新設されました。
●越中橋…北詰に肥 後・細川越中守の蔵屋敷がありました。
●常安橋…当初は田辺屋橋。 元禄期に淀屋常安にちなんで常安橋と改名しました。
●玉江橋…元 禄期に架橋。堀江橋と呼ばれていましたが堀江から珠玉が見つかった玉江伝説により改名。北詰に肥後藩や中津藩の蔵屋敷がありまし た。
●田蓑橋…多くの歌人に歌われた難波八十島のひとつ・田蓑島に因みます。
●渡辺橋…河村瑞賢の淀川改修工事で誕生。この界隈は江戸時代は米市場として栄えました。
●肥後橋…北詰に肥後藩蔵屋敷がありました。
●錦  橋…土佐堀川可動堰の橋部分を錦橋と呼びま す。錦絵ギャラリーとなっています。
●淀屋橋…豪商・淀屋が中之島に米市場を開いた時に架橋と言われています。
●大江橋…元禄期、堂島開発に伴って架橋。御堂筋拡幅時に淀屋橋とともに橋梁デザインの一般公募によって掛け替えられました。
●水晶橋…本来は堂島川可動堰という河川浄化を目的に建設されたゲートでした。橋名は照明灯が水面に移る様子が水晶の輝きに似ている事から。
●鉾流橋… 天神祭の鉾流神事に因みます。現在も橋のたもとで神事が行われま す。
●難波橋…奈良時代に行基が架けたという説があります。現在の橋は大正期の市電事業により架橋。橋の四隅に阿・吽のライオン像が 鎮座しています。
         浪華三大橋のひとつ。浪華の三大橋とは・・天神橋、難波橋、天満橋ですが天満橋はまだルートに入っていません
●天神橋…1594年架橋という記録があります。天満天神社が管理するので天神橋と呼ばれるようになりました。浪華三大橋のひとつ 
▲京阪電車・中之島駅 一番出入口 ▲中之島バンクス
 京阪電車・中之島線 中之島駅の一番出入口を出て右手に見えるのが堂島大橋です。
─中之島という場所で。
堂島川にかかる玉江橋と堂島大橋の間、その左岸に位置する中之島バンクス。その中にフラワーズ中之島バンクスはある。大阪市内中心部からも遠くないのに、ここはとても静かでのんびりとしている。
時間を忘れてゆっくりカプチーノでも飲んでいると、今自分がどこにいるのか忘れてしまいそうになるところ。
 ▲堂島大橋
 堂島大橋…昭和2年(1927)架橋。高欄親柱には大阪大空襲の痕跡が残っています。
 堂島大橋南詰から南へ進み直ぐ左手にそびえるビルが大阪府立国際会議場・グランキューブ大阪です
▲大阪府立国際会議場
G8サミット(主要国首脳会議)誘致のために大阪国 際貿易センター跡地に大阪府が建設しました。黒川 紀章の設計で地上13階、地下3階、高さ104.51メ ートルです。メインホールは最大2754名収容可能 で、隣のリーガロイヤルホテルと1階連絡通路で繋 がっています。 
 ▲土佐堀橋   大正期に市電 桜川中之島線の開通のために新設されました。
 土佐堀橋…大正期に市電桜川中之島線の開通のために新設されました。
大阪府立国際会議場・グランキューブ大阪の前をさらに南下していくと次に見えるのが土佐堀橋です。この橋を渡ったところの左手に大阪上等裁判所の跡があります。 
 ▲土佐堀橋の上から越中橋および肥後橋方面を望む  ▲大阪上等裁判所跡碑
越中橋…北詰に肥後・細川越中守の蔵屋敷がありました。
再び土佐堀橋を渡って北詰を右折して東へ進みます 
▲橋の畔の看板  ▲土佐堀川の北側を東へ向かって進みます
▲常安橋
常安橋…当初は田辺屋橋。元禄期に淀屋常安にちなんで常安橋と改名しました。 
▲玉江橋
玉江橋…元禄期に架橋。堀江橋と呼ばれていましたが堀江から珠玉が見つかった玉江伝説により改名。北詰に肥後藩や中津藩の蔵屋敷がありました。 
 常安橋から北へ進み玉江橋を渡って右折して福沢諭吉生誕の地碑を左手に見て次の階段を川床に降ります。
▲福沢諭吉生誕の地 ▲福島港(ほたるまち港) 福島緑道
福沢諭吉生誕の地:ここは「シリーズ002」で紹介済みです。川床の福島緑道を東へ進んでいくと蛸の松、次にある田蓑橋を南へ渡ります。
蛸の松顕彰碑:このあたりは江戸時代には諸国の大名の蔵屋敷が 立ち並んだ界隈です。慶長年間(1596~1615)に 広島藩主・福島政則が植えたとされる黒松は素晴ら しく、枝ぶりが蛸の泳ぐ姿に似ていたことから「蛸 の松」と言われて摂津名所にもなりました。残念な がら明治の後半に枯死し、その切り株は大阪教育 大学に保存されています。 ここは「シリーズ002」で紹介済みです。
▲田蓑橋と蛸の松
田蓑橋…多くの歌人に歌われた難波八十島のひとつ・田蓑島に因みます。
田蓑橋の南詰を東へ折れて進んでいくと左前方に見えてくるのが渡辺橋、京阪電車渡辺橋駅の出入口も右手に見えます。 
ダイビル
大阪市北区中之島に渡辺節の設計によって1925年(大正14年)9月に建てられた、大規模な事務所ビルである。低層部には村野藤吾デザインによる竜山石製の奇怪な装飾彫刻が見られ、このため「ネオ・ロマネスク様式の名建築」と評価された。この装飾彫刻に目が奪われがちであるが、全体を冷静に眺めれば、特に外壁に開けられた窓のプロポーションと配置は絶妙で、単にネオ・ロマネスク様式と片付けられない美点を持っているため、様式建築であることを否定して「近代建築の名作」との評価もある。
8階建ての構造でエレベーターも8階までだが階段で9階に上がり、屋上に出る前に9階の貸し部屋が存在していた。また地下には鉄格子扉で仕切られた小部屋が36室存在し、見た目は窓のない独房のように見えるが入居企業の物置として貸し出しをされていた。
ダイビル、商船三井、関西電力は老朽化(現代の技術では補修補強可能)および土地利用の見地から本物件の取り壊し・超高層ビルへの建て替えを計画を発表し、歴史的に重要な建築物の保存の見地から論議となった。
しかし、2009年11月末に解体工事を始め、跡地には2013年3月、地上22階・地下2階建て(延床面積48,198平方メートル)のダイビル本館が竣工した。
低層部には旧館の外装に使っていたレンガの85パーセント、石の装飾彫刻をできるかぎり再利用して、評価の高い外観やエントランスホールを残すように配慮したものとなっている。
また、新ビルは旧ビルの新館部分(1937年7月竣工、東側の白い外壁の部分)へセットバックしたような位置へ建設され、西側には中之島四季の丘が設けられている。
▲渡辺橋
 渡辺橋…河村瑞賢の淀川改修工事で誕生。この界隈は江戸時代は米市場として栄えました。 
 フェスティバルホール
 フェスティバルホール:高度経済成長に差し掛かったばかりの昭和30年代初期の日本に於いて、しかし芸術性の高い演奏会を開催するにふさわしいコンサートホールの類は未だ存在しなかった。
そのような状況の中、エディンバラやザルツブルクといった名だたる音楽祭に匹敵する国際的な音楽祭を開催出来るホールを大阪の地に、ということで昭和33年(1958年)4月3日に新朝日ビルディング内にオープンしたのが当ホールである。
土佐堀川に面する南側壁面には「牧神、音楽を楽しむの図」と題された信楽焼の大レリーフが施され、中に入ってみれば豪華なシャンデリアを備えるロビー、そして間口30.7m・奥行22.5mの大舞台と2,700席の客席を擁する当ホールは、当時世界有数と謳われるほどであった。
しかし老朽化のため、開館50周年を迎えた2008年いっぱいで建て替えのため一旦閉館。この時点で来場者数は4千万人に届くところまで来ていた。
そしてその一旦閉館から4年余り経った2012年12月、超高層ビルとして生まれ変わった「中之島フェスティバルタワー」の中で2代目当ホールは開館した。
中之島フェスティバルタワー     朝日新聞社   
朝日新聞社は大阪発祥であり、現在も登記上の本店は大阪本社である。取材拠点として「社会部大阪版」を擁し、他の地域本社とは一線を画する取材体制を持つ。東京本社による新聞発行が不可能となった場合(地震や火災、戦災などの有事の際)には、その業務を引き受けるバックアップ機能的な側面もある。
夕刊も発行する「セット版」は近畿2府4県の全域のみ。他の地域は朝刊のみの「統合版」である。
 渡辺橋を南下していくと肥後橋を渡ります。次に来るのが肥後橋交差点です。
  ▲大同生命大阪本社ビル  ▲肥後橋   ▲錦橋
肥後橋…北詰に肥後藩蔵屋敷があったことから肥後橋とついたようです。 
肥後橋 を左折して東へ進むとすぐに錦橋、この橋を渡り北へ進みます。
▲錦 橋
錦橋…土佐堀川可動堰の橋部分を錦橋と呼びます。錦絵ギャラリーとなっています。
錦橋北詰を右折して東へ進むと 中之島緑道です
 ▼中之島緑道
 ▲中之島緑道  ▲花の天女  ▲日溜り
 ▲空間の軌跡  ▲広場-鳩のいる風景
▲ くもの椅子  ▲風 標
 ▲十魚架 ▲ 一対の座  ▲ひだまりに遊ぶ
▲淀屋橋
 淀屋橋…豪商・淀屋が中之島に米市場を開いた時に架橋と言われています。
淀屋橋を北詰を東へ渡ると大阪市役所、御堂筋を挟んで西側に見えるのが日本銀行大阪支店です。 
▲大江橋と淀屋橋の西一画にある日本銀行大阪支店 ▲大江橋と淀屋橋の東の一画にある大阪市役所
江戸時代には島原藩蔵屋敷があった場所ですが、明治4年(1871)に郵便制度発足に伴って、郵便役所(大阪・京都・東京)が置かれました。その後、明治36年(1903)に辰野金吾らの設計による日本銀行大阪支店(旧館)が建てられました。近畿2府4県の日銀業務を統括しています。 本庁の入居する大阪市庁舎は、大阪市の中心部、中之島に位置する。
市役所の南側には淀屋橋が架かっており、また最寄り駅も淀屋橋駅であるため、市役所に行くことを「淀屋橋に行く」と表現されることもある。ただし淀屋橋より南側は中央区である。現在の庁舎は1986年に完成したものである。
▲大江橋
 大江橋…元禄期、堂島開発に伴って架橋。御堂筋拡幅時に淀屋橋とともに橋梁デザインの一般公募によって掛け替えられました。
▲大阪市役所 ▲大阪府立中之島図書館 
大江橋の南詰を右に折れて大阪市役所の北側を東へ進んでいくと右手に大阪市立図書館があります。この角を左に折れると水晶橋。 
 ▲水晶橋と水晶橋から見た大江橋  ▲水晶橋
水晶橋…本来は堂島川可動堰という河川浄化を目的に建設されたゲートでした。橋名は照明灯が水面に移る様子が水晶の輝きに似ている事から。
水晶橋からさらに北上していくと大阪高等裁判所・大阪地方裁判所・大阪簡易裁判所がありますので建物を一周するように歩いてください。
▲大阪高等裁判所・大阪地方裁判所・大阪簡易裁判所
佐賀藩蔵屋敷舟入跡復元石垣遺構(大阪高裁、大阪地裁内)
江戸時代、各藩は年貢米の換金や特産物の売買のため、水運の便のよい中之島周辺に蔵屋敷をこぞって建てました。このあたりは佐賀鍋島藩の蔵屋敷で、その名に由来して鍋島浜と呼ばれていました。平成2年(1990)、大阪高等裁判所構内で地下駐車場工事の際に実施された発掘調査で、蔵屋敷遺構の一部が発見され、長大な船溜・屋形・米蔵などの並ぶ様子が確認されました。
入口でガードマンに制止され 「カメラはダメですっ!」と 高飛車に強い口調で言われたので中に入っていません(確認出来ず)…でもスマホは良いの!?
それにしても、もう少し言い方があるのではないでしょうか。
大阪高等裁判所・大阪地方裁判所・大阪簡易裁判所の南角から鉾流橋を渡ると大阪市中央公会堂があります。
▲若松浜の跡碑 ▲鉾流橋
   天神祭の鉾流神事に因みます。現在も橋のたもとで神事が行われま す。
▲中之島 大阪市中央公会堂
大阪市中央公会堂(通称:中之島公会堂)は、1911年(明治44年)、株式仲買人である岩本栄之助が公会堂建設費として当時の100万円を寄付したことにより、1911年8月に財団法人公会堂建設事務所が設立され、建設計画が始まった。北浜の風雲児と呼ばれた相場師・岩本栄之助は渋沢栄一が団長となった1909年(明治42年)の渡米実業団に参加し、アメリカ大都市の公共施設の立派さや富豪たちによる慈善事業・寄付の習慣に強い印象を受けた。彼は父の遺産と私財をあわせた100万円を公共施設建設に寄付することを決め、蔵屋敷の廃止後衰退し再生を模索していた中之島に公会堂を建設することにした。
設計は、懸賞付き建築設計競技(最終的に13名が参加)により岡田信一郎案が1位となり、岡田の原案に基づいて、辰野金吾・片岡安が実施設計を行った。1913年(大正2年)6月に着工、1918年(大正7年)11月17日にオープン。岩本栄之助は第一次大戦による相場の変動で大きな損失を出し、公会堂の完成を見ないまま1916年(大正5年)に自殺した。
建物は鉄骨煉瓦造地上3階・地下1階建て。意匠はネオ・ルネッサンス様式を基調としつつ、バロック的な壮大さを持ち、細部にはセッションを取り入れており、アーチ状の屋根と、松岡壽によって天地開闢が描かれた特別室の天井画・壁画が特徴となっている。
中央公会堂前交差点から川沿いに東へ進んでいくと中之島バラ園に入ります
▼中之島バラ園
中之島バラ園は東西約500メートル、面積約1.3ヘクタールにわたって、約310品種、3700株のバラが植えられています。昭和55年(1980)に本格的なバラ園としてオープンしました。バラの作出の歴史が楽しめるように、1800年代~2000年代までの作出年代順に植栽されています。 
 ▲バラ園では結婚式が執り行われていました。
▲ライオン橋
難波橋…奈良時代に行基が架けたという説があります。現在の橋は大正期の市電事業により架橋。橋の四隅に阿・吽のライオン像が鎮座しています。
浪華三大橋のひとつ。 ライオン像は 010・淀屋橋のレポートに写真を掲載しています。
▲中之島公園 
 中之島バラ園内を東へ進んでいくとライオン橋をくぐり、ばらその橋を渡り、天神橋をくぐっていくと中之島東端噴水があります。ここがゴールです。▲ 
中之島東端噴水(ゴール)は平成21年(2009)、水都大阪2009の公園再整備の一環として、中之島東端(剣先公園)に噴水を設置。堂島川から取水した水をろ過・殺菌処理して大川に向けて放水しています。
噴水は風による影響を考慮して噴水規模を自動調整し、最大長さ約60メートル、最大高さ約20メートルの巨大なアーチを描きます。
 ▲天神橋
 天神橋…文禄3年(1594)架橋という記録があります。天満天神社が管理するので天神橋と呼ばれるようになりました。浪華三大橋のひとつ。
  
 
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 文:美智子姫 
は平成12年(2000)に完成した東横堀川水門は、道頓堀 川水門と対になっている閘門です。①門の前後で水面の 高さが違う時に水門内で水位の調整を行い船舶を航行さ せる、②大雨や高潮で水位が上昇する時は水門を閉めて 浸水被害を防ぐ、③潮の干満を活かして門を開閉して水 質をきれいにする、という役割があります。水門が開閉す るときに船の信号がわりに出る噴水は、大阪市章「みお つくし」のかたちをイメージしてつくられたそう