淀屋は江戸時代の大坂の豪商です。初代・淀屋常安は現在の北浜に居を構えて材木商を営みながら中之島を開拓して、常安橋に名を留めています。本姓は岡本で2代目以降、青物市(京橋)や雑喉場(靱本町)を開設し、さらに中之島に米市を開いて全国の米相場の基準をつくりました。淀屋橋は中之島に渡るために自費で架けた橋で、米市はそのあと堂島に移り、世界で最初の公設先物取引市場・堂島米相場会所となりました。周囲には蔵屋敷が135棟も立ち並び、井原西鶴の『日本永代蔵』にも淀屋の繁栄が描かれています。5代目の時に「町人の分限を超える贅沢」を理由に幕府から財産没収の「闕所」(けっしょ)となりましたが、その没収資産は現在価値で100兆円に上ると言われています。しかし危機を察知していた淀屋は闕所前に分家して、その後、大坂に復帰。幕末には勤王の志士を支援して全財産を朝廷に献上して、見事に倒幕を果たしました。 |
少し進んだら右手にあるSUMITOMO MITUIビルの正面玄関の右側に松瀬青々の生誕地の碑あり、さらに南側に手形交換所発祥の地の碑あり。 |
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▲松瀬青々(せいせい)生誕地 |
大阪の俳人(1869~1937)で、本名は弥三郎 といいます。当地に生まれて青年期に句誌『ホトトギス』に投稿して正岡子規に認められまし た。同誌の編集にも携わり、大阪朝日新聞では
朝日俳壇を担当。また『宝船』(のちに『倦鳥』)を 主宰して大阪の俳壇に重きをなし、「関西の高浜虚子」と呼ばれました。 菜の花のはじめや北に雪の山
元日や目出度顔なる貧乏人といった句を残しています。大阪あそ歩第一回の海老江編に「松瀬青々居住の地」がありました。 |