第四章 身辺整理 その13 一刀水が生まれて小学3年生まで育ったという川辺郡坊津町久志博多の集落は久志湾の南側にあった。 山手の小高い丘の博多浦を静かに見下ろせる場所に立って一刀水は話し始めた。 あそこに突き出した岬が見えるやろう。あれが宮崎鼻や。左のほうに小島が二つつがっているやろ、そこで湾の入り口を塞いでいるんや。そのため湾内は極めて静で天然の良港になっていたんや。此処の博多浦はなあ、古来より中国や琉球との貿易船が盛んに出入りして、非常ににぎやかであったといわれているんや。博多とはなあ、物が多く集まるところの意味でなあ、古く中国では交易商業の中心地を博多と言ったそうや。昔は筑前の博多と薩摩坊津の博多は共に商業貿易の中心であったんや。そんなんでなあ、博多浦はなあ、古代から海外貿易の拠点であったが故に、多くの唐人が移り住んだ所やったんや。唐人町もあった所なんや。琉球人の石工によって道には石畳が敷かれ、その中には唐針といわれる日時計が刻まれていたんやが、昭和二十六年のルース台風でおしくも破壊されてしまったようや。当時の石畳がうちの横やあちこちに残されているんや。 一刀水は歴史話をしながら両親の墓、兄の墓、伯父伯母の墓一竿一竿に花を手向けていった。 徳川幕府の鎖国令によって海外貿易が長崎一港に限定されたんは、学校で習って知っとるやろう。その時、ここ博多浦で隆盛を極めた唐人達はなあ、その居所を失なって、他に土地を求めてへ移り住んで行ったそうや。その時、墓も一緒に掘り起こされたと言うことでなあ、その跡の祠には地元の人々によって墓が建てたと伝えられているんや。唐人墓は、墓の礎が大きくその中が納骨室になっているのが特徴や。うちの実家の墓も親戚の墓もこの唐人墓の様式に習っているようやなあ。そんなんで徳川幕府の鎖国令の煽りを受けて坊津は衰退していったんや。 美智子は数回この久志博多を訪れていたがその度に変な墓だと感じていた。改めて一刀水からその説明を受けると大きく納得していた。母の実家の横を通る綺麗な石畳の道が何でこんな片田舎に有るのだろうという疑問も払拭することができた。 久志博多の大方の人は、表向きは真言宗、天台宗、禅宗を信心するふりをしながら「隠れ念仏」の浄土真宗の門徒であったと言われているんや。久志における一向宗は、博多浦における淳心講、今村地区の二十八日講が伝えられており、広島地方の一向宗を世に言う「安芸門徒」と言うように、ここ博多浦においても「真言堅固の博多浦」などと呼ばれるほど根強く信仰されていたようや。でもなあ高知に行ったら神式やろう、なんや複雑な気持ちやったで。 一刀水は自分の中の久志博多を紐解いていた。 この日の宿は指宿温泉にとっていたためそう長い時間居る事は出来なかったが満足するには充分の時間だった。 美智子夫妻は毎月のように、一刀水をどこかに誘い出していた。一度は日光を訪れて見たいと一刀水が話していたのを思い出した美智子は、日光東照宮に連れて行った。「日光の華厳の滝は、岩壁がボルトで補強されているらしい。どんな工事か見られるもんなら見てみたいなぁ」 普通なら日光といえば東照宮に興味を示すものを、一刀水は仕事柄か華厳ノ滝の崩落防止の工事に関心を持っていた。草津温泉で一泊。鬼怒川温泉でもう一泊。華厳ノ滝、中禅寺湖、戦場ヶ原を回る旅だった。 またある時は東北から南北海道を旅をしたこともあった。青森では青函連絡船の着岸壁の跡に感激し、洞爺丸の事故写真に我を忘れて見入っていた。また若い頃仕事で青森を訪れた時、長逗留した浅虫温泉を懐かしく思い、足を延ばして見た。青森湾に浮かぶ湯ノ島を懐かしみ、肌に熱い温泉を楽しみながら、昔話に花を咲かせた。八甲田山では新田二郎の八甲田死の彷徨をかい摘んで話しながら、後藤伍長の銅像を見上げている姿が何よりも印象的だった。酸ケ湯温泉では混浴を楽しみ、奥入瀬渓谷では大自然の様相に感激をしていた。 一刀水は日本書や古事記がことのほか好きだった。 鳥取の皆生温泉に行った時、此処まで来たんやから、出雲大社にお参りしたいと言いだして出雲にも足を向けていた。自分から強引に行こうといっておいて、いざ行くとなると決まって 「そうか出雲に行くんか、ほな行こうか」 他人事のように、うれしそうに言っていた。そんな可愛い一面を持ち合わせた男だった。 車窓から宍道湖に浮かぶ小さな漁船や嫁ケ島の景色を楽しんだ。 出雲大社は、昭和28年5月に、荒垣にあった古い拝殿・鑽火殿・庁舎などが不慮の火のために焼亡してしまいました。今の拝殿は6年後の昭和34年に竣功したものだった。本殿は、だいこくさまとして有名な大国主大神が奉られた、大規模な木造建築の本殿だった。「大社造り」と呼ばれる日本最古の神社建築様式の本殿は、現在国宝に指定されており、八雲山の山懐に抱かれるように様相を呈していた。 神楽殿の東側に建っている、唱歌「一月一日」の歌碑に興味をしめしたり、地上47mの高さを誇る国旗掲揚塔には建築家の見地からか感慨深げに見つめていた。この国旗掲揚塔に掲げられる日の丸の旗も畳75枚分に相当するという日本最大の国旗。この長大な掲揚塔に舞う巨大な国旗を一度は見てみたいものだと言っていたが、この日は風が強かったせいか、掲揚されていなかった。 「残念やなあ。こう風が強いとしゃあないか。でももう見ることも無いなあ」 寂しそうな声をあげていた。 仕事に出かけることも、めっきり少なくなった一刀水は、坂出の宿舎に置いてある荷物を引き揚げることにした。 かねてより気にはしていたのだが、なかなか分切りがつかず、延び延びになっていた。 2002年の秋も、終わろうとしている頃、四国の坂出行きを決行した。 車は山陽自動車道を西に向かって走っている。この道を幾度往復したことだろう。長崎に続いて坂出は数多く仕事に訪れたところだった。癌と宣告され、余命まで明らかにされてからも、おれは続いていた。 自分の身体は自分自身が一番よく解っているのだろう。あれだけ仕事一途だった男が仕事に行く回数が減り、最近ではほとんど行かなくなっている。口にこそ出さないが毎日痛み止めの薬を飲んでいるようだ。日に日に迫り来るその日。一刀水は確実にその日が忍び寄って来ていることを感じていた。妻に聞いて貰うこともせず。子供達に助けを求めることもせず。辛い日々に違いなかった。 昨日も兵庫県篠山市で行われている【篠山味まつり】に、一刀水と次女夫婦、そして二人の孫達を誘って秋の味覚を楽しんできた。本来雑踏は好まない男だったが、出店のおばちゃんに冗談を言って楽しんでいた。 「どう。お兄ちゃん。人が多すぎて疲れない」 そう言う美智子に 「家に居ったら病気のことが頭から離れへんけど、こんな所を歩いていたら病気のことを忘れられる。気を遣ってくれてすまんなぁ」 今まで一度たりとして、礼の言葉など、言う男ではなかったが、言われてみると可成り弱気になっているとさえ感じられる。今日の四国行きは篠山からの帰り道急遽決まった事だった。昨日と今日は連休、このまま大阪について、あの灯りの点いていない部屋に一刀水を戻すのが哀れに感じたのか、美智子は口を開いた。 「お兄ちゃんこのまま和倉温泉まで行こうか」 「どうして和倉やねん」 「夕べのテレビドラマでやってたから」 「和倉も良いし、輪島も良いし、能登は良いよな」 「じゃあ。行こう。輪島の朝市に行こう。輪島まで何時間かかる」 横で夫が指を折りながら時間を算出している。 「輪島まで8時間ぐらいだろう」 「今七時やろ。八、九、十……。休憩しながら行っても、朝の四時頃には輪島に着くわ。みんな行くでー」 とたんにはしゃぎ出す美智子。次女の旦那が明日夜勤で7時には病院に入らなければならないと言うが、まったくおかまいなし。大丈夫、大丈夫。帰れる帰れる。まったく無責任きわまりない状態である。僅かな間に車中は盛り上がった。舞鶴道を南下し中国道に移る頃だった。一刀水が徐に口を開いた。 「明日。四国に行こうや。坂出に行って荷物を引き揚げてきたいんや。だいぶ長い間放ったらかしにしているし。どうや」 「私は良いよ。お義兄ちゃんと一緒だったら、何処でも良いよ」 五十を過ぎた、おばさんの声とも思えない、可愛い声で話す美智子に、夫も次女夫婦も、 「わかった。解った。はいはい。おばちゃんの言うとおりにします」 「何か、諺にあったなぁ。『泣く子とみちこには勝てん』というのが」 一刀水のトドメとも思える一言に車内は興奮の分の坩堝と化した。 そして、取り敢えず自宅に帰り、今夜はゆっくり休んで、明朝六時に出発しようということになった。 車が瀬戸大橋を渡る頃、一刀水は寡黙になっていた。彼方に見える四国の山々に目をやりながら物思いに耽っていた。美智子も、正面に映える讃岐富士の尖った山容を見ながら、兄一刀水の出張先、坂出を幾度となく訪れたことを思い出していた。 「此処に来て自分の位置が解らなくなったらあの山を目座すんや」 そう言いながら、讃岐富士を指さした兄の姿を思い出していた。金比羅さんにも行った。琴引公園にも行った。栗林公園にも行った。訪れるたびに、義兄はこのあたりを案内してくれた。 ワンボックスカーの後部荷室にいっぱいの荷物を積んで坂出の宿舎を後にした。もうこれでこの街を訪れることも無くなるだろう。一つでも多くの思い出を作る旅はその土地との因果関係を断ち切る旅でもあった。瀬戸中央自動車道に乗るべく坂出北インターを目指している時だった。 「おい。番の洲公園に行ってくれへんか」 「どないしたん」 「最期に坂出の街を見ておきたいんや」 |
|
|||
![]() |
![]() |
||