【その11】 中村市から帰った一刀水は、名物の筏羊羹と岩海苔を持って串木野を訪れた。自分の病気を気遣ってくれることに対し、礼の心が動いたのだろう。 この日、ドアの向こうは満員だった。改めて出直そうとドアを閉めかける一刀水に、カウンターの中から声がかかった。 「大丈夫ですよ。一番奥の席、開いていますから」 言うが早いかカウンターの中から飛び出してきた。 身体半分を外に出している一刀水の耳元でささやいた。 「久しぶりにお見えになったのに。じきに空きますから、いつもの席にお掛けになって。心配していたんですよ」 女将は片腕を抱えて中に入れ、背中を押すようにして一番奥の席に案内した。 「ママ。いつ来ても空いている席に、今日は来客だね」 ほろ酔い機嫌のサラリーマン風の客がヤジを飛ばしてくる。 「そう。この人のために開けて居るんだから」 「はいはい。ごちそうさまです」 酔客はそれ以上話すことはしなかった。 「お気になさらないでね。満員になることもないからこの席は空けるようにしていたの」 「ありがとう。ちょっとテレるけど嬉しいもんだね」 カウンターに繋がる酔客の他愛ない語らいに耳を傾けるとも無く、目で女将のしぐさを楽しんでいた。 女将は所どころ酔客の話に合いの手を入れながら、手先は何やら料理を作っている。時折顔をあげて、全ての客に笑顔を振りまいていた。世の中には恵比須顔と言うのが存在するようだがこの女将も恵比須顔の持ち主に違いなかった。作り笑いをしている訳ではないだろうが、その面持ちは人の心を安らげる何かを秘めていた。 一刀水は女房和代の営むスナックには、殆ど足を向けることはしなかった。 男相手の商売が嫌と言う訳ではなかったようだが、足を向ける回数は皆無だった。幼い頃から他所の釜の飯を食ってきたせいか、人の心を読む力は誰にも増して長けていた。 そこでそんなことを口にしたら人の心に傷をつけるだろう。 その料理の提供の仕方は無いだろう、もっと丁寧にしろよ。 一部の人と馴れ馴れしい会話をしていたら、そうでない人は面白くないだろう気をつけろよ そんな事を目にするのが嫌だった。あとでそのことを注意すると決まって大喧嘩。そんなこんなで自ずから遠のいていた。 しかし、ここ串木野では、何も嫌なことを感じることはなかった。むしろ自分に良くしてくれることで他の客が嫌な思いをしてはいまいかと少々気を揉んでいた。女将は満遍なく愛想良くし、全ての客を楽しませていた。 一組の客が去り、二組の客が去ると店の中には一刀水だけになった。 表まで客を送ってから戻ってきた女将はカウンター中に入る自分の飲み物を用意すると、一刀水の前に立った。 「高知に帰ってらしたの」 「エッ、解るの」 「解るわよ。福田さんのことなら何―でもね」 「鋭いなあ、悪いことは出来ないね」 「そう悪いことでもなさってきたの」 「違う。違うよ」 「解っているわよ。お墓参りに行ってらっしゃたんでしょう」 「うん」 「カウンターの上の筏羊羹と岩海苔の文字を見たら四万十川って解るわよ」 「あっそうそう。これお土産」 「いつもありがとうございます。主人が羊羹大好きだったものですから。喜びますわ」 「それは良かった。いつも同じもので申し訳ないね」 「それでいいんですよ。それで。福田さんの気持ちですから」 「なにせ不器用なモンでね。ところでご主人は器用なほうなの」 「うちも器用なほうじゃあ無かったわ」 「無かったわって、どういうことなの。どこにいるの」 「今はね、一心寺さん。天王寺の一心寺さんなの」 「亡くなられたの」 「そう。亡くなっちゃった。私が39歳のとき45歳で亡くなっちゃった」 「初耳だね」 「誰にも言ってないもん」 「ずいぶん若死にだね」 「うん。肺癌だったの」 「そう」 女将はカウンターから出るとまだ遅い時間ではないのに表の灯かりを落とした。 「今日はお仕舞いにしよう」 そう言いながら一刀水の横に並んでグラスを口元に運んだ。 「もう七回忌ね」 「………」 「四十二の本厄の年に癌が見つかってね。3年苦しんで逝っちゃった」 「そう」 一刀水は明日の自分を見つめているようだった。 「ごめんなさいね。病気と闘っている福田さんにするような話じゃあないわね」 「いや聞かせてほしいんだ」 「………」 女将はグラスを煽るようにして空にした。 「私達ね、布施で小さな小料理屋をやってたの。中々腕の良い板場でね。そりゃあお店は繁盛するし幸せだったわ。主人は京都の小料理屋で修行した花板さんでね、私達そこで知り合ったの。結婚して間が無い頃、主人の父が突然倒れてね、布施に戻ってその店を継いだの」 「そう」 「主人が発症するまでは幸せそのもの、順風満帆だったの。それがある日仕事中に倒れてね。救急車で病院に搬送されたの。そうして2日経った日に検査の結果を知らされたの。『肺癌』だって。聴いた瞬間私のほうがブッ倒れたわ。『患者さんに告知しましょうか』って言うからお断りしたの、しかし私一人で抱えきれる問題ではなかったの。病気の進み具合はお医者様以上に本人のほうが解るのよね。口を開くと『もし俺が癌だったら話せ、一人で背負い込むな。お前一人で闘うな』って、いつも寂しそうな顔をしていた」 「そう癌だったの」 「だんだん日を追うごとに無口になっていくし、笑顔も消えて言ったんです」 「それで病名を言ったの」 「うん。苦しい胸のうちを思いっきりぶつけちゃった。肺癌だって言うこと。余命3年だってこと。仕事はもう無理だってこと。泣きながらみーんなぶつけちゃった。そうしたら主人ね、久しぶりに笑ってね私を抱きしめて言ってくれたの『だから言うたやろう、みーんな背負い込むなって。これで少しは楽になったやろう』って。『隠されている事が一番嫌だった。何よりもお前に嘘をつかせているのに耐えられなかった』そう言ってポロポロ涙をこぼしてたわ」 「良いご主人だったんだね」 「そりゃあ、素敵な人だったわよ。それからは何でも主人に相談して決めていったの」 「そう」 「私は主人の残りの月日を満足のいくものにしようと決めたの。子どももいないし財産も残すことがいらないから店を売ってお金を作ったの。多少の蓄えと、実家の父から受けた生前贈与、それらを合わせたお金でずーっと一緒にいようと決めたの。お医者様にも病状の良いときには外泊させてもらって旅もしたし、お芝居にもいったし、そりゃあ癌の宣告をうけた病人との道行きとは思えないくらい楽しいものだったわ。主人も『今度は水族館に行こうか』『宝塚にいこうか』『北海道も旅したいね』『富士山にも登ってみたいね』『京都に湯豆腐食べに行こうか』『浜名湖のうなぎは美味しいよ』って次から次にリクエストをするようになってきたの。そうなると不思議なものね、もう病人の顔じゃあなくなっていたわ。店は売り払い、住まいも小さな1DKのアパートに変えての生活だったけど、ひもじいなんて思ったことは無かったわ」 「そう」 一刀水は相槌をうつのがやっとだった。 「主人もよく理解してくれてね『持ち金全部使い切ったらごめんね。俺が逝った後、仕事に困ったら京都の親方を訪ねるといいよ。お前なら大歓迎だって言ってくれたから』ってあっけらかんとして言ってたわ。でもね、お葬式が終わって計算したら300万円あまりの借金をつくってたの」 「それでも幸せだったんでしょう」 「そりゃあ、お金では買えないくらい幸せだったわ。主人も病気のことなど忘れたみたいに楽しんでくれていたわ。本当に苦しんだのは最期を迎える3日間ほどだったでしょうね」 「ご主人良い最期を迎えられたんですね」 「ええ。そう思っています。福田さんも良い闘病生活なんでしょう」 「ええ。妹がよくやってくれましてね。痒いところに手が届くほどなんですよ」 「そりゃあ良かったわ。遠慮しないで甘えなさい」 「うん。そうさせてもらってる」 「私も一度お目にかかりたいわ、その妹さん」 「うん。また連れて来るわ」 「お願いね」 女将と一刀水の話しはいつまでも途切れることがなかった。 |
|
|||
![]() |
![]() |
||