【その10】 一休みをした一刀水は徐に立ち上がると、静かに墓前に額ずき、墓石に刻まれた文字を撫でる様に擦っていた。刻まれた文字の深さや角の丸まりからこの墓石が建立された日を思い起こそうとしていた。今では、全て業者がやってしまう墓石の建立だが、この墓石を建立した当時は親戚縁者が総出で携わって建立していた。まだ若き日の一刀水は先頭をきってこの建立の儀式を取り仕切っていた。自分の死など到底考えることの無い日のことであった。 お盆前の夏の暑い日のことだった。ニッカズボンにランニングシャツ、黒い脚半に黒い地下足袋の出で立ちで腰に手拭いをぶら下げていた。白い布で巻かれた墓石にロープを掛けそれに天秤棒を通して前後四人で担いで上がる。一刀水は玉の様に吹き出る汗を拭おうともせずその一角を担っていた。一歩一歩足下に目を配り、墓石の傾きに目を遣るその姿は、福田家の跡取りとして親戚縁者から後ろ指を指されることの無いように、ただその責務を全うすることだけを考えて動いていた。 「あの日から何年経つのかなあ。月日の経つのは早いもんやなあ。親父らの墓を経てたんも昨日のことのように思うけど、数えてみたら彼此れ50年近く経つんやなあ。ワシの番が来てもおかしないわけや。我が子や美智子のことを考えている間にこの歳や」 あの日はこの地所も綺麗に切り拓かれて草一本無い状態だった。此処に上がってくる道もバラスが敷き詰められ服を汚すことなく上がってこられた。今はどうだ、道は草に覆いかぶされ、道が有ることさえ読み取ることができない状態であった。また墓所然りである。これが時の流れと言うことなのか。そしてやがては忘れ去られ朽ち果てていくのか。 ここを訪れるたび、ただ手だけを合わせて帰っていった一刀水であったが、今日は今までにない事をはじめていた。墓石に刻まれた文字を全て手帳に書き写している。何の目的なのか一文字一文字、一画一画をいとおしむように筆を進ませている。自宅の神棚には、古くは天保の時代の記名木板も納められているという、そんな事柄も含めて自分の先祖に思いを馳せていたのだろう。 そんな思いを断ち切るような一言を発した。 「これが最後やで、もうよう来んデー」 誰に語るでなく、吐き捨てるようにつぶやいた一刀水の横顔に一筋の涙が伝った。遠めにその姿を見つめていた美智子は光った涙を見落とさなかった。今生の別れをしているのか、はたまた往った時のことを頼んでいるのか、一刀水の心の中を図り知ることは出来なかったが、無性に涙がこぼれ落ちた。 「そうやお兄ちゃん最後かも知れんけん、よう手を合わしときや」 とふざけて答える。こんな時に不謹慎と思われるかもしれないが、そうでも言わなければ身の置き所が無い状態だった。 「大丈夫や。もうすぐ鬼籍に入るけん…って言うといた。美智子も連れて行くけんっていうたらお前一人で来いって言われたわ」 「心配せんでええ。私もそのうち行くけん」 「まあ、どないに頑張ってもあと50年も生きれんからなあ」 「そうやね。いずれお迎えが来るんやから深刻にならんでもええ言うことやね」 「お前と話ししてたら、死ぬことも恐くないようになるから不思議やわぁ」 「まあ、今を楽しくいこう」 「ああ」 そんな他愛ない会話に一刀水の心は落ち着きを取り戻していった。 帰り際、美智子は墓石に手を合わせながら、一刀水に聞こえるような大きな声で 「お父ちゃん、お母ちゃん、お義兄ちゃんを迎えに来てもエエけんど、痛い思いだけはささんといてや」 「おーい美智子。お前と話ししてたら死ぬことなんぞなーんちゃこっちゃない。死ぬことは人生の終着点ではのうて、通過点のように思えてきたわ。お前っちゅうやつは解からんやっちゃなあ」 「まあ…ちゅうわけよ」 二人は馬鹿笑いをしながら墓所を後にした。 墓所から事故の現場に向かう車中、何を思ったのか一刀水がしみじみと話だしたのだ。 「さっき墓で親父らに、もう来ることは出来んって言うてきた。昨日の事故でお前ら道連れにしようと思ったけど、それも、出来んかった。しかし、みんな無事で良かったぜよ。やっぱり逝く時は自分一人で逝かなあかんと悟ったんや。以前に子供らと来たときには儂の入る所は、この墓所の親父の隣やと決めていたけど、ここは遠い、此処まで来るには金もかかる。大阪の近いところで、何処かええ所が有るやろ。どこでもええぞ。無理せん程度に納めてくれ」 「今からそんな事、言わんでもええやないの」 横から妻の声。 「うるさい。お前は黙って聞いとれ。儂は美智子等に聞いてもらってるんや。その日は確実に近づいているんや、ええかげんな気持ちではいかんのや。久志博多にも一度帰らないかんしなあ。思い残すことの無いようにしておきたいんや」 その一言は、生まれ故郷をも偲んでいるようであった。 「お兄ちゃん心配せんでええ。子供等もしっかりしてるし、私が後見するから粗末なことはさせへん。あんまり思い込まんほうがいいよ」 「美智子。頼んどくわな」 そう話すと、長い沈黙が続いた。 事故の現場に着くと大勢の人達がいた。 パトカーもいる。 レッカー車もいる。 クレーン車もいる。 その回りを農作業着姿の人たちが取り巻いている。 奥の若雄兄さんもいる。広田の笑子姉さんもいる。昨日世話になった恵子姉ちゃんが知らせてくれていたのだ。 「ごめんねー。忙しいのにわざわざ来てくれてー」 懐かしそうに声を上げる。 「怪我が無くて良かったのー。心配したぜよ」 「車だけで済んで良かったよー」 従姉妹達の優しい声に美智子達は声を詰まらせた。 現場検証が終り、クレーンの吊り上げ作業も僅かな時間で終了した。事故車がレッカー車に吊られる。パトカーを先頭に、レッカー車、クレーン車、そして、事故車を処理する間、待ってくれていた2台の農作業中の軽トラックが続く、狭い農道を5台の車が進んで行く様は、あたかも事故車の葬送のように見えた。 「あの車も墓場行きだな」 ぽつりとつぶやく一刀水の一言は、自分の身に置き換えているようでもあった。 三人の従姉妹達と美智子夫妻、一刀水夫妻は田圃のゴミ掃除やガラス拾いを始めた。予め鎌で草を苅り、移植ゴテで土ごとすくっていく大変な作業だ。従姉妹達は手際よくやってくれる。都会生活が長い美智子達は作業の段取りは悪いものの、初めての体験を楽しみながらやっている。 「こんなことさせてすみませんねえ。ガラスまで拾わせて」と美智子。 「ガラスを拾うなんざ、なーんちゃこっちゃない。おまん等の骨を拾うはめにならんで良かったぜよ」 若雄兄の一言に一刀水は救われた。何事も良い方に考えなければいかんのや。そう思うと自分の置かれている立場が少しは楽になっていった。 |
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