【その9】 親戚の横山家は子供達が独立し、今は従姉妹の恵子が一人で暮らしていた。恵子は保母の仕事をしていたが、定年を迎えてからは、自宅で畑仕事をしながら、ゆっくりと時をおくっていた。 「よう来てくれたねー。遅いから心配しよったんよ。橋浸かっとったろう」 「川登から回ってきた」 「あの細い道を通って来たんかいね」 「そう」 「まーっ。恐かったじゃろう。私ら土地の者でも滅多に走らんよー。まー、ようこそ無事で」 そう言いながら座敷に招き入れてくれた。 「どう。源流は行って来たの」 「行って来た。何処が道か川か解らんほどやった。こわいぐらいやったわー」 「そうやねー。雨が四万十川の川浚えをしよるでねー」 「お兄ちゃんも、そう言いよったわー」 この家の縁側から、四万十川は眼下に見えた。いつもの倍以上の川幅になっている。 「綺麗なときの四万十川も良いけど、私はこんな四万十川のほうが好きやねぇ」 美智子と恵子は、他愛ない話をしながら再会を喜び合っている。 恵子は、この家を五年ぶりに訪れた一刀水を心からもてなそうとしてくれているのが、お膳に並べられた溢れんばかりの料理から伺い知ることが出来た。 僅かな時間では有ったが、一刀水にとって、己の病を忘れさせてくれる、くつろぎのひとときであったに違いなかった。 帰り際。表に出た一刀水は、四万十川や辺りの山々に目を這わせながら物思いに耽っていた。二度と此処の敷居を跨ぐこともないかもしれない。多分、この景色も見納めになるだろう。そんな思いで見つめていたにちがいない。 「親父さんの墓所はこの上やったねえ」 「そうよ」 「上がってお参りをしたいんやけど」 「でも、今日はこの雨じゃあ、上がれんわね。足場が滑るから」 「うーん」 横山家の墓所は、裏山の急な斜面の上にあった。かつて建設会社を経営していた、恵子の父、横山 亨氏の「四万十川と周りの山々や自分の屋敷が見下ろせる場所に埋葬してくれ」との遺言に従い、そこに墓所を建立されていた。墓所に立つ黒御影の墓石は遺言の通り四万十川を見下ろすように建っていた。 ありし日の亨氏は、幼い美智子を殊の外かわいがってくれた。美智子も「亨おんちゃん」と呼んで馴つき、小学校の頃から夏、冬、春の長期間の休みは、ほとんどこの家で過ごしていた。その間、亨おんちゃんは父親の代わりをしてくれた。 亨おんちゃんの今際の際に大阪から駆けつけるとき、飛行機の遅れから出棺に間に合わないときも、親族みんなで「美智子がまだ着いていないからもう少し待ってやって」と出棺の時間を延ばしてくれたこともあった。 建設会社の全盛期には、讃岐の金比羅山の参道の両脇に建つ石柱を寄進し隆盛を極めていた。 「美智子。大きなって、金比羅山に行くことがあったらな、玉垣の中に儂の名前が入っとる石の柱があるけん、それを見たら儂のことを思い出してくれな」 常々そう言っていた。美智子は幾度となく金比羅山を訪れているが、その度にその石柱の前で亨おんちゃんを偲んでいるという。その栄華は此処の墓所にも反映されていた。 横山家の仏壇の前に座ると、その延長上に墓石が建立されていた。墓所までは急な坂道を上らなければならず、この家を訪れても墓参までには至っていなかった。今日こそはと思っていたのだが、一刀水は断念した。残念だが雨に降られては、仕方がないことだった。まあ、そう遠くない将来、こっちからいくことになるだろう。そんなことを心で語りながら、墓所のある裏山に向かって、心静かに遙拝をしていた。 横山家からの帰路。車は今日の宿に向かって走っていた。横山宅でのひと時に感謝をし、思い出話に花を咲かせながら車を走らせていた。 一瞬、身体が大きく揺られた。何がなんだか解らない、一体どうしたと言うのだ。 天地がひっくり返るとはこのことだろうか。どうしてこんな格好になっているのか。まったく理解ができないまま、僅かな時が流れた。 美智子は、徐に周りを確かめる。肩に痛みが走るのをこらえ、落ち着くように努めながら周りを見渡すと、どうやら座席の位置が上になっているように見える。一刀水は、運転席でシートベルトで逆さに吊られて藻掻いている。夫は何か呟きながらシートベルトと格闘している。こういう状況では、ベルトはなかなか外れにくいものらしい。横では姉が放心状態で天井の部分に座っていた。窓の外には草むらが拡がっている。落ちたンや。道から落ちて逆さまになってるんやー。 「お兄ちゃん大丈夫。お姉ちゃん大丈夫。あんたどうもない…」 それぞれが大したことはないと意思表示をしてくる。大丈夫のようである。 「取り敢えず、みんな外に出よう」 美智子の号令で外に出ようとするが、それもままならない。 「美智子。どこから出たらええの」 と姉の声。 「開いてるところから出たらええやないの。前も後も開いてるわ」 こんな時に冷静なのはハチキンの所以か、総務部という仕事柄か、冷静に物事を見つめていた、後の扉は開いても、前が開くはずは無いのだが。 車内には土産物や身の回りの品物が散乱している。それらを踏まないようにいったん外に出てみると、自分たちの置かれている立場がようやく理解できた。車は四本のタイヤを空に向け、天地を逆に転んでいる。フロントスクリーンは五メートルほど先の草むらに飛び、リアゲートは転落のショックで全開。左、側面のガラスは破損して散らばっていた。酷いことになっている。無傷でいられるのが不思議なくらいや。幸いにして今は小雨。大降りにならないうちに何とかしなければ。 気が焦る。 行き交う車もない。 携帯電話で助けを呼ぼうにも、液晶表示は圏外。 人里から遠く離れているため公衆電話など無い。 一番近い民家と言えば、先程立ち寄った横山の家だった。 「あんた。恵子姉ちゃんの家まで行って、車借りてきて」 有無を言わせず夫を行かせた。歩けば三〇分以上かかるだろう ややボーッとしている一刀水に 「お兄ちゃんは道路に上がって休んでいて」 「お姉ちゃんは私と一緒に中の物を出そう」 的確に指示をしていく。何とどこまで冷静な奴っちゃ。 夫が従姉妹を伴って戻ってきた頃には、すべての荷物が運び出されていた。 「あらー。まー。吃驚したよー」 「ねえちゃんごめんね。吃驚させてー」 「いよいよ。大変だねー。皆さん怪我はないの」 「うん。みんな大丈夫」 「それがなによりよ。車はいつでも買えるけど、命は買うことができんけんね」 恵子の一言に、一番救われる思いをしたのは一刀水だった。 「この車に積んで私の家に運ぼうか」 「うーん。今日はホテルとってるからホテルまで運んで」 「ええよ」 「明日はレンタカーを借りるから。きょうは遅いから車は明日引き揚げて貰うわ。ホテルに着いたら手配してみるわ。ところでこの田圃どこの家のか解る。明日引き上げが終わったらお詫びに行くから調べてくれる」 「多分、彼処の家やと思うから聞いとくわ」 「お願いね。それと明日は暇。暇やったら田圃のガラス拾い手伝ってくれる。お百姓さんが怪我をしたら大変やから」 「うんわかった。心配せんでええよ。引き上げの時間が解ったら電話して」 そんな会話を繰り返しながら、恵子の軽自動車に荷物を積んでいるときだった。「どうしなさった」恵子の近所の青年が、そう言いながら止まってくれた。従姉妹の説明に「一緒にお送りしましょう」快く応援を申し出てくれた。久しぶりに帰った故郷で、温かい人の心に触れたひとときだった。 美智子はホテルに着くと警察に通報。JAFへ連絡。レンタカーの手配。レッカー車の手配と手際よくやっていく。総務の仕事をしているのがここでも役立っていた。 次の日。警察の現場検証や引きあげは午後からと言うことになったので、午前中に墓参りや親戚への挨拶回りに朝から奔走した。何処の親戚に顔を出しても「車壊したぐらいで済んで良かったのー」心から心配してくれていた。 何分田舎のこと、大阪ナンバーの車が転落したとの村人の情報は、短時間の間に近隣の集落を駆け巡った。 「お宅の親戚では?」 「田圃に落ちた大阪の車ってお宅のご長男と違う」 「うちは大丈夫。彼処の家と違うだろうか」 そんなやりとりがあったのだろう。 話を聞き二〇キロもの山奥から何年かぶりに此処まで来たという遠縁の老人は、一刀水の顔を見るなり 「お前のおかげでここまで来られたよ。此処に来れば詳しいことがわかると思ってな。何事もなかったら来ることも無いもんな。でも怪我が無かって良かったぞー」 そう言いながら、元気な一刀水を見て嬉しそうに話していた。 次の日、親戚への挨拶回りを済ませ、墓所に向かった。 土佐の高知の外れに四万十川がある。そのかたわらにひっそりと福田の両親の墓があった。直系の者は皆大阪に出ており、墓参の回数は数えるほどしか無かった。誰が訪れてくれるでもなく墓所への道は草が生い茂っていた。墓の下まで到着すると一刀水が 「わしは上までは登れん。ここで待つ」 と弱音を吐く。気弱な一言である。そんな光景を目の当たりにした美智子の旦那は開口。 「義兄さんを負ぶってあがりますわ」 「どうしても儂を墓まで連れて行くっちゅうのんか」 と笑顔。この笑顔は上まで上がりたいという意思表示と判断し、腰にヒモを巻き、兄を運ぶ。一歩一歩雑草を掻き分け細い坂道を進んだ。時々竹の根の足を取られることもあったが、どうにか墓石の前に到着。墓所の前に到着した一刀水は、墓石と相対する位置にある切り株に腰を降ろし、静かな時を過ごしていた。美智子と和代は墓所の周りを手際よく掃除して清めていく、久しぶりに訪れた墓所は少々荒れ気味だった。 |
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