【その8】

2000年の10月。兄一刀水をつれて四国に里帰りをすることにした。
元気に過ごせる時間はそう多く残されていない、早い時期にいろいろとしておきたい。美智子の参加しているウオーキングの会が四万十川全流路196kmの旅を企画しているところから、その下見に行くから一緒に行こうと言う申し合わせの上で一刀水を誘った。久しぶりに帰る故郷、美智子夫婦と一刀水夫婦の四人の旅だった。このとき四国地方は台風の余波を受けて大荒れに荒れていた。

四万十川の源流域は登山道を雨水が流れ、道か川か判断がつかないほどである。山肌から流れ落ちる無数の水の帯。

「四万十川は四万十もの支流を集めて太平洋に注ぐところから四万十川って言うの」
美智子の言う説が正しければ、それも頷ける。この水の帯は、幻の滝と形容してもいいぐらい凄い。依然訪れたときには静かな景色だったが、今日はうってかわって山が様相を変えている。大雨の時にだけ見られる滝。各地にそのような滝は無数にあるようだが、それはここにも存在していた。

上流域も中流域も堤防を越えて溢れ出さんばかりの水量が轟々と音をあげて流れている。穏やかな時には見られる沈下橋も、いまはその欠片さえ見ることが出来ない。
「これが四万十川や。こんなに暴れ狂うからこの川は綺麗なんや。台風が川浚えをしてくれとるんや」
一刀水は、そういいながら、楽しそうに車を走らせていた。途中、大正村の道の駅では、カニ団子を美味しそうに口元に運び、
「これを最初に作ったのはうちの母親、イサヲさんや」
幼い頃母親が作ってくれたことを、自慢そうに話していた。
 道すがら立ち寄った焼酎の蔵元では、当主から栗焼酎の蘊蓄を伝授して貰い、思いがけない里帰りに心からはしゃいでいた。
 友人の土産に買い求た火振り焼酎にしみじみと目を遣りながら
「もう一度、浴びるほど飲んでみたいもんなやあ」
大好きだった酒を飲むことができなくなった、己の病を恨みながら口をついて出た一言は、周りにいるものの心を締め付けさせた。

 一刀水は、ハンドルさばきも軽やかに、曲がりくねった川沿いの道を南下させて行く。口屋内の集落を過ぎる頃、少年時代に思いを馳せながら昔話を始めるのだった。

「若いころ、大工の丁稚であっちの現場、こっちの飯場と渡り歩いたもんや。営林署の宿舎の建設工事を多く手がけていた関係で、仕事場はほとんどが山の中やった。丁稚の仕事と言えば食料の荷揚げ、二日に一度は町に降りて肉や魚を担ぎ上げたんや」

誰に言うともなく、思い出すように話を綴っていく。

「目から火が出るほど一括されたこともあったなぁ。それは米を担いで山に帰る途中やった。丁度この奥の谷に有る学校の校庭で、自分と同じような年頃の子供らが三角ベースの野球しとったんや。『よせてくれ』言うたら『ええよー。やろー』て言うてくれたんで、思いっきり楽しんだんや。あの時ほど野球を楽しいもんやと感じたことはなかったなぁ。学校出て大工の丁稚に行って、行った当時は大工の見習いとは名ばかりで、親方の子供の守をしたり、奥さんの手伝いで畑仕事や野良仕事、犬の散歩も日課になってたなぁ。そんなしがらみを忘れさせるほど野球は楽しかった。毎日毎日大人の中で翻弄されて、自分の時間など全然なかった。久しぶりに我に返ったような時間やった。気がついたら日が暮れかけや。わーどうしょうと思いながら山の上の飯場を目指したんや。一斗の米を担いで歩くのは大変やった。足は取られるし、ふらついて木の枝に肩を引っかける。電池は持ってへんし、辺りは真っ暗。夜が明けるのを待とうと路肩に腰を下ろしとったんや。そうしたら遠くで『おーい』『おーい』人を呼んでるような声が聞こえた、そんな気がしたんや。何事やろうか思ってたら懐中電灯の明かりがチラチラしてきて、だんだんその声が大きくなってきよる。『福田ー』『一刀水よー』『どこにおるんやー』
なーんや、儂のことを呼んでるやないか、何が何かわからんで声も出せんかった。その声は、まるで映画の中で遭難者を捜すような感じさえしたわ。そしてその人らが近くに来たとき『どないされたんですか』言うてヌーッと立ち上がったら『ぎゃー。なんやー』大袈裟とも言える驚きよういうたら、こっちが腰を抜かしそうやったわ。『いきなり大きな声をだすなー。吃驚するやないか』と大きな声で怒られてなー。親方が若い衆を二人連れて迎えに来てくれたんや。『帰りが遅い。なんぞ有ったんとちがうか思って。一体この時間まで何しとったんやー』言うから、素直に『野球しとった』いうたら『どあほー。何を考えとるンや、みんなが心配してるのにー』言うが早いか怒りの鉄拳、目から火が出るとはあのこっちゃ、でもベソもかかんかったなぁ。野球の楽しさの余韻で、親方の拳固なんざなーんちゃこっちゃない。野球の方がずーっと楽しかった。ちゅうわけよ」

 今まで一度も聞いたことがない話が飛びだしてくる。あの寡黙な男が自分から口を開いている。一刀水は嬉しかったのだろう。後部座席から美智子の夫が口を挟む。

「お兄さん。この辺りに泣かせた女がたくさん居てるのとちがいますか」
「女か。泣かせた女はおらんなー。喜ばせた女はおるけどな」
「浮いた話のひとつぐらい聞かせてくださいよ。お義姉さんが横においでやけど、もう時効やから、よろしいでしょう」
「浮いた話かそんな話は無いなぁ。儂はこいつが初めてやから。なっ」

そう言いながら妻の方に目をやる。照れくさそうに笑う妻の横顔を見ながら一刀水も照れくさそうに笑う。長いつきあいだが、こんな一面を覗かせてくれることなど、終ぞ無いことだった。

「そうやなあ。この右手の谷の、奥屋内のもーっと奥で仕事をしとるときやった。十人ぐらいで飯場泊まりをしとったんよ。植林小屋を建てとったんや。今みたいにプレハブなんて無い頃やで、小屋言うてもそりゃあ立派なもんやったわ。ここに賄いに来ていたおばちゃんがおったんや。母親ぐらいの年格好やったなぁ。何かにつけてよう面倒をみてくれたわ。何せ十七ぐらいの時やで、子供みたいなもんやったんやろうなぁ。他はみーんなええ大人やし。「餅や」「芋や」言うてようくれた。別に儂かて悪い気はせんし、ようなついとったんや。それは給料の出た日の夕方やったんや。晩飯も食わんと、みーんな揃ってトラックの荷台に乗って山を下りていったんや、儂は誘ってくれへんし、下りても行っても当ては無いし残っとったんや。今にして思ったら、あれは艶街に繰り出しとったんやなぁ。儂を子供や思うて、蚊帳の外に置いて行きよったんや。飯場には儂とおばちゃんが残ったわけよ。晩飯を食いながら『一刀ちゃんは行けへんかったんか』『うん。下りても、なーんちゃこっちゃないし、おるわ』『そうやねー。みんなと一緒に行かんほうがええワねー』どんな意味かもわからんままに、なま返事をしとった。ラジオから流れる【アチャコ青春手帳】を聞きながら、親子の会話にも似た話を夜遅くまでしとったんや。『明日はおばちゃんが美味しいもん作ってあげるからねー』そんな言葉を最後に床に就いたんや。仕事の疲れか、しゃべり疲れか直に寝てしもた。そうしたら夜中になんやごそごそするんや。なんやおかしい思うて目を覚ますと、人の肌を感じるンや。なんちゅうても初な頃や、飛び起きようとしても起きられへん。寝床言うても蚕棚みたいなもんで、せばーい所に布団を敷いただけや、そんなところに人が二人入ってて、起きられるか。おばちゃんが布団にはいってきてたんや。焦ったがナー」
「それで、あんた、どないなったん」

横で妻がチャチャをいれる。後では美智子の夫が両手を叩いて喜んでいる。
「お前らあんまり期待をするな。ただ震えてるだけでなーんちゃこっちゃなかったんや」
「お兄ちゃん。本当に何にも無かったんですか」
「あらへん。この話はここでおしまいや。でもあのおばちゃん、大事にしてくれたわ」

 若かりし頃を回想している一刀水の横顔は、少年時代の日々を彷彿させるように、活き活きとしていた。

中村市に入って、従姉妹にあたる横山家に行くために道路から河原の方に車を進めた。ここから四万十川を渡るために沈下橋がかかっているのだが、濁流に呑み込まれていて橋の影は無い。この時のために沈下するようにしてあるのだが、間近で見ると恐い感じさえする。一刀水夫妻や美智子にはどうと言うことは無いのだが、美智子の夫にしてみれば、まさに一大事で、今まで数回ここを訪れているが、橋がないのは今回が初めてである。美智子達は幼い時に遊んだように、川に沈んでいく道路を確かめるように、膝まで水に浸かりながら水際で遊んでいる。夫は「危ないから止めとけ」と離れた場所で言いながらビデオカメラのスイッチを押していた。

濁流の向こうに親戚の屋根が見える、しかし此処を渡ることは出来ない。明日に延ばそうかどうしようか迷った。ウオーキングの会を実行する時は、中流域の出発点は此処になる。川下から右岸に回り込み、ウオーキングのコースでもある川向こうの細い道を辿ればどうにか親戚の家に行き着くことが出来る。美智子夫妻は三年ほど前に四万十川ウオークでこの道を歩いたことがあり、道の状況はだいたい把握できていた。川登まで左岸を南下、川登大橋を対岸に渡って右岸を北上する、どうにか普通車が通れるほどの道幅があった。ガードレールなど無い道。一つ間違えば山肌を擦るか田圃に落ちるか、危険と背中合わせの道である。一刀水は難なく車を進めていく。こんな所で対向車と出会ったら大変だな、そんな言葉が漏れる。時折車輌が道路に延びてきている木の枝を擦る。ザ、ザー。ザザザー。思わず除けたくなるが、除けすぎると田圃の中に転落することになる。我慢して進む。そしてほどなくして先程浸かっていた沈下橋の対岸に出た。大変な道だったなぁ、誰が言うともなく口をついて出た。