【その6】 その日から一ヶ月ほど経った、二月の終わり頃の昼下がりだった。 見慣れない顔の男が、会社を訪ねてきた。 「すいませーん。こちらに鮎川さんとおっしゃる方はいらっしゃいますか」 と大きな声で飛び込んできた。 「はーい。私が鮎川ですが」 奥の席から返事をすると 「あーよかった。ここで六軒目ですワ。探しました。名前の解らない人を捜したのは、はじめてですわ」 「どうされたのですか」 「とにかく、お客さんが会いたがっていますので、表までお願いします」 寒いのにも関わらず、男は手の甲で額の汗を拭っている。 男について、表に出てみると、タクシーの後部座席に長老の姿があった。 「あら、おじいちゃん」 「今日、退院しました。入院中はいろいろとありがとう。一言お礼をと思いましてね」 「それでわざわざ。どうもおそれいります」 横で男が口を挟んでくる。 「病院でこの人を乗せたんですよ。『橋向こうの高町までやってくれ』っていうんで、高町まで来たら、『人を捜したいって』言うじゃない。『なんて名前、住所は』って聞くと『住所はわからん、名前は美智子さん、苗字は知らん、嫁の友達や、顔を見ればすぐにわかるンや』っておっしゃるだけ。参りましたよ。前に住んでいたと言われる付近で聞きましてね」 「それはご苦労様。でも此処に勤めているのが、よくわかりましたね」 「酒屋さん、たばこ屋さん、花屋さん、随分聞きましたよ。見つかったのが不思議なくらいですわ。訪ね訪ねて、子供会で野球をやってる子供さんがいらっしゃるって言うのを頼りに、ご自宅に辿り着いたら隣のおばちゃんが『会社だ』とおっしゃるもんで」 「そうでしたか。大変お世話を掛けましたね。ありがとうございました」 美智子はタクシーの運転手に丁寧にお礼を述べた。 「お爺ちゃん。訪ねてくれてありがとう。退院できて良かったですね」 「ありがとう。今から尼崎の息子の所に行きます。その前にあんたに礼を言いとうて」 「茨木じゃあなかったんですか」 「いいえ。息子達は離婚したんです。表向きかどうかは知りませんが、今は別々に住んでいるようです」 「尼崎やったら病院から直ぐですのに、わざわざ来ていただいてどうもすみません。元気に暮らしてくださいね」 「あんたには、嫌な思いをさせてしもうて、すみませんでした。あんたが小さい頃に御両親を失っておられたのは、ずーっと以前、嫁から聞いたことがありました」 「ごめんなさい。あんな嘘ついて」 「いいや。こっちこそあんな嘘を言わなければならんところまで追い込んでしもうて。嫁には嫁の立場があったんでしょう。嫁のこと許してやって下さいね。でも嬉しかったです。隆盛を極めている時は、皆さんちやほやしてくれましたけど、落ち目になったらあきません。今回の入院中で、お見舞いに来てくれた他人さんは、あなただけでした。それも毎日」 「いいえ。大したこともしてませんのに恩義を感じていただいて痛み入ります」 「ありがとう。こんな身の上ですから何のお返しもできません。あなたが和裁をされるのは嫁から聞いていました、こんな物で済みませんが、貰っていただけませんか、私の家内が使っていた物です。家内の形見と言うには品疎な物ですが、私の手元にはこれしか残っていないんです」 そう言いながら、長老は形の崩れた箱に入った小鋏を渡してくれた。 「おばあちゃんの形見なら、持っていてあげないと」 「いや。使ってやってください。こんな物しかできない今の私が疎ましいが、こんな物でも貰っていただかないと……」 そこまで言うと長老の顔が涙で曇っていった。 「お爺ちゃんありがとう。喜んでいただきます。大切に使わせていただきます」 美智子も涙を抑えながら話している。 「それと、この重箱、返さなければならないと思い持ってきましたが、私にいただけませんか、今のこの身においては一番の宝物なんです。この重箱には金では買えない物が入っておりますのでな」 「ええ。よろしければお持ちになって下さい」 「ありがとう。冥土まで持っていきます」 「そうおっしゃらないで、お元気で」 美智子はここまで訪ねてきてくれたことに感謝した。 「運転手さん。大変ご迷惑をおかけしました。尼崎までよろしくお願いします。運賃これで足りますか」 そう言いながら一万円札を渡した。 「ええ十分です。お釣りがでますよ」 「じゃあおねがいします。余ったら此処まで来ていただいたお礼と言うことで」 長老を乗せたタクシーは、二人の感情を、事務的に引き裂くようにスタートした。 友達の立場を悪くした美智子の見舞い。しかし、長老はこの上なく喜び、感謝している。 私は、間違っていなかった。 タクシーに揺られ、小さくなっていく後ろ姿を見送りながら、そう感じ取っていた。 美智子は、一刀水が闘病生活をおくるにあたり、自分に出来ることは何でもしようと心に決めていた。妻には妻にしかできないことがあり、息子には息子にしかできないことがある。娘には娘にしか出来ないことがある。それぞれがそれぞれの立ち場で精一杯すれば良い。何も遠慮なんかすることはない。どうすれば一刀水が喜ぶか先ずそれを考えるべきだ。 「よけいな口を出すな」とか、「いらん事はせんといて」などと言われたとしても、何遠慮をすることがあろう。私は私として兄が納得行くまで、尽くしてあげようと心に決めたのだった。 |
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