【その5】

第二章 妹の見解

妹の美智子は、一刀水からの電話でそのことを知った。
初診の段階から、事細かく聞いていくうちに、姑の看護のようなわけにはいかないことを感じ取っていた。姑の場合は、義理とは言え親子、誰に気兼ねをすることもなかった、兄弟内や舅と多少の確執は有ったものの、それも、姑のためと割り切って、自分なりの看病を続けることができた。

 一刀水は「お兄ちゃん」と呼んではいるものの、所詮、姉の主人。姉もいれば三人の子供達もいる。子供達はそれぞれの家庭を築き一家を構えている。叔母の立場とは言え、そうそう土足で踏み込むようなマネは出来ない。かといって放っておけるわけはなかった。

 美智子は、主人にその旨を報告した。
母富子の闘病にあたり、美智子の尽力は並大抵の物ではなかった。常々より感謝の念を胸に秘めていた夫は、すべての力を注いであげるようにと言明してくれた。素人がどう喚いても病気を治すことなどできはしない。出来ることと言えば患者の心中を察し、痒いところに手が届くようにしてあげることである。しかし、家族以上のことをしてはいけないのかもしれない。
 
 もうかれこれ20年ほど昔の話だが。
 美智子の長男が小学生の頃、ある同級生の家族と親密なつきあいをしていた。その家族は父が鉄工所を経営し50名程の社員を有していた。庭付きの一個建ちの居を構え、親子四人と長老で何不自由のない生活を営んでいた。PTAの会合や地域の寄り合い、子供達の所属する少年野球チームの協力と母親同士、毎日のように行き来をしていた。その家の長老とも道で会えば挨拶を交わすようになっていった。
 六年生の冬休み。正月まで、あと幾日か、日にちを数えるほどになった頃、この家に不幸の第一報が飛び込んだ。父の経営する鉄工所が倒産。債権者から逃れる日々となっていった。転居、転校と、めまぐるしく移り変わる日々の生活。そんな折り長老は西淀川区の病院に入院してしまった。病名は心筋梗塞。
 美智子は人伝にそのことを聞くと、その日のうちに病院に見舞いに訪れた。大部屋の片隅で、長老は人なつっこい眼差しを向けてきた。

「入院して一週間になるんやが、だれも見舞いにきてくれんのや。息子も嫁も孫らも、だーれも来てくれへん。十年ほど前に入院したときは、社員も親戚も日参してくれたが、落ち目にはなりとうないなー。さびしいもんや。入院費やなんやかんやは此処の事務員さんが役所に掛け合ってくれてなんとかなってるが、金がないのは辛いもんや」
 長老は寂しそうに胸の内をぶちまけた。
 家庭には色々な事情が有るのだろうが、顔ぐらい出してあげても良いのではないだろうか。債権者から逃避の日々を送っていては、それもままならないのは解るが、何とかならないものだろうか。その日は、後ろ髪を引かれる思いで病院を後にした。

 次の日から美智子の病院通いは始まった。
 5時に仕事が終わると家に飛んで帰って夕食の支度。子供達に食事をさせ、毎日七時半頃帰宅する主人を待って、夕食の一膳目をよそってから
「ごめん。ちょっと病院に行って来るわ」
そう言い残すと、赤いミニバイクに乗って、夜の町を病院に向けてすっ飛ばした。冬の夜は凍てつくほどに寒い。まして淀川の上を通る川風は肌が切れるように痛かった。
《うちのお爺ちゃんの病気の時にもこうやって走ったなぁ。主人の網膜剥離の時の病院通いは霰にあって冷たかったなぁ》
そんなことを思い出しながら、寒さに震え耐えて走った。家から病院まで二十五分。僅かな時間だが病院に着く頃には身体全体が悴んでいた。
「こんばんわ」
病室に入ると長老は嬉しそうな顔で迎えてくれた。
「昨日来てくれたばかりやのに、今日も来てくれたんかいな。ありがとう」
「仕事終わって、夕食の用意をしてからやと今になるけど、ごめんね」
「いいええ。疲れてるのに、すみませんねえ」
小さなタッパに入れてきた柿を差し出すと、長老の顔が一層なごんだ。
「おおきに。ありがとうさんです」
嬉しそうな、勿体なさそうな顔に涙が光った。小さく切られた柿の実をフォークで口元に運びながら、顔をくしゃくしゃにしていた。
「お爺ちゃん。あんまりゆっくりできないけど、また明日来るわ。何か食べたいものある」
「ありがとう。来てくれるだけで十分や、贅沢言うたら罰が当たるわ」
「遠慮せんでええのよ。また明日来るね」
そう言い残して家路についた。

 病人の見舞いは回数を重ねて行くこと。
 見舞いに持っていく物は、直ぐに食べられるようにして持っていくこと
 全部一度に食べることの出来ない病人には、傷まない物を持っていくこと
 そんなことをポリシーに、相手の気持ちを考えて行動していた。雨の日も粉雪の舞う日も、ミニバイクで病院通い。とてもバイクに乗ることなど出来ない大雨の日は、タクシーで駆けつけた。長老が喜んでくれるのを楽しみに、もう三週間ほど通い詰めただろうか、そんなある日、見舞いを終えて家に帰り、ホッとしているところに電話が鳴った。長老の息子の嫁からである。

「今どこにいるの。自宅はいつ行っても閉まっているし」
そう問いただす美智子の声に
「あの家は人手に渡るの。今は茨木市に住んでいるけど詳しくは言えないの。子供達も、取り敢えず学校には入れて貰ったけど、住所は前のままなの」
「そう」
「いつも、お爺ちゃんのお見舞い有り難う。今日見舞いに言ったら毎日来てくれるって喜んでいたけど、逆に、うちの嫁が来ないって、怒られてしまったの。お見舞いして貰って言えた義理じゃあないけど、お爺ちゃんの所に行くのもう止めてもらえる、私が悪く言われるから、おねがい」

 そう言うと一方的に電話を切ってしまった。
 私は奢っていたのだろうか。ただ、お年寄りが寂しい思いをされなければと思ってやったことなのに。でも、それによって苦しむ人がいることまで考えてはみなかった。その家庭にはその家庭のしがらみがあるのだから、そう自分に言い聞かせて、傷ついた自分の心をなんとか繕った。

次の日。少し早めに病院を訪れた。
長老はいつもと同じ笑顔で迎え入れてくれた。
「今日は、ちょっと早いようやねえ」
 美智子はいつもの通り持ってきた手提げ袋から小さなお重を取り出して、長老に差し出した。
「今日はお弁当を作ってきたの、あとでゆっくり食べて」
「ありがとう。いつもありがとうね」
「お爺ちゃん。今日はちょっと言いにくいんやけど、気を悪しないで聞いてくれる。明日からしばらく来れないの」
「えっ。どうして」
「田舎の母が病気で倒れたの、しばらく帰って看病しなければいけないの。今日の夜行で帰るからしばらく会えないの」
そう嘘を言って長老を説き伏せた。
「そりゃあ大変じゃ。早う帰ってあげなさい。いつも来てくれてありがとうね。今度お会いできるまで、器を預かっておいていいかな」
「ええ。でも大した物じゃあないから捨ててくださって結構です」
「いえいえ。預かっておきます。有り難う御座いました」
長老は淋しそうでもあったが、吹っ切れたように清々しい顔でエレベータまで見送ってくれた
他に、良い言い訳が合ったかも知れないが、なぜかそう言ってしまった。もう会うこともないだろう。どこか後味が悪かったが、《あとは振り返らないでおこう》と自分に言い聞かせ、病院をあとにした。