【その3】 総合病院からの帰路。 一刀水はハンドルを握っていた。 よもや、こんなことになるとは、思ってもみなかった。 妻に運転をしてくれるように、鍵束を差し出したが「あんたがやってくれたらええやん」と突き返されてしまった。 《電車で来れば良かったかな》 気弱な言葉が脳裏を掠める。車で来たことを疎ましく思う。 後悔するはずである。彼は運転に必要な状況判断さえ忘れかけていたのだ。 横で妻が口を開く。 「お父さん。店を開ける準備をするから、店の前で降ろしてくれる」 そんな妻の非常な言葉に対し、あえて言葉を返すことはしなかった。 妻は妻なりの言い分があったのかも知れない。どうあがいても、医者が見捨てた夫を治すことなど出来はしない。これからは今以上に金がいるだろう、何としても頑張らなければ。そんな気持ちが有ったのだろうが、夫に伝わることはなかった。お互いに無言のまま車は走る。 時折、大型のダンプカーが、擦るような距離ですれ違い、過ぎ去っていく。 《このまま、其処に突っ込んでいけば、楽になるぞ。家族に、迷惑をかけなくてすむぞ。行け一刀水。加速して突っ込め。一刀水、おまえはこれから五年の間、苦しみ続けて生きていくのか。次に大型車が来たら、ハンドルを右に切って突っ込め、目を閉じて突っ込んで行け。死を宣告された男など、この世に生きていて、何の功徳があるものか》 と地獄からの使者の声。 《一刀水よ。頑張れ。妻が横に乗っているじゃあないか。おまえには家族が有るじゃあないか。かわいい孫が五人もいるじゃあないか。決して死に急ぐなよ。きっといいことがあるぞ、よけいなことを考えるんじゃあない。冷静になれ。残りが五年なら、意義ある五年にすればいいじゃあないか》 神の声が、地獄からの声を遮ってくれる。 夫の胸中を知ってか知らずか、隣で妻が他愛もないことを口にしている。 「あんなところにコンビニが出来ている」 「あの雲。綺麗や」 夫のことを気遣って、言葉を交わそうとしているのだろうが、それが夫には耳障りだった。 「………」 そんな妻の声に、一刀水は現実に引き戻された。 「うるさい。静かにしとれ」 その一言を発した途端、冷静さを取り戻していた。そしてほどなく、妻の経営する店の前に着いた。 「そんなに偉そうに、言わんでええやないの」 「………」 「夕食は、冷蔵庫の中に、何かあるから食べといて」 その一言を残すと、荒々しくドアを閉めた。 一刀水は、妻の方に目をやるでもなく、その音を確認すると、荒々しく車を発進させた。 《どうにでもなれ。どうせ俺の命はあと3年だ》 その夜、三人の子供達に電話をしてみた。 子供達は当然のことながら驚いてはいるものの、適当な言葉が見つからないようだった。 「医者の見当違いではないの」 「藪医者の言うことなど信用しないでもっと大きな病院で診察してもらったら」 「そんなにしずまないで。3年の寿命が約束されたんじゃない」 異口同音に父を慰めようとしているのだが、どこかぎこちなく、慰めにもならなかった。 《 どいつもこいつも、慰めにもならん。死の宣告に見当違いなど有ろうはずがないじゃあないか。どんな言葉を持って俺を慰めるというのだ。俺が求めているのは慰めではない。しかし、どうして欲しいのか自分自身にもわからない、だからおまえ達に投げかけているのではないか。しっかりと受け止めてくれ、上辺だけの慰めなんか、今の俺には必要が無いんだ。解ってくれ。みんな家族ではないのか。それぞれに家族を持ったおまえ達にとって、俺の存在はもう必要の無いものになっているのか 》 誰もいない空間で、ただ考えるのは、我が身の最期のことばかりだった。 一人で丸抱えにするには、事が大きすぎる。 どう考えても、どう喚いても、俺の寿命が天寿を全う出来るわけがない。 これからは病魔と闘い、刻々と忍び寄ってくる浄土からの使者の足音に怯えながら耐え抜いていかなければならないのだ。そう考えただけで、悶々とした時を、綴っていくことになるだろう。俺は、何を頼れば良いのか。一人で生まれて来たからには、一人で死んでいかなければならないのは解る。五年という長い年月。健康な老いらくの日々なら、あっと言う間の時間かも知れないが、死を恐れ、痛みに耐え、一千八百日の日にちを数えながら、虚無の時をおくるのか。 考えただけでもぞっーとする。自分の妻が、仕事や地域の世話役として、多忙であることは解らないでもない。しかし………。 |
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