【その4】

 医者から死を宣告されて二週間ほど経ったある日、一刀水は串木野を訪れた。
この日も空模様は大荒れ、半ば捨てばちに外に出たものの、横殴りの雨にやられ、此処の扉を押したのだった。
「いらっしゃい。福田さん。どうしたのこんな雨の中。吃驚するじゃない」
女将はそういうと椅子から立ち上がった。
「いや。別に驚かそうとしているわけじゃあないが、つい人恋しくなってね」
「心配してたのよ。病院の検査の結果どうだった。何もなかった」
「………。ママ。ウーロン茶有る」
一刀水の様子に、何かを感じたのか、タンブラーに氷を入れ、静かにウーロン茶を注ぐ。マドラーで静かに混ぜながら、今までにない一刀水の身体が放つ不穏な物を感じとっていた。
「おまちどうさま」
静かにカウンターの上に差し出す。
「ああ、ありがとう」
気弱な返事をする一刀水。
「今日は雨で誰も来ないから、灯りを落とそう」
女将は、そう言いながら表を覗き、行灯を取り込むと施錠した。
「電気代が勿体ないからお商売はやめ。今夜は福田さんとゆっくり話そうかな」
「………」
女将はそう言いながら、ウーロン茶の入ったタンブラーを片手に一刀水の横に座った。
「あまり良いこと無かったみたいね」
「…………」
カウンターに肘をつき、タンブラーに視線を投げかけている一刀水の目から、一すじの涙が頬を伝った。あわてておしぼりで拭い去ろうとする一刀水。そんな仕草の中で女将はその涙を見逃してはいなかった。大変なことが福田さんの身に起こっているに違いない。《少し話題を変えてリラックスさせてあげないと》
長年の商売人としてのカンなのか、女将は冷静に話し始めた。

「福田さんって、雨に日にいらっしゃるの、多いわね」
「そうかな。でも数えるほどしか来てないよね」
「回数は解らないけど、上得意さんよ」
「結構嫌な客だったりしてね」
「憎まれ口が多いわね」
「今の俺は、可成り荒れてるから」
「荒れてる男なんて慣れているわよ。いくらでも荒れて頂戴」
「………。ごめん」
「いいわよ。ところで古い話だけど。どうしてこの店に入ってくれたの」
「ママが美人だから」
キッと睨むのを見て
「ごめん。冗談だよ。冗談」
「私が美人なのが冗談なの。じゃあ私はブスなの、おかめなの、醜い顔の女なの」
「ちがう。そんな意味じゃあない」
「じゃあ、どんな意味なの、ちゃんと説明して頂戴」
「ごめん。ご・め・ん」
「解れば良いのよ」
一刀水は自分の病気のことも忘れ、久しぶりに思いっきり笑った
「いつ沈んだ気持ちで来ても、知らない間に元気にされている、まるで洗濯機みたいな店だよね、ここは」
「洗濯機。そう、望むところね。そう言ってもらえるとホント嬉しい。嫌なことを抱えて此処に来て、帰る頃にはみんな元気になっている。そんな店を目指してるのよ」
「俺も良い店に飛び込んだと思っているよ。始めてきたときは仕事帰りの雨宿りのつもりだったんだ。ただどこでも良いというのではなく、串木野って名前に惹かれてね」
「今までそんな事、聞いたこと無かったわよね」
「話したことなかったかなあ」
「無かったわよ」
「俺の故郷は坊津。鹿児島の西南にある坊津。串木野市のずーっと南、川辺郡坊津町」
「エーッ。坊津なの、近くじゃあない」
「知ってる。久志博多」
「久志博多は知らない。私の生まれは串木野市なんだけど、母の実家は枕崎市なの。坊津には母の妹が居て、幼い頃に行ったわ二度ほど。映画でかなり身近になったの、坊津のことは。ショーンコネリーの【007は二度死ぬ】だったかな坊津でロケがあったでしょう。ああ近くでやってんだなと思ったの」
「そう。良いところだよ。俺に実家の横の道でロケをやったそうなんだ」
「そうー。でも福田さんて、高知の人じゃあなかった。そんなふうに聞いた記憶が有るんだけど」
「高知も故郷みたいなもんだな。坊津から高知の中村に貰われてきた」
「エッ。貰い子。ごめん表現が適切でなかったわ。養子に出たの」
「うん。出されたんだ」
「………」
「小学校三年の時だった。父の妹の嫁ぎ先。叔母夫婦の住む大阪に貰われていって、疎開で高知に行って、中学校を出ると大工の丁稚に行って。高知市で夜間の高校に行ってそれから大阪に出てきた」
「そう。辛いことを聞いたみたいね」
「いや。辛いなんて事はなかった。みんな、貰い子って言うと、辛い目に遭ったって言うけど、そんなことはなかったなあ。でも福田の母は厳しい人だったからねえ。いい加減な育て方をしたら、父や父方の親戚に申し訳が立たないって、随分躾には厳しかったなぁ。辛いことはなかったけど、でも少し波瀾万丈だったかな」
そこまで聞くと女将はハンカチを目にやった。
「福田さんを元気づけようとして話していたのに。私が泣いちゃった」
「泣くほどのことはないよ。今思えばみんな良い想い出だよ」
「………。ところで病院の検査の結果はどうだったの」
「………。聞きたい」
「そりゃあ聞きたいわよ。あれからずーっと心配してたんだから」
「………。聞いても面白くないよ」
「また、憎まれ口をたたいてる。早くおっしゃい」
「あの次の日、総合病院に行ったんだ、そして一週間して結果が出た………」
「それで」
「癌だって。前立腺癌。よくもって、あと3年。あと3年だって」
「…………」
「元気でいられるのは、もう僅かしかないんだ」
「…………」
「怖いんだ。家族には言えないけど、喚きたくなるほど怖いんだ」
「ワーァッ」
 女将は大きな声を上げてカウンターに泣き伏した。
一刀水はどうすることもできなく、カウンターの上の小さな花器に、視線を落としていた。
女将は一頻り涙を流すと、涙で赤く腫れた目を一刀水におくった。
「福田さん。こんな所で呑んでいる場合じゃあないわ。早く奥様の所に帰ってあげて、きっと心配されているわ。私、福田さんの言っていること信じる、冗談で言ってるなんて思わない。あと3年。お医者様があと3年って言うのなら、その時間を奥様のために有意義に使ってあげて。後に残った者には、想い出だけが生きる糧になってしまうの。お願い自分だけが苦しいなんて思わないで、福田さんがいなくなったら、奥様はきっと寂しがられる、きっと想い出のページを捲り始められると思うわ。だから一分、一秒を大切にして」
「……。家に帰っても誰もいないんだ。家内は仕事に行ってるんだ」
「エッ。病気の福田さんをほっといて」
「仕事だから」
「どんな」
「ここと同じような仕事」
「そう。でも夜のお仕事なら、昼間は一緒にいられるから大丈夫ね」
「…………」
「それで痛むの。仕事には行ってないんでしょう」
「行ってるんだ。家にいても誰もいないし。一人でいると、病が掠めていくんだ。怖いんだ。だから仕事に行ってるんだけど」
「無理をしちゃあだめよ」
「なかなか病気を理解してくれる家族が居なくてね。『医者の診間違いだから大丈夫』なんて慰めにもならないことを言うから、成人病センターで他の医者に診て貰ったんだ。結果は一緒だった」
「そうなの」
「雑誌なんか見ていると、家族で癌と闘ったなんて記事を目にするけど、家族の絆って、本当にあるのかねえ」
「あるわよ。絶対にある。福田さんのお家にだってあるでしょう」
「………。余り感じないけどね」
「奥様だって、お辛いのよ」
「ご兄弟には伝えたの」
「いいや。知らない方がいいんだ。知ったら辛いだけだ。知らない方が幸せだよ」
「そんな捨て鉢にならないで。いつかおっしゃってたでしょう。近くにいらっしゃる妹さんが姑さんを看取られたってお話、お伺いしたことがあるんだけど。その妹さんにもお伝えしてないの」
「ああ」
「どうしてなの。その妹さんなら受け止めてくれるんじゃあないの」
「あの子なら、しっかりしているし、受け止めてくれるかも知れないけど、嫁いで行った子だからね。知ることによって不幸になるよ」
「そんなの関係ないわよ。一度、早い時期にお話しになられたら、きっと受け止めてくれるわよ」
 女将はそう言いながら包装紙のカバーのかかった一冊の本を引き出しから取りだした。
「これ、福田さんから教えていただいた本なの、書店で取り寄せていただくのに随分かかったけど、良い本を手に入れることが出来たと思ってるの」
「そう。買ったの。でも買ったなんて言わなかったじゃぁない」
「誰にも言わないで大切にしているの。この本の話は、お店で、酒の肴にするような話じゃあないと思ってるの、だから誰にも言わないの。でも知人にはお勧めしてるのよ、『文芸社から出ている【仰げば尊し】呼んでみたら」って。遠い知り合いの人が書いたっておっしゃってたけど、素敵な知り合いがいらっしゃるんじゃあない」
「まあね」
「もう、何度読み直したか解らないわ。読むほどに嬉しい気持ちになっていくの。こんなに黒ずんでしまったけど」
そう言いながら、本のノドを食い入るように見つめていた。
「この本の主人公、美智子さんに会えるものなら、会ってみたいわ。この方なら私の身の上話を聞いていただけるような気がするの。無理でしょうけど」
「どんな身の上話」
「大したこと無いわよ。誰にも言わないの」
「言いかけておいて、ずるいよ」
「福田さんの妹さんもこの主人公と同じような感じの人だと思うわ。この本、お読みになって」
「いいや。人には宣伝したけどね」
「一度読むべきよ。この本は貸せませんけどね、私の宝物だから。本屋さんに頼んであげましょうか」
「いいよ」
「読めば元気になるのに。可愛くないのね」
「どうせ俺はこんな男さ」
「また憎まれ口」
「明日辺り、妹に連絡してみようかな」
「そうなさいって」
「うん。いずれ話さなきゃあいけないことだから、明日にでも電話してみるよ」
「そう。そうされるほうがよろしいわよ。でも、ここにも憂さ晴らしに来てくださいね」

その夜は串木野で、久しぶりの安らぎを味わっていた。