【その2】

「前立腺がよくありません。ここに白い影があるのがご確認いただけますでしょうか」
一刀水は体を伸ばして食い入るように見た。なんとなくそう見える。
「この部分が、此の辺りの神経を圧迫しています。今は痛みが無いと思いますが。痛みがでたら、ここが原因でしょうね」
「どのような治療をすれば良くなるでしょうか」
医師は少し考えていた。
わずかな時をおいて、説明を始めた。

「前立腺の病気はですね、近年急速な増加傾向にあるんです。それはこの病気が増えていると言うよりは、診断の医術が良くなったため前立腺の病気を見つけやすくなったと言う方が正しいでしょうか。特に高齢の男性からは極めて多く発見されています。今まで、前立腺癌はですね。潜在癌と言いまして、死亡した人を解剖したところ偶然前立腺癌が発見されたと言う例が多かったんです。」

 一刀水と妻は食い入るようにフィルムを見つめ、耳を傾けていた。
 「前立腺の臨床癌、つまり治療が出来る癌は、欧米では、推定5〜6%であるのに対して、我が国では、約1%ぐらいしかなく、かなり少ないとされてきたのです。しかしながら、最近の生活習慣が欧米に似てきたため、私達日本人の臨床癌の数も増加傾向にあるんですよ。70歳以上の方では、五人に一人の割合で前立腺癌が認められるといわれているんですよ。比較的多くの方がかかっている病気なんです。」

 医師はファイルを開きデーターを追いながら説明を進めていく。
 一刀水は背中を丸くし、両手を膝に置くようにしながら、目は医師の指先を追っている。妻はハンカチを口に当て、じっと耐えているように見受けられた。医師は数字を確認すると再び口を開き始めた。 

 「我が国における、1993年の前立腺癌の死亡数は4262人で、男性の死亡原因の10位だったんですが、今から10年先の2010年頃になりますと13、500人くらいに急増するのではないか言われているんですよ。1990年頃の3倍以上になるわけですよね。最近の診断医術の向上で、今までは潜在癌とされた前立腺癌が生前に発見されるようになりました。私達も十年以上前は年間10例ぐらいしか診なかったんですがね、ここ八、九年の間は年間三、四十例ぐらい診るようになりましたねえ。年によっても数字の多少はありますがね。治療については無治療で経過観察のみでよいものから手術や放射線療法、ホルモン療法、あるいはこれらの治療を組み合わせた集学的治療が必要なものなどいろいろあるんです。疫学調査によりますと、前立腺癌にはいろいろな因子が影響を及ぼしていることが知られているんですよ。まあ人種的に申し上げれば、一番多いのが米国黒人、二番目が白人、そして日本人の順に多いいんです。またハワイ在住の日系人の頻度は日本在住の日本人の4〜6倍といわれているんですよ」

一刀水は一点に目を起き、医師の話に聞き入っていた。
医師はデスクの上のロングピースを口にくわえると看護師の持つライターから火を付け、二、三服吸って、一息つくと再び口を開いた。

「その他では肥満者の予後はあんがい良いんですよね。私はヘビースモーカーですが喫煙者の予後は悪いんです。しかし、肥満は前立腺癌以外の多くの疾患の危険因子になるため、肥満になることをお薦めしているわけではありませんがね」

「それで、病状はいかがなものでしょうか」
一刀水は恐る恐る口を開いた。
「はっきり申し上げて、前立腺癌です」
「………」
「それも、かなり進んでいるようです」
「手術をしなければいけないでしょうか」
「いいや。手術は必要有りませんね。経過観察と投薬で診ていきます。先ほども申し上げましたように、前立腺がんは欧米では発生率が高く、全がんの上位にありますが、日本では案外少ないといわれてきました。しかし最近、上昇しております。日本においても、その発生率、死亡率共に癌の第1位になる日が来るものと予測されています。
 前立腺がんの多くは、男性ホルモンに依存して増殖する特徴を持っている癌なんです。初期の頃は自覚症状がないんです。そのうえリンパ節や骨に転移しやすい特徴をもっているため、症状が現れてからでは遅いんです。生存率は病期の進行と悪性度によりますが、難点は一個体に発生するがんの組織に多様性があり、分化度の高いものから低いものまでが混在していて明確な悪性の度合が判別できないことにあるんです」

「どのぐらい、生きられるでしょうか」
「そうですねえ。この癌は進行の遅い癌と言われていますが、あなたのように病期の進んでいる場合の例では、3年以上の存率は20パーセント程度で決して好ましいものではないんですよ」
「と、言うことは、あと3年ぐらいしか生きられないと言うことですか」
「統計的に言えば、3年というところでしょうか。しかしそれは生存率であって、20パーセントの人は、それ以上に8年も10年も頑張っておられるのですから……」
「あと3年。…ですか」
 一刀水は、己の耳を疑った。まさか、自分のことでは無いだろう。
 医師の一言に、目の前が真っ黒になっていくのを感じた。奈落の底に突き落とされるとは、こういうことを言うのだろうか。
脈拍はあがり、顔面蒼白。足はガタガタと震え、手も小刻みに震えを繰り返す。じわっーと汗が全身を包んでいく。なんとか落ち着きを取り戻そうとするが、自分自身ではどうすることも出来ない状態に陥った。横で妻が取りなそうとするが、一刀水は呆然とし続けている。かつて味わったことがない虚脱感。医師に返す言葉すら見つからない。
「薬で抑えていくことになります。完治することは望めませんが、頑張ってください」
無情な言葉だった。
教えてくれない方が良かった。
どうして宣告をしたんだ。
あと3年か。
死を宣告された人間は、どのようにして、その日、その日を生き抜けばいいんだ。
どうして、ここまで、放っておいたんだ。
かなり前から気になっていたんじゃあないのか。
あと3年?。何を戯けたことを、神から貰ったこの寿命を、医者の尺度で決めるのか。
いろいろな言葉が頭の中を交錯していく。

 診察室を出た一刀水は、思い切り叫びたい心境になっていた。ここで思いっきり大声をあげられたら少しは楽になるだろうに。とぼとぼと病院の廊下を歩いていく。かつて土佐のイゴッソといわれ、肩で風を切っていた姿などみじんも感じられなかった。鉛を抱え込んだような重い胸の内を引きずるようにして、かろうじて歩いていると、過ぎ去って日々のことがめまぐるしく蘇ってくる。
 傍らで妻の発する一言一言が、彼の胸の内をえぐっていく。べつにどうと言うことはない言葉、普段通りの会話なのだが、弱り身には、腹立たしくさえ感じられる。
彼の心の中を空白の時間が重苦しく流れていく。
 病院の廊下を喚きながら幼児が駆け抜けていく。俺もあんな風に喚き散らせたらどんなにか楽になるだろうに……クソッ。