第1章  宣   告

【その1】

 ブラインド越しに、初冬の西陽が、射し込んでくる。
デスクの上の医療器具が眩しく光り、男の心を逆撫でするかのように、突き刺さってくる。
もう30分以上は待っただろうか。
ライトボックスにかかる数枚のX線フィルムが、重苦しさを漂わせている。

 今日は、かねてより検査をしていた結果を聞く日だった。
この日は、「家族同伴で来るように」と、医師から指示があったため、妻も付き添っていた。
この部屋を訪れたときは、3時30分だった。

 医師がカルテを出し、大きな茶封筒から数枚のフィルムを取り出し、ライトボックスに掛けたときデスク上の電話がコールされた。
「はい。医長室」
大柄な看護師は、ガラにもない可愛い声で電話を取る。
「先生。ICUからです」
「直ぐ行くと伝えてくれ」
予期していたかのように告げると、聴診器を白衣のポケットに押し込み、カルテをしまうように看護師に目で指示をして
「すみません。しばらくお待ちいただけますか」
短い言葉を残すと、患者の返事を待つこともなく、荒々しく立ち上がり、乱暴な仕草でドアを開けると、大股で廊下に出ていった。
男と妻は、軽く頭を下げて見送った。

 デスク上に落ちるペンの影が少し伸びたような気がする。
椅子に腰を掛けたまま、一点に目を落とす男。
側で、妻が退屈したのか、苛立ちなのか、キョロキョロとしながら口を開いている。しかし、男の耳には何も届かない。壁の時計はもう4時を回っている。
男は荒れた手に目をやりながら、物思いに耽っていた。

 この日を迎えるにあたって、それなりの理由があった。
男は福田一刀水と言い65才の建築技師。妻和代は60才、自宅の近くで飲食店を営んでいた。
福田は現場を渡り歩くのが仕事のようなもので、若い頃は1都1道2府43県をくまなく渡り歩いたと自負していた。仕事先は国内にとどまらず、遠く中近東にまで及んでいる。仕事だけが人生のように、働きづめに働いてきた。三人の子供達はそれぞれに家庭を営み、子供をもうけて幸せな生活を築いている。余生は無理をしない程度に仕事をし、自然と戯れ、温泉を楽しみ、孫達との時間を大切に、心豊かな人生を送っていきたいと考えていた。

 還暦を過ぎたころだっただろうか、下腹部に違和感を感じるようになってきた。しかし、生来が医者嫌い、
「なーんちゃこっちゃない」
自分にそう言い聞かせると、妻にも家族にも訴えることもなく、今日まで月日を重ねてきた。
 1999年の暦があと僅かになったころ、風邪が長引いたため近くの町医者、新田医院を訪れた。医者嫌いな男ではあったが、この地に住まいを移して30年、やむを得ず医療機関の世話になる時は、極力新田医師を訪ねるようにしていた。口の回りに白い髭を蓄え、博士と言った風貌のする老医師だ。
採尿、採血のあとは、おきまりの診察。
「薬を出しておきますので、また明後日、来てみてください。それまでに尿と血液の検査結果が出ると思いますよ」
遠に七十半ばを過ぎたと思える皺だらけの顔に笑みを浮かべ、蓄えた髭の奥からそう言った。
 普段から医者嫌いの人間は、医者の前で胸を開いただけで治ったような錯覚を起こすもの、一刀水も多分に漏れず治ったような気になり、次の日は現場に出かけていった。いつもなら続けて医者を訪れることなどしない男だが、一日おいて次の日、仕事帰りに新田医院に立ち寄った。診察終了間際に飛び込んだ一刀水に向かって、新田医師は
「ごせいが出ますねえ。今、お帰りですか」
半ば照れながら応える一刀水に向かって言葉を続けた。
「福田さん。先日の検査の結果が出たのですが、もう少し詳しい検査をされた方が良いと思うのですが」
「かなり、悪いのでしょうか」
「そうとは言い切れませんが、データー的にすっきりしないんですよ」
「………」
「紹介状を書きますので、明日にでも総合病院の方で検査をしてもらって下さい」
医師の言葉が無情に響く。一刀水は無言のままだった。かろうじて頭を下げ、重い足取りで待合室に戻る。《そんなに俺は悪いのか》待合室の片隅でぼんやりと壁に目をやる一刀水の胸中を、虚無のひとときが流れていく。

新田医師から渡された紹介状を手に、
「あまり無理をなさらんようにな。気をつけなさいや」
新田医師の優しい言葉に送られて、夜道を家に向かった。大きな通りを越え、どぶ川に架かる小さな睡蓮橋の畔から高層住宅の一画に目をやった。今日も我が家に灯りはない。このまま進めば、数分後には、あの冷たい空間に身を置くことになる。
ぼんやりと見上げながら、吐き捨てるようにつぶやいた。
「帰っても、待ち人…無しか…」
直ぐにでも、扉が開けられるように、手にしていた鍵束を無造作にズボンのポケットにつっこむと、踵を返して再び駅の方へ歩き始めた。
 何がなんだか解らない。別に医者がどうのこうのと言ったわけではない。しかし心は僅かに荒れていた。人通りが少なくなった商店街を歩く、何処に行くというあてはないのだが、わき目もふらず、路面に視線を落としながら歩いていく。すれ違いざまに肩が触れたと若者が怒号をあげる。眼光鋭く睨み返した男の形相に、若者は生唾を飲んで、二の句を告ぐことも無く、その場を立ち去っていった。
《今夜の俺は荒れているのかな。家に灯りが点いていないことぐらい、今に始まったことでは無いじゃあないか。修業時代からも、いつもそんなものだったんじゃあないのか》
自分を慰めるように頭の中を整理すると、いくらか気持ちが楽になってきた。そして駅の方へ向かって、足早に歩をすすめた。


 駅近くの裏通りにある、スナック「串木野」と行灯に書かれている店の前で立ち止まると、一息おいて店のドアを押した。
「いらっしゃい」
ママと言うよりは、女将と形容した方がぴったりの四十半ばのふくよかな女性は、包丁を使う手を休め、優しい眼差しを入口におくった。
「あら。お久しぶり。いつお帰りになられたの」
そう言いながら、一番奥の席に招き入れた。カウンターだけの八席しかない小さな店だが隣席との間を十分に取り、趣味の良い深めの椅子が置かれている。カウンターの高さも七〇センチほどに押さえ、厨房の中は掘り下げてあり、客と目の高さが同じになるように設計されている。幅の広い黒光のしているカウンターの上には、一席に一つ、小さな水盤が置かれ、それぞれに違う季節の花が生けられていた。時間が早いせいか客は誰もいなかった。
「今の現場は大阪でね。毎日通勤していますよ」
「そう。その割にはお見限りじゃあない」
「そう言う訳じゃあないが、忙しくてね」
「そう。よそのお店に行くのが忙しくて…。まあそれはいいとして。今日は鰈が美味しく炊けていますけど」
「それを頂こうかな」
「はい。ありがとうございます。じゃあビールよりお酒の方が良ろしいわね」
そう言いながら手際よく セッティングをしていった。
一刀水は、女将の手際の良さは芸術的だな。そう思いながら、いつ来ても退屈することなくその仕草を見つめていた。
「どうしたの。少し元気がなさそうじゃない。本当に忙しくて疲れ気味なの」
「ちょっと、医者通いでね」
「何処が悪いの」
「それがよく解らなくて。明日、総合病院で検査を受けるんだけどね」
「そう。そりゃあ心配ね」
女将はそう言いながら、グラスに酒を注ぐのを止めた。
「今日は、酒は駄目。ちょっと待ってて。すぐに食事の支度をしますから」
一刀水の返事を待つこともなく、コースターを下げ、食事の段取りに入った。
「ママ。一杯だけ注いでよ」
「駄目。今日はお酒は駄目。無理をしたのじゃあないの。気を付けなければだめよ」
「無理をしたつもりはないんだけど」
「男の人って、結構大変よね。仕事の進行、対人関係、外に出ればいろいろあるわよね」
「俺って、図太いほうなんだけどね」
「福田さんて、顔に似合わず繊細でしょう。私はそう見てるの。当たってるでしょう」
「そうかなあ。雑で不器用な男だと思うんだけど」
そんな話をしているうちにカウンターの上に料理が並んだ。
「ママ。これスナックの料理とは思えないよね。料亭の料理だよ。いつもながら大したもんだ。美人で料理がうまくて、さぞ旦那は幸せもんだろうね」
「あまり誉めないで。お世辞は福田さんには似合わないわよ。冷めないうちにどうぞ」
「ありがとう。いただきます」
晩酌のない夕食など、今までに考えたこともなかったが、妙にうれしい気持ちになっていた。徐に箸を口元に運びながら舌鼓をうつ。

出張先ではほとんどが自炊、それもスーパーマーケットやコンビニエンスストアで買い求めた惣菜だった。
府内の現場に自宅から通っているときも、妻は仕事や自治会の用事で多忙を極めているため、家に帰っても惣菜が膳の上に並んでいるだけだった。
時折、この店にやってきては、わずかな時を過ごして帰る。もう何年になるだろう。いつ来ても「ママ」と呼び、本名を知らない女性だが、仕草を見ているだけで、心の解れを繕ってくれる女だった。

「ここに来だして、もう五、六年になるかなあ」
「近いわね。六年と二日」
「どうしてそんなに詳しく覚えてるの」
「ここは、私が四十の誕生日に開店したの。この店の最初のお客様が福田さんだったの。忘れられるわけがないでしょう」
「そうだったの。じゃあ一昨日は誕生日だったの」
「そうですよ。四十六と二日。あの日は大雨で開店日だって言うのに、お客様は一人もなし。仕入先なんかの義理のお客様も無いし、惨めな開店日だったのよ。そんなときに、入って来てくださったんですよ。福田さんが、嬉しかったわ。口にしたことはなかったけど、ずーっと感謝してましたの」
「そう」
「お体大事にしてくださいね。明日の検査の結果がでたらすぐ知らせてくださいね」
「うん」
「本当に知らせてくださいね」
「ありがとう」

長い間通い詰めた店だが、こんなに長い時間、女将と話したこともなかった。いつ来ても寡黙に飲んで帰るだけだった。


医師は診察室に戻ると開口一番
「お待たせしました。昨日手術をした患者さんが心配だったものですから。もう落ち着きましたので」
一刀水は、医師の声によって、現実に引き戻された。
医師が戻ってきたのだ。
医師は席に浅く座り、差し棒を片手に説明を始めた。

    …………………………………………つづく…………………………………………