江戸時代には能勢街道の要所として、数多くの旅人が行き来して、鶴乃茶屋や萩乃茶屋といった名物茶屋が並んで賑わったという茶屋町界隈。菜の花畑が一面に広がり、それは大坂・毛馬生まれの漂泊詩人・与謝蕪村の心の故郷、原風景でもありました。大都会の梅田の中心部にありながらも、よく眺めれば、旧街道の名残がちらほら見えてくる。そんな 茶屋町界隈を歩きます。
梅田は昔、このあたりは湿地帯で、明治維新以降に土地を開発するにあたり、それらを埋め立てました。当初は「埋田」(うめた)と呼ばれていましたが、近くの大阪天満宮の梅花殿にあやかって「梅田」となったと言われています。 
 ▲北向き地蔵  ▲阪急「HEP」
 北向き地蔵
明治24年(1891)、この付近の畑から自然石に刻まれ たお地蔵さんが掘り出されて、信仰の対象となり、当時 の地主が世話人となり、お堂を北向きに建立されたの が由来です。昭和41年(1966)からの阪急梅田駅の移 設拡張工事が始まり、昭和44年(1969)には阪急三 番街が誕生したために、お堂は西方へ約50メートルほ ど移り、現在の地に鎮座しました。 
▲歯神社(はじんじゃ)
主祭神は歯神(はがみ)大神さまで、歯、全般の神さまと して信仰されています。元々はここにあった巨石を地元民がお祀りしていただけの小さい社でしたが、梅田一 帯が水没するかというほどの淀川の大氾濫を、御神体 の巨石が歯止めしたことから、「歯止めの神さま」として 慕われ、いつの頃からか「歯痛止め」、「歯の神さま」とな りました。明治になってから正式な神社にしたいという 地元民の思いで、綱敷天神社の末社に加えられました。 毎年6月4日に例祭(歯ブラシ感謝祭)を行っています。
▲能勢街道の通る街
▲凌雲閣跡
明治22年(1889)に完成した木造9階建ての娯楽施設(展望台)です。高さは130尺(39メートル)ほどで、 1、2階は5角形、3階からは8角錘台の形で、その上に 丸屋根がついていました。周囲には池泉が整備されて、四季おりおりの花が咲き誇り、茶店、遊戯場が設けられ たといいます。今宮村(現在の浪速区・日本橋あたり)に も「眺望閣」という同じような娯楽施設があって、そちら を「ミナミの5階」、凌雲閣のことを「キタの9階」と呼ん で、当時の大阪庶民に親しまれましたが、残念ながら昭 和初期には撤去されてしまいました。
 ▲今に残る能勢街道
▲能勢街道と鶴乃茶屋跡
この付近は江戸時代後期から明治中期にかけて、大阪の一大行楽地で、鶴、萩、車という 茶屋が並んで、大いに賑わっていました。人々の憩いの場所でもあり、「茶屋町」という地 名は、その当時の名残です。鶴乃茶屋は、2羽の鶴がいたことがその名の由来とされてい ます。また鶴乃茶屋跡前の道は、能勢街道、中国街道(高麗橋から西淀川区を通過し下関 へ)に当たっていて、綱敷天神社の社前付近から屈曲した道が、かつての旧街道の面影を 色濃くとどめています。
▲綱敷天神社御旅社 綱敷(つなしき)天神社
綱敷(つなしき)天神社は、御祭神は平安時代の政治家・歌人・学者の菅原道真公です。延喜元年(901)に菅原道真公が無実の罪によって、九州・大宰府へと左遷され たさいに、この地で咲いていた紅梅に目を留めて、それをよく見るために、船の艫綱(陸と船をつなぐ綱)を円座状に敷きました。のちに天神さまとなった管公が「綱を 敷いた」ことが所以で「綱敷天神社」が創建されたといいます。綱敷天神社の本社は、約800メートル南東の大阪市北区神山町に御鎮座しています。御旅社は元々は本社の南にあり、古くは「梅塚天神」といって、菅原道真公が眺めたという紅梅がありましたが、明治初年頃に梅田・茶屋町の氏神さまとしてお迎えしたいという住民 の土地の寄進があって、現在地に鎮座しました。臨時で設けられる普通の「御旅所」とは異なっていて、常に御祭神がご鎮座しているので「御旅社」といっています。 
国際芸術劇場前の与謝蕪村句碑
与謝蕪村句碑   「菜の花や 月は東に 日は西に」 与謝蕪村(1716~ 1784)は江戸時代中期の日本の俳 人・画家で、摂津国東成郡毛馬村(現在の大阪市都島区毛 馬町)に生まれました。20歳の頃に故郷の毛馬村を出て、 江戸や下総、東北、丹後、讃岐など各地を旅しながら多くの 俳句を詠みました。江戸俳諧中興の祖として、松尾芭蕉、小 林一茶と並び称される巨匠で、また俳画の創始者でもあり ます。晩年は京都で暮らして、清貧の中で生涯を終え、一度 も大坂・毛馬には帰りませんでした。この句は安永3年 (1774)に作られた句です。江戸時代から明治初年の頃ま では、蕪村の故郷の毛馬から天満、茶屋町にかけては、あた り一面、菜の花畑でした。
阪急電車沿いに済生会前交差点に進み西に渡って北へ進みバス道と分かれて細い道を北へ進んでいく
▲萩之橋跡碑
このあたりは昔は能勢街道がありました。能勢街道は大坂 と能勢地方を結ぶ街道で、能勢からは炭・薪・栗・柿・木材・ 銅・銀、池田からは酒・植木などが運ばれました。また大坂 からは衣類・干物・魚・塩などが池田を経由して運ばれたよ うで、物流の街道として発達しました。萩之橋は能勢街道を 横切るように流れていた水路に架かっていたもので、近く に萩の名所で有名な東光院(萩の寺)があったので、それに ちなんで名付けられたといいます。
 現在に名を遺す能勢街道の文字がJR線の架道橋につけられている  ▲近くのお地蔵様
 萩の之橋跡碑からそのまま北上を続けていくと右手に富島神社があります。
▲富島神社
富島神社から少し東へ行ったところに光徳寺がある。門柱に佐伯の表札が上がっている。ここが佐伯祐三生誕の地です。  
 佐伯祐三生誕の地  佐伯祐三の自画像
佐伯は1898年(明治31年)、大阪府西成郡中津村(現大阪市北区中津二丁目)にある光徳寺の男4人女3人の兄弟の次男として生まれた。1917年(大正6年)東京の小石川(現・文京区)にあった川端画学校に入り、藤島武二に師事する。旧制北野中学(現・大阪府立北野高等学校)を卒業した後、1918年(大正7年)には、東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科に入学し、引き続き藤島武二に師事、1923年(大正12年)に同校を卒業した。東京美術学校では、卒業に際し自画像を描いて母校に寄付することがならわしになっており、佐伯の自画像も現存している。鋭い眼光が印象的なこの自画像は、作風の面では印象派風の穏やかなもので、後のパリ滞在中の佐伯の作風とはかなり異なっている。なお、在学中に結婚した佐伯の妻・佐伯米子(旧姓・池田)も絵を描き、二科展などにも入選していた。
能勢街道は淀川によって分断されている。この川の中に集落があったのだが河川工事によって沈んだ。対岸の十三地区には能勢街道が残されており現在に名残を残している
 ▲淀  川
 淀川(よどがわ)は、琵琶湖から流れ出る唯一の河川。瀬田川、宇治川、淀川と名前を変えて大阪湾に流れ込む。滋賀県、京都府及び大阪府を流れる淀川水系の本流で一級河川。流路延長75.1km、流域面積8,240km2。なお、先述の流路延長は琵琶湖南端よりの延長であり、河口から最も遠い地点は滋賀県・福井県の分水嶺である栃ノ木峠であり、淀川の源の石碑が設置されている。この場所は琵琶湖へ流入する河川・高時川の水源地であり、そこからの河口までの直線距離は約130km、流路延長に換算すると約170kmとなる。
瀬戸内海に流れる河川の中では流域面積が最も広く、流域人口は西日本で最も多い、また琵琶湖に流入する河川や木津川などを含めた淀川水系全体の支流数は965本で日本一多い。第2位は信濃川(880本)、第3位は利根川(819本)となっている。
淀川の堤防を降りて来た道を戻る。JR線の能勢街道架道橋の手前を右に折れ線路に沿って進んでいくと阪急電車・中津駅がある。この駅の西より車道を南へ進み、ガードを抜けたところを西へ折れると南蛮文化館がある。
▲南蛮文化館
昭和43年(1968)5月1日に、大阪・中津にオープンしま した。館長の北村芳郎氏が40歳台よりコレクションして きた、南蛮美術中心の私立美術館です。重要文化財の南 蛮屏風や、聖ペトロ画像、イエズス会紋章入り聖餅箱な ど、美術品や工芸品をはじめ、陶器や漆器、古文書などの 品々を所有しています。
▲南蛮文化館の近くにある中津南三地蔵堂 ▲街角の風景
中津は第二次世界大戦でも空襲の影響を受けなかった地域なので昔ながらの街並みが残っています。お地蔵さんも多く残っています。176号線の高架より南側ですが、昔大きな家と中津1立派な地蔵堂がありました。昔から立派なお堂でしたが、今は2階建ての地蔵堂です!これはおそらく北区最大の地蔵堂だと思われます。 
中津芸術文化村 ピエロハーバー
国道176号線の高架下にあるアート情報発信基地です。 文化と芸術の地域テーマパークで、音楽ライブや演劇、ス タジオ、アトリエ、フリマ、カルチャー教室などを展開して、 アーティストと気軽に交流できます。毎月のべ4000人が 来訪するアットホームな文化芸術スポットとして地域住民 に愛されています。
大阪あそ歩には紹介されていたが残念ながら見つけることには至らなかった。
 
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 文:美智子姫 
は平成12年(2000)に完成した東横堀川水門は、道頓堀 川水門と対になっている閘門です。①門の前後で水面の 高さが違う時に水門内で水位の調整を行い船舶を航行さ せる、②大雨や高潮で水位が上昇する時は水門を閉めて 浸水被害を防ぐ、③潮の干満を活かして門を開閉して水 質をきれいにする、という役割があります。水門が開閉す るときに船の信号がわりに出る噴水は、大阪市章「みお つくし」のかたちをイメージしてつくられたそう