「河内湾」「河内潟」「河内湖」へと、時代とともに姿を変えてきた鴫野・放出。大雨や台風のたびに川の氾濫や浸水に悩まされて来た土地ですが、上町台地の東側にあって、古代からさまざまな人々が行き交った土地でもありました。草薙(くさなぎ)の剣を盗んだ新羅僧・道行や、菅公が腰掛けた石、弘法大師手作りの仏像、秀吉の鎮護社、大坂冬の陣の激戦地などなど…。いまは消えてしまった河内湖と、失われた数々の物語の舞台を、訪ね歩きます
▲歴史街道の碑 ▲南しぎの商店街
▲大日寺 ▲上:弘法大師像  下:宝篋印塔
弘仁年間(810~24)に、弘法大師が各地を巡って教えを説いていた頃に、鴫野村で難産に苦しむ女性に出会いました。弘法大師は世の女性の難産を除くために一刀三礼の子安大日如来を刻んで安置しました。これが寺の草創で、江戸時代に編纂された摂津国の地誌『摂陽群談』(1701年)などにも記載されています。現在でも「子安の大日さん」として熱心な信仰を得ていますが、豊臣秀吉が大坂城築城のさいは、鬼門除けの寺として参拝したとも伝わっています。戦前は寺の西側に沿って井路川が流れて、石垣には大名の刻印石もありました。これは徳川氏が大坂城修復のさいの不要石を利用したものですが、川を埋めた際に道路の下に隠れて現在は見ることができません。境内には鎌倉期のものと推測される古い宝篋印塔(ほうきょういんとう)が残っていて、宝篋印塔とは、経文を納める主に石造りの塔のことで、平安末から供養塔・墓碑塔として建てられました。 
▲八剱神社
ご祭神は八劔大明神(やつるぎだいみょうじん)、武速須佐雄大神(たけはやすさのおのおおかみ)、罔象女大神(みづはのめのおおかみ)です。ある夜、鴫野村の住民が寝ていると、夢の中に1人の老翁が現れて「吾はこれ熱田の神なり。跡をこの地に垂れんと欲す。明日、汝等出でて吾を淀川の河辺に迎うべし」と告げました。翌日、自分も同じ夢を見たという村人が続出したので一同、河辺に出迎えると、1匹の小蛇が河中に現れて岸に上がって鴫野村に入っていきました。その悠々泰然の様子を見て、村人は畏敬に打たれ、祠を建てて祀りました。応永3年(1396)9月22日のことで、これが神社の創建と伝えられています(別伝では蛇ではなく白鳥の伝えもあります)。境内には昭和36年(1961)建立の「郷土宮相撲米川部屋頭取碑」があって面白い四股名が刻まれています。また鴫野村の検地帳が保存され、近世研究史料となっています
▲大坂冬の陣 鴫野・今福の合戦の主戦場跡碑
「鴫野の戦い」「今福の戦い」は、慶長19年(1614)に行われた大坂冬の陣最大の激戦地です。当時、大坂城東北には旧大和川が流れていて、川を挟んで南岸が鴫野村、北岸が今福村でした。周りは湿地帯や水田で、さらに豊臣方は東軍進攻に備えて堤防を切り、唯一の進入路の堤防上に何重もの柵を設けて守備しました。徳川家康は今福に城を築こうと鴫野に上杉景勝、今福に佐竹義宣を進軍させますが、その様子を大坂城天守から見ていた豊臣秀頼は鴫野に大野治長、今福に木村重成、後藤基次を送り込み、激しい戦闘が行われました。結果、鴫野は上杉景勝に占領されますが、肝心の今福が膠着状態で両軍ともに撤退。家康の作戦は失敗しました。鴫野占領後、家康は堀尾忠晴と交替して兵を休ませるよう伝えますが、景勝は「弓取りの先をあらそふ時、一寸ましといふ事あり。今朝よりはげしく軍して取敷たる所を、人に譲りて退く事や候」(先陣争いをする時は一寸でも前線にいないといけない。ようやく奪い取った陣地を退くことなどできない)と拒否しました。石碑は、この戦いを後世に伝えるため、明治・大正時代の漢学者・新聞記者の西村時彦氏の撰によって、大正9年(1920)に建てられました。
善福寺 天王田延命地蔵尊
八坂神社 古道沿い家
京都・八坂神社の分社で素戔鳴尊をお祀りしています。創建年代不詳ですが、社伝によれば、昔、村の近くを流れていた楠根川上流から金色に光るものが流れてくるのを庄屋が網ですくい上げ、よく見ると牛頭天王と墨書された木簡で、これをお祀りしたことに始まったとあります。長く天王田の氏神さまとして信奉されていましたが、大正2年(1913)に永田村の水神社とともに八劔神社に合祀。約70年間、荒れ放題で狛犬だけが転がっていましたが、昭和55年(1980)に天王田の人々の強い懇願と協力によって再建されました。神前には頭の一部が欠けた狛犬が鎮座していますが、この狛犬にお願いすると、失くなったものが見つかるといいます。また境内には銀杏の大木があって「稲秀大明神」が祀られています。
平野川分水路排水機場
平野川分水路排水機場は洪水時に第二寝屋川との合流点に設置した水門を閉ざして第 二寝屋川の水位の影響を遮断すると共に、ポンプによって平 野川分水路の洪水を強制的に排水し水位を低下させます。こ れによって堤防や多くの橋のかさ上げが不要となるため、沿川 の土地利用や都市交通への影響が最小限に抑えられます。
  放出下水処理場
 放出下水処理場は下水道施設の上部空間の有効利用を目的に、放出下水処理 場の既存施設約21000平方メートルのうち、約14000平 方メートルを活用して、153区画の市民農園や1500平方メ ートルの芝生広場がある屋上庭園などがあります。平成17 年(2005)4月より共用が開始されました。
▲いにしえの面影を残す ▲大銀杏の木
▲させん堂不動寺、 左専道小学発祥の地
真言宗山階派の寺院で、ご本尊は不動明王です。豊臣秀吉が大坂城を築城したさいに、現在の生國魂神社界隈にあった不動堂を取り壊して、慶長7年(1602)東成郡木戸村に再建しましたが、たびたび水害に見舞われたので、宝暦9年(1759)に現在地に移しました。江戸時代には広く信者を集め、参詣の列が絶えないほど賑わって「どっこいそうはさせん堂のお不動さん」などと呼ばれて庶民に親しまれましたが、明治の廃仏毀釈の影響で、当時の賑わいはほとんど失われました。築港高野山(港区・西方)、太平寺(天王寺区・南方)、了徳院(福島区・北
方)と並んで、大阪四不動尊詣のひとつとして東方を担っています。左専道小学校は、明治8年(1875)に左専道・永田両村の組合立の学校として創立。後藤某の借家を校舎にあてたとされ、その「発祥の地」の石碑が不動寺の門の横に建っています。
▲諏訪神社
全国に5000社以上ある諏訪大社(長野県)の分社の1つで、ご祭神は建御名方刀美命(たけみなかたとみのみこと)・八坂刀売命(やさかとめのみこと)です。創建年代不詳ですが、境内に現存する石灯籠に「承和3年(836)4月寄進」とあるので、今から1200年前の平安時代にはすでに創建されていたと考えられます。摂社の腰掛天満宮は、筑紫への左遷が決定した菅原道真公が、河内・道明寺在住の伯母にお別れするために当地を訪れて腰掛けたという石を祀ったもので、石に触ると学業成就すると言われています。豊臣秀吉が大坂城を築城すると、城の真東の鎮護社として厚く崇敬され、天正18年(1590)の小田原攻めで北条氏を降したさいは、戦勝感謝として雌・雄の大獅子(白雲号・白豊号。白豊号は流失。白雲号のみ現存)を奉納しました。また諏訪大神は軍神であることから、境内には戊辰戦争で官軍の軍艦に備えつけられていたドイツのクルップ社製の大砲と砲丸などもあって、石台には「明治2年5月官軍攻五稜郭此其所用巨砲之一也」と記されています。 
 天然記念物 「くす」
老木ではあるが四季を通じて枝葉なを旺盛で風雪に耐え境内に荘厳の風を添えている 幹囲目通り19尺2寸(約6m)樹高約50尺(約16m)枝張約98尺(約30m)より社頭の森厳加え当方における銘木であると書かれている
ここの本殿下の狛犬さん4対はそれぞれ表情が異なっていることで有名のようです
阿遅速雄(あぢはやお)神社
延喜式神名帳(延長5年・927)に記されている式内社で、古代は阿遅經宮(あぢふのみや)、または浦明神と称され、のちに八劔大明神とも称えられました。社伝によれば、ご祭神の阿遅金且高日子根神(あぢすきたかひこね)は当地に降臨して民衆に農耕の業を授け、守護神として祀られたといいます。古代はこの辺りに河内湖があって、天智7年(668)に新羅僧・道行が尾張の熱田神宮の神剣(天叢雲剣=草薙剣)を
盗んで、新羅に持ち込もうと船で逃げていると、突然の嵐に巻き込まれました。これは神罰だと恐れをなした道行は草薙の剣を河口に放り出して逃げ去りますが(これが放出という地名の由来という説があります)、剣は里人によって拾われて当社に納められました。その後、熱田神宮に返還されましたが、これが由縁で現在でも例祭日には熱田神宮より神職が参拝、熱田神宮例祭日にも、当社の宮司などが参列する慣習が続いています。境内の鳥居右側には慶応4年(1868)銘のお蔭灯篭があります。江戸時代に流行した伊勢神宮へのお陰参りの灯篭で、大阪市内では唯一のものです。大阪府指定天然記念物となっているクスノキも見物です。
 
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 文:美智子姫 
は平成12年(2000)に完成した東横堀川水門は、道頓堀 川水門と対になっている閘門です。①門の前後で水面の 高さが違う時に水門内で水位の調整を行い船舶を航行さ せる、②大雨や高潮で水位が上昇する時は水門を閉めて 浸水被害を防ぐ、③潮の干満を活かして門を開閉して水 質をきれいにする、という役割があります。水門が開閉す るときに船の信号がわりに出る噴水は、大阪市章「みお つくし」のかたちをイメージしてつくられたそう