大阪港  
大阪地下鉄:中央線 大阪港駅2番出口を出て北へ400m進めば天保山公園の入口です
日本一低い山・天保山 天保2年(1831)、淀川が運ぶ土砂堆積で、大坂市中に船が入れ なくなったので浚渫が行われ、その土砂で築山されました。当初は 十間(約20メートル)ほどの高さで、高灯籠(灯台)が設けられ、「目 印山」と呼ばれたといいます。やがて桜を植えて茶店が設置される と大坂でも有数の行楽地に。ところが安政元年(1854)にロシア 軍艦ディアナ号が来航すると、攘夷の思想が高まり山を削り取って 砲台を設置。西洋式の城塞となりました。明治時代はまた平和な時 代となったので、海水温浴場「海浜院」や天保山遊園などが出来ま すが、すぐに廃れてしまい、戦後に公園として整備され、現在に至り ます。天保山は戦後、地下水汲み上げで地盤沈下が起こり、昭和46 年(1971)に7.1メートルだったのが、昭和52年(1977)には 4.7メートルまで標高が低下。現在は4.53メートルで留まっていま す。平成5年(1993)、地形図から山名が抹消されましたが、地元 の熱烈な要望によって平成8年(1996)に再掲載されました。国土 地理院発行の地形図に、山名と共に載っている山の中では日本一 低い山です。山頂に二等三角点があります。 
▲天保山公園入口から天保山渡船場の方へ行くと右側の壁面にあります
 ▲天保山公園の壁面にある天保山の図絵
▲ハーバービレッジ ▲世界最大級の水族館・ 海遊館
天保山ハーバービレッジ 平成2年(1990)開業。天保山大観覧車や世界最大級の水族館・ 海遊館などがあります。
▲大阪港に浮かぶ人魚姫や観光船
▲商船三井 築港ビル/ 天満屋ビル ▲明治天皇聖職碑
商船三井 築港ビル/ 天満屋ビル
昭和8年(1933)竣工で す。3階建てですが、正面 に見えている玄関のとこ ろが元の2階になります。 2度の台風の影響で、前 の道が盛り土されて、1階 だったところが半地下の ようになりました。今は1 階(以前の2階)は、ギャラ リーとして使われていま す。天満屋ビルは昭和10 年(1935)竣工で、元は 回漕店の社屋兼居宅とし て建設されました。このビ ルも商船三井ビル同様に 整備された際、1階が半地 下状態になったので2階 のバルコニーだったとこ ろへ階段を取り付け玄関 にしています。
▲築港通り商店街
▲築港温泉 ▲善光寺
地域に愛される大衆浴場。 風呂場や脱衣所を利用し て、室内ミニコンサートや 写真展も開かれるコミュ ニティスペースとしても 活用されています。  
▲高野山真言宗準別格本山築港高野山釈迦院
築港高野山 正式名称は高野山真言宗準別格本山築港高野山釈迦院といいます。明治43年(1910)に河内の弘川寺の塔頭「釈迦院」の寺号を築港に移しました。かつて、弘法大 師が難波津から遣唐使船に乗って唐にわたって経典を求めたことから、その聖跡を顕彰するために建立されました。7800坪という広大な寺域を誇る大伽藍で、完成 した当初は「東の四天王寺、西の築港高野山」と称せられるほど参詣者が溢れて殷賑を極め、毎月21日の縁日には屋台が130店あまりも出たといいます。しかし、昭 和20年(1945)6月1日の大阪大空襲で全焼失。当時の築港・天保山には軍事工場などがあったので、米軍に徹底的に空襲されて、ほぼ全土が壊滅状態となりまし た。当時の記録によると戦前21万人を超えた港区の人口は、疎開と空襲で終戦直後には僅か1万人になったといいます。戦後に本堂を再建しましたが、平成7年 (1995)の阪神淡路大震災で倒壊寸前となったので解体。現在の本堂は平成12年(2000)に再建したものです。
 ▲港住吉神社
住吉大社で御祓いの神事を行い、海に向かってお札を流すと、潮流 の関係で、決まって天保山界隈にたどり着くという不思議がありまし た。そこで、住吉大社の末社として、天保13年(1842)に、航海や 漁撈の安全を祈って祀られたといいます。当初は天保山上に建てら れていましたが、砲台をつくるために移転。ところが移転先に運河を 通す計画が持ち上がったため、大正6年(1917)、さらに移転して現 在地にご鎮座しました。社殿は戦災で焼失して戦後再建されたもの です。境内には日露戦争の軍艦の砲弾2発が奉納されていますが、 これは築港が大軍出征の足場となった由縁によります。
 海岸通ギャラリーCASO
海岸通ギャラリーCASOは 平成12年(2000)、住友倉庫によって現代美術を中心としたス ペースとして開設されました。建物は築30年の鉄骨造の倉庫を 改修したものです。
▲赤レンガ倉庫群
赤レンガ倉庫 大正12年(1923)に住友倉庫によって建設。大阪に残る数少ないレンガ建築で、平成11 年(1999)に住友倉庫から大阪市に移管されました。昭和3年(1928)には、赤レンガ旧 200倉庫と旧300倉庫の間に臨港鉄道の側線が通り、ここから国内各地へ貨物列車が走 りました。当時の大阪市は関東大震災で疲弊した東京市を凌駕して、日本最大の商工業都 市となり、「大大阪」と呼ばれる繁栄の時代を迎えていました。赤レンガ倉庫のある築港一 帯は、その大大阪の玄関口として、人や貨物が行き交う海陸交通の結節点として大いに賑 わいました。現在はレストランや外車ディーラーとして使用されているようです。
 
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 文:美智子姫 
は平成12年(2000)に完成した東横堀川水門は、道頓堀 川水門と対になっている閘門です。①門の前後で水面の 高さが違う時に水門内で水位の調整を行い船舶を航行さ せる、②大雨や高潮で水位が上昇する時は水門を閉めて 浸水被害を防ぐ、③潮の干満を活かして門を開閉して水 質をきれいにする、という役割があります。水門が開閉す るときに船の信号がわりに出る噴水は、大阪市章「みお つくし」のかたちをイメージしてつくられたそう