かつて開削者の名から七郎右衛門堀と呼ばれた西横堀川。今から400年程前に開削された川は阪神高速道路の建設 により埋め立てられてしまい、今ではいくつか残る橋跡にのみその名残をとどめています。川と橋と、まちを思い描き ながら、土佐堀から長堀の四ツ橋まで参ります。
肥後橋
肥後橋(ひごばし)は、大阪市西区土佐堀1丁目と北区中之島2丁目を結ぶ、土佐堀川に架かる四つ橋筋の橋である。
橋の周辺は高層ビルが林立する大阪有数のオフィス街のため、橋そのものより、周辺一帯を指す名称として使用されることが多い。橋の南詰に肥後橋駅がある。
江戸時代を通じて架橋地点は現在と異なり、西横堀川東岸の横堀筋北端から中之島へ架かっていた。橋の北詰に肥後熊本藩の蔵屋敷があったことから肥後島と呼ばれて町名にもなっており、橋名もこれに由来する。なお、熊本藩の蔵屋敷は元禄期に中之島西部の越中橋北詰へ移転したが、橋名はそのまま残った。
梅花社跡
肥後橋交差点から土佐堀通りを西に行ったところにあるシェルガソリンスタンドの西壁にあります
 篠崎三島(しのざきさんとう1737~1813)は、伊予か ら大坂に出て、玉水町で紙屋と両替屋をしていましたが後 に儒者となり、安永5年(1776)に私塾・梅花社を開きま した。加藤金吾少年は9歳から梅花社で学び、13歳のと きに乞われて三島の養子となり、篠崎小竹(しのざきしょう ちく1781~1851)と名乗りました。小竹は、頼山陽から 刺激を受けて江戸に遊学するなどして見聞を広め、天保2 年(1831)に、養父と同じ名前の梅花社を開きました。小 竹は詩書に優れていたので揮毫依頼が絶えず、潤筆料で 1年に6~7万両も稼いだので、「儒者の鴻池」と呼ばれま した。また、門下生は1,500名を擁し、小竹が亡くなった 際、葬儀の前方は天満・天徳寺に着いていたのに後方は小 竹邸を出なかったと言い伝えられています。
大同生命 大阪本社ビル
「大同生命 大阪本社ビル」は、話題のNHKの朝ドラ「あさが来た」で有名な「加賀屋」の跡地に建つ独創的なデザインのビルです。低層階の柱の上部に傘のような絞りがあって、一見不安定さも感じますが、旧ビルのテラコッタなどがデザインの一部に取り入れられています。
西横堀川跡碑 大同生命 大阪本社ビル内 モニュメント
西横堀川の開削時期は、慶長5年(1600)頃、または元和3~5年(1617~1619)頃とされています。豊臣秀吉が東横堀川以西~現・御堂筋以東までの「船場」を開発し始めたのは慶長3年(1598)。秀吉はその年に亡くなりましたが、大坂冬の陣、夏の陣の戦乱を経て、元和5年(1619)に大坂は幕府直轄地となり、西横堀川以西の西船場エリアが本格的に開発されました。西横堀川は土佐堀川から南に、永瀬七郎右衛門(肥後出身の材木商)によって開削されたので当初は七郎右衛門堀と呼ばれ、川の東側は七
郎右衛門町という地名が付いていました。永瀬家は材木商であったことから木屋を名乗り、西横堀川沿いには多数の材木商が軒を並べていました。永瀬七郎右衛門は大坂三郷の一つ、北組の惣年寄を代々務めました。土佐堀通には西横堀川に架かる一番北の橋、西国橋が架かり、付近に船着き場がありました。西国橋の西詰には、鴻池、三井とともに並び称せられた両替商・加島屋(広岡)久右衛門の店舗があり、加島屋(広岡家)は明治・大正期には広岡財閥として名を馳せ、加島銀行を設立。現在の大同生命につながります。
阪神高速道路開通記念碑
阪神高速道路公団が発足したのは昭和37年(1962)5月1日のことです。その頃すでに船も通らずドブ川と化していた西横堀川が埋め立てられて行きながら、昭和39年
(1964)6月28日に土佐堀から湊町までの区間、つまり阪神高速1号環状線の一部が開通しました。当初は、現在と反対に北から南に進む一方通行でした。1号環状線は
昭和42年(1967)3月に全線開通し、この記念碑は阪神高速道路公団創立20周年を記念して、昭和57年(1982)6月28日に建てられました。
撞木橋の碑は阪神高速道路開通記念碑から西側の道を50mほど南へ下り、次の西からくる道の交差点内の東側にあります。見落とし注意。
筋違橋と撞木橋
元々は元和3年(1617)に掘られた江戸堀川に南北に架けた橋の真ん中から 東に(西横堀川に)架けた撞木形の橋がありました。京町堀生まれの暁鐘成『摂 津名所図会大成』には、撞木橋の形が尋常でない形であるために架け替え時 の普請料が嵩み、江戸堀川の川幅を狭めて橋が二つに分けられた経緯が記さ れています。その際、江戸堀川の南北に架けられた橋とは別に、高麗橋筋から 江戸堀川南岸へ筋違いに斜めに架けられた橋が筋違橋(すじかいばし)と命名 されました。小鯛雀鮨で有名な「すし萬」の系譜を遡れば、17世紀半ば頃には 西横堀川から一本東の筋である魚の棚筋で魚屋を営業する傍ら、雀鮨を販売 していたようです。すし萬は江戸堀から筋違橋を渡ってすぐの所にあったの で、筋違橋は、すしを買いに行く(すしかい)橋であったとも言えます。
呉服橋・墨屋作兵衛
呉服橋
豊臣秀吉の大坂築城に際し、天正12年(1584)頃、京・伏見の呉服商人らは玉造 に居住させられました。天正18年(1590)には伏見呉服町の町名が許可され、黄 金の恵美須像と秀吉の朱印が与えられました。江戸時代になっても伏見呉服町の 商人らが大坂城内や蔵屋敷で必要とする呉服の用達をし続け、呉服商人も増えた ために玉造の土地が狭くなり、元禄時代に伏見町に移転し、伏見呉服町と称しまし た。呉服商人や呉服に関係する商人らが居住した呉服町は、各店の暖簾の色が異 なり、「呉服町の五色暖簾」として有名でした。西横堀川の東に広がる呉服町につ ながる橋が呉服橋です。戎橋、大黒橋と呉服(五福)橋を合わせて七福神の橋とい う洒落もありました。
墨屋作兵衛
寛政4年(1792)に亡くなった墨屋作兵衛は、呉 服橋の架け替えや修繕費用に充ててもらうため に遺産を町内に託しました。墨屋の宅地は町内保 管、家屋は町会所となっていましたが、明治に入 り、恵美須神社の敷地となり、遺産を使って本殿、 拝殿、社務所が新築されました。恵美須神社は御 霊神社に合祀されましたが、昭和27年(1952) に伏見町の町人の手によって、旧呉服橋東詰に伏 見町呉服町の発展と墨屋の偉業を記した碑が建 てられました。 ⑥ 墨
千成瓢箪 京町堀川跡碑
 京町堀川は、元和3年(1617)に京・伏見か ら移住してきた町人によって掘られたので、 伏見堀とも呼ばれました。京町堀には伏見町 人らの商家が多く、京町堀川の両岸には各藩 の蔵屋敷、船宿などが並んでいました。京町 堀 川 は、西 横 堀 川 から分 流した 長さ約 1,080m、幅約30mの川で、海部堀川と合 流し、百間堀川に注ぎ、物資の運搬などに利 用されました。昭和36年(1961)に防波堤 工事のために埋め立てられました。 ⑦ 京
紀元二千六百年の碑
西暦1940年(昭和15年)が神武天皇の即位から2600年目に当たるとされたことから、日本政府は1935年(昭和10年)に「紀元二千六百年祝典準備委員会」を発足させ、橿原神宮や陵墓の整備などの記念行事を計画・推進した。1937年(昭和12年)7月7日には官民一体の「恩賜財団紀元二千六百年奉祝会」(総裁:昭和天皇の弟宮・秩父宮雍仁親王、副総裁:内閣総理大臣・近衛文麿、会長:徳川宗家第16代当主・徳川家達)を創設。「神国日本」の国体観念を徹底させようという動きが時節により強められていたため、これらの行事は押し並べて神道色の強いものであった。神祇院が設置され、橿原神宮の整備には全国の修学旅行生を含め121万人が勤労奉仕し、外地の神社である北京神社、南洋神社(パラオ)、建国神廟(満州国)などの海外神社もこの年に建立され、神道の海外進出が促進された。また、研究・教育機関では、神宮皇學館が旧制専門学校から旧制大学に昇格した。
信濃橋
元は富田町橋、後に問橋と名前を変え、元禄年間(1688~1704)の記録には信濃橋の名が見えます。昭和40年(1965)に地下鉄3号線(四つ橋線)の西梅田~大国町間が開通した際、橋名から信濃橋駅という駅名が付けられ、後に地下鉄4号線(中央線)本町駅の開業に伴って信濃橋駅は本町駅に改められました。
本町通り
本町通(ほんまちどおり)は、大阪府大阪市のほぼ中央を東西に走る主要地方道の愛称である。商社や卸売り問屋などが集中するオフィス街を貫いています。
本町3交差点(御堂筋との交点)以西は国道172号の一部区間です。
火防陶器神社 (ひぶせとうきじんじゃ)と瀬戸物町
火防陶器神社
信濃橋西詰の瀬戸物町に祀られていた地蔵は 甲冑を付けて馬に乗り、火除地蔵尊として信仰 されていました。毎年7月24日の地蔵会は、暁 鐘成『摂津名所図会大成』によれば浪花におけ る地蔵会の魁たるものと記され、この地蔵会 目当ての人々を相手に、西横堀川に沿って筋 違橋から新町橋まで軒を並べていた陶器商ら が陶器を並べて大売り出しを行い、陶器で飾ら れた人形を出す陶器祭として有名でした。明 治時代の神仏分離によって火除秋葉神社とな りましたが、陶器商人たちによって陶器神社と 名が改められました。しかし、現四つ橋筋に市 電の南北線が通ることとなり、明治40年 (1907)に坐摩神社に合祀されました。火防 (ひぶせ)は、陶磁器を保護するために藁を扱っ ていた陶器商らが火災を極端に恐れ、火除地 蔵を祀ったことから付けられています。 
瀬戸物町
 かつては北富田町という町名でしたが、筋違橋から新町橋までは陶器 商が多く、全国各地の陶磁器が瀬戸物町で売買されました。北富田町 という町名はほかにもあったので、延宝8年(1680)に瀬戸物町と改 称され、この町名は明治5年(1872)に改称されるまで使われました。
火防陶器神社の前から高速道路の下をくぐって東側に出て四ツ橋筋を渡り南へ進みます
立売堀川跡碑
立売堀は、元和6年(1620)に開削され始めたものの一時中断さ れ、寛永3年(1626)に大坂三郷・南組惣年寄を務めた宍喰屋次郎右 衛門によって開削が再開されて完成しました。立売堀川には、かつて 宍喰屋橋などが架かっていました。
立売堀川跡碑を過ぎると次の信号を西に渡り少し行くと高速道路の手前に新町橋の碑があります
新町橋
 寛文12年(1672)、新町の遊郭を繁盛させるため、船場側の通路とし て西横堀川に新町橋が架けられました。遊郭の中心である瓢箪町筋に 通じていたため、「ひょうたん橋」とも称されました。
西六平和塔
 「戦争はいやや西区平和展実行委員会」編の文集「戦禍に追われて(3)」に収録されている光禅寺住職夫人の話によると、
 昭和32、3年のころでしたが総代で新町の役員もしていた児島さんが来られて「戦争で亡くなった方、戦病死した方々を慰霊する平和塔を西六町会として建てたい。ついては場所をお寺の中に」とのことでした。その頃は境内も今の3倍か4倍ありましたので承知しました。
その後、市道に土地を提供したりして境内が狭くなりましたので、新町南公園に移し、さらに今の西六福祉会館が出来たとき会館わきの敷地に移したもの。前には、法要もして、市長さんが来られたりしたものですが、当時の方も次々と亡くなって、最近は法要することもなくなりました。」
と、あります。
碑文には下記のように記されています
満州事変 日華事変 大東亜戦争を通じ当地区からも多くの人々が出征し国難に殉じました。また昭和二十年三月十三日夜の大空襲では全町が焦土と化しいたましくも三百余名が焼死しました。 ここで有志相図って一基の塔を建立し英霊幽魂の冥福と世界永遠の平和を祈念します。
昭和卅二年三月十三日 旧西六町会連合会      西六連合会
 四ツ橋
長堀川と交差する西横堀川に架かっていたのは上繋橋、下繋橋でし た。上繋橋は市電南北線の工事によって銅桁となりましたが、昭和 46年(1971)の西横堀川埋め立て完了、昭和38年(1963)に長堀 川の四ツ橋から東、昭和48年(1973)に四ツ橋から西が埋め立てら れたことにより、四ツ橋すべてが姿を消しました。また、四ツ橋に日本 初の電気科学館が誕生したのは昭和12年(1937)のことで、平成 元年(1989)までありました。
四ツ橋交差点
 
     このページのTOPへ     
 文:美智子姫 
は平成12年(2000)に完成した東横堀川水門は、道頓堀 川水門と対になっている閘門です。①門の前後で水面の 高さが違う時に水門内で水位の調整を行い船舶を航行さ せる、②大雨や高潮で水位が上昇する時は水門を閉めて 浸水被害を防ぐ、③潮の干満を活かして門を開閉して水 質をきれいにする、という役割があります。水門が開閉す るときに船の信号がわりに出る噴水は、大阪市章「みお つくし」のかたちをイメージしてつくられたそう