明治7年(1874)、江之子島に2階建て煉瓦造りのルネッサンス様式の初代大阪府庁舎が竣工しました。川口居留 地に近く、西欧の文物・制度を移入するため、また大阪は将来、西に向かって発展すると予想されたためで、当時、 大阪庶民は「江之子島政府」と呼びました。 
▲信濃橋交差点 信濃橋交差点の北西角にある信濃橋洋画研究所跡碑
信濃橋洋画研究所跡碑 大阪に香り高い文化を根づかせようと、大阪出身の 洋画家小出楢重・国枝金三・鍋井克之らが中心にな って、大正13年(1924)に開設された信濃橋洋画 研究所は、理論と実技を組み合わせた特色ある教育 を行い、多くの専門画家を輩出しました。その後、研 究所は昭和6年(1931)中之島に移り、中之島洋画 研究所と改称しましたが、昭和19年(1944)戦争 激化に伴い閉鎖されました。
信濃橋交差点から北側の歩道を西へ向かって約200m行くと天理教飾大分教会の前に大塩平八郎終焉の碑があります 
大塩平八郎終焉の地碑
大塩平八郎(1793~1837)は、江戸時代後期大坂 町奉行所の与力で、陽明学者としても知られ、世を 治める者の政治姿勢を問い、民衆の師父と慕われま した。天保8年(1837)2月19日飢饉にあえぐ民を 救い、政治腐敗の根源を断とうとして、門人の武士・ 農民等を率いて決起しました。乱後大塩父子は、こ の地に隣接した靭油掛町の美吉屋五郎兵衛宅に潜 伏しましたが、同年3月27日幕吏の包囲のうちに自 焼して果てたとされます。
 大塩平八郎終焉の地碑から20m程西へ進むと壁画の有る幼稚園がありますので手前の道を北側に入ると靭公園に入ります
▲幼稚園の壁画 この壁画の手前を右折します
大阪科学技術館 「科学技術でひらこう、地球のあした」をテーマに、 最新の科学技術を展示しております。私たちのくら しの中に生かされているエネルギー、エレクトロニ クス、バイオテクノロジー、地球環境など、さまざま な分野の最新の科学技術をクイズやゲーム、マルチ メディアで楽しく学べます。敷地は五代友厚の屋敷 跡です。

 靭(うつぼ)公園  
靭塩干魚市場の跡地にあたります。太平洋戦争後、 占領軍に接収されましたが、昭和27年(1952)の 講和条約で大阪市に返還され、その後、公園として 整備されました。 
梶井基次郎の文学碑とその近くにある花壇 飛行場跡地の碑
梶井基次郎碑
梶井基次郎は、明治34年(1901) 、旧西区土佐堀通5丁目生まれで、 旧制北野中学在学時に靭に住んでいました。東京帝国大学在学時に同 人誌『青空』を創刊、代表作『檸檬』を発表。公園には『檸檬』の一節が刻 まれた石碑があります。
飛行場跡説明碑
また戦後、米軍に接収された時代には、小型機 発着空港として利用されたので、その説明碑もあります
靭交番前信号を東へ少し入ったところにある靭尋常小学校跡碑 靭交番前信号から難波筋の東側歩道を50m南へ
靭尋常小学校跡の碑
靭公園東園のなにわ筋側の南側にある靭パークサイドビルの敷地内にあります。4月に靭公園に行った時に見つけました。横長の黒い石碑と「靭」の紋の入った瓦が展示されています。大阪の読めない地名でもよく出てくる「靭」は「うつぼ」と読みます。テニスコートやバラ園でも人気の靭公園東側沿いになにわ筋があります。
ローソン横のマンションの前に、「靭尋常小学校跡」の横長の石碑があります。横には「靭」の字が入った瓦もありました。靭小学校は西船場小学校に統合されたので、現在はありません。 
門樋橋
寛永元年(1624)靱の干塩魚商人が、荷役に便利なように開削した海部堀川に架かっていた。 海部堀川は阿波堀川の太郎助橋上流から北へ分流し、約100メートル程のところから西折、京町堀川の最下流部に合流する延長約550メートル、幅員約18から20メートルの堀川であった。
上流部の南北区間は特に永代堀、その岸は永代浜とよばれた。 永代浜には当時たいせつな肥料であった干鰯(ほしか)の荷揚場や市場を設けたので、おおいに賑わった。 明和4年(1767)永代堀は埋立てられたが、まもなく幅約3間(約6メートル)の堀川として復活し、その最上流部に門樋橋、その下流に永代橋が架かっていた。門樋橋は初め通常の橋ではなく門樋(水門)であり、橋名はこの名残からきている。大正2年の市電の敷設にともない幅員22.4メートル、橋長 4.4メートルの橋に架け替えられた。
永代橋
海部堀川の開削当時からあり永代浜に通じる橋として架橋された歴史のある橋であった。昭和26年海部堀川の埋立てにより両橋とも姿を消した。
靭公園 
うつぼ楠永神社 ・ 永代浜  ・ITC靭テニスセンター
 楠永(くすなが)神社(御霊神社元宮)
2本の楠(樹齢300余年)が主神です。かつて楠を伐採しよう としましたが、けが人が相次ぎ、お祓いをしました。その際に白 い蛇が出てきたので、この木は神木なので切ってはいけないと して、今にのこりました。楠永神社が鎮座する前は御霊神社の 元宮がありました。御霊神社は800年代後半の創建と伝えら れますが、文禄3年(1594)に津和野藩主・亀井氏の寄進で、北 船場・淡路町に移りました。
永代浜跡
靭本町付近にあった海部堀川の荷物陸揚げの便を 良くするために開削した約724メートルの堀を永代 堀といい、阿波堀川からの屈折点あたりを永代浜と 称しました。海産物の荷揚げ・鰹節の専門市場として 靭の中心となりました。
靭海産物市場跡
干物や塩干魚、鰹節など生魚以外の海産物を売買 する市場です。17世紀後半から大坂周辺の農村で は商業的農業が発達し、干鰯(ほしか)は肥料として 取引されました。享保9年(1724)には干鰯俵数 140万俵という記録もあります。  
 中国領事館  江之子島公園
中国総領事館 正式名は中華人民共和国駐大阪総領事館で、 中国と日本・大阪の窓口となっています。旅券 査証の発行や政治経済交流が主ですが、近畿 と中国・四国を管轄としています。川口居留地 の貿易では、華商の手を借りることも多く、こ うした誼から昭和60年(1985)、豊中市千里 から当地に移転しました。 
雑喉場魚市場跡
江戸時代にはこのあたりは雑喉場町といい、面 積3130余坪(サッカー場約1面)を擁する西日 本最大の生魚市場でした。堂島米市場・天満青 物市場とならび、近世大坂の三大市場と称さ れ、安永元年(1772)問屋株が免許されると、 独 占 的 地 位 が 認 めら れ ました 。昭 和 6 年 (1931) 、大阪市中央卸売市場に吸収合併さ れました。
雑喉場橋跡碑・木津川橋跡碑・大阪市役所江之子島庁舎跡碑・現在の木津川橋
雑喉場橋跡碑
雑喉場市場の百間堀川に架かっていた橋です。昆布佃煮の老舗「神 宗(かんそう)」は、かつて雑喉場橋東詰で商いを営んでいました。神 宗・淀屋橋店には当時の雑喉場商人の気質を守りたいと、雑喉場橋 の親柱が、今でも保存されています。
木津川橋碑
慶応4年(1868)に架けられました。外国人の居留 地が建設された川口と、大阪の行政の中心地だっ た江之子島を結んだ橋は、大阪と海外を結ぶ架け 橋にもなりました。
旧大阪市役所江之子島庁舎跡
明治22年(1889)4月、市制導入により大阪市が誕生しました。府 知事が市長を兼務し、府庁内に市役所が置かれましたが、同32年 (1899)、府庁の北側・木津川東詰に市役所を移転しました。庁舎 は木造2階建てで、同45年(1912)、堂島庁舎に移転するまで存続 しました。
天満宮神幸御上陸地碑 津波・高潮ステーションと構内にある船舶繋留環および橋跡
天満宮神幸御上陸地碑
天神祭のクライマック ス、船渡御は、戦後の地盤 沈下によって船が橋をく ぐれなくなったため、今は 大川上流に向いますが、 明治期から昭和初期まで の渡御コースは、大川か ら堂島川、木津川へと進 み、木津川橋下手の江之 子島に上陸後、陸路、松島 の天満宮行宮の御旅所を 目指す船渡御、陸渡御列 だったようです。 
 阿波堀川跡碑
阿波堀川は阿波座堀川と も呼ばれ、西区にあった 堀川の中ではもっとも古 く、慶長5年(1600)に 開削され、西横堀川から 分流して西に流れ、百間 堀川に流入していました。 昭和31年(1956)9月、 大阪府の防潮堤工事など のため全部埋め立てられ ました。
 
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 文:美智子   
は平成12年(2000)に完成した東横堀川水門は、道頓堀 川水門と対になっている閘門です。①門の前後で水面の 高さが違う時に水門内で水位の調整を行い船舶を航行さ せる、②大雨や高潮で水位が上昇する時は水門を閉めて 浸水被害を防ぐ、③潮の干満を活かして門を開閉して水 質をきれいにする、という役割があります。水門が開閉す るときに船の信号がわりに出る噴水は、大阪市章「みお つくし」のかたちをイメージしてつくられたそう