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近松門左衛門「曽根崎心中」の道行きを辿って~未来成仏疑ひなき 恋の手本となりにけり~
 
西鶴、芭蕉と並び江戸時代元禄期の三大文豪といわれた近松門左衛門。その近松の世話物の名作として 知られる『曽根崎心中』の主人公・お初と徳兵衛が歩いた道行のルートを辿ります。苦界に落ちた可憐な 遊女。憂き世の柵に雁字搦めの男。そんなふたりが出逢ったならば?恋と義理と人情に悩み苦しんだ男 と女の運命は、蜆川だけが知っていました・・・。
近松門左衛門(1653~1724)は江戸時代の元禄期に活躍した人 形浄瑠璃と歌舞伎狂言作者です。本名は杉森信盛。生まれは越前国 といわれています。竹本座に属する浄瑠璃作者で、希代の名優と言 われた初代坂田藤十郎のために歌舞伎狂言作者に転向した時期も ありますが、再度、浄瑠璃に戻りました。100作以上の浄瑠璃を書き ましたが、そのうち約20曲が世話物で、残りが時代物です。世話物と は町人社会の義理や人情をテーマとした作品ですが、『曽根崎心中』 『心中天の網島』などは、じつは昭和になるまで再演されませんでし た。大変庶民の共感を呼び、作品の真似をして心中する男女まで続 出するようになったので、幕府から禁止令が出たためです。「芸の面 白さは虚と実との皮膜にある」という「虚実皮膜論」を唱えたといわ れていますが、これは穂積以貫が記録した『難波土産』に門左衛門の 言葉として登場するだけで、門左衛門自身が書き残した芸能論はあ りません。大阪市の法妙寺跡(谷町8丁目1)に墓があります。
江戸時代大坂の町の周辺には、大坂七墓といわれる古いお墓があり、梅田墓地 はその1つです。別名「梅田三昧」とも呼ばれました
▲浄正橋交差点と北東角にある鳴門鯛焼本舗
今回は阪神福島駅からスタートです。
梅田橋跡と蜆川(しじみかわ)現在の新地本通と堂島上通の間に蜆川(別名・曽根崎川)が流れていました。その川がいまの御堂筋と交差するところに蜆橋、いまの四つ橋筋には桜橋、さらに西へ田蓑橋の筋、堂島3丁目交差点あたりに梅田橋が架かっていました。天保13年(1842)に公認の遊所地となった北の新地(つまり曽根崎新地)の中心地は梅田橋周辺で、『心中天の網島』の小春と治兵衛の道行きがはじまる大和屋もここにありました。蜆川は、明治42年(1909)の「北の大火」のあと埋め立てられ、現在の地形になりました。 
JR新福島駅・阪神福島駅近くの浄正橋交差点 ▲旧曽根崎川(蜆川)の跡地です
天満屋はこの辺りにあったようです
『曽根崎心中』の「蜆川新地天満屋の場」の舞台です。敵役の九平次がやってきたので、お初が縁の下に徳兵衛を隠しますが、すると九平次は徳兵衛がいないと思って、ここぞとばかりにお初の前で徳兵衛を罵ります。縁の下で歯軋りする徳兵衛ですが、悔しい思いをしているのは、お初も同じでした。そこで「証拠なければ理も立たず。此の上は徳様も死なねばならぬ品なるが。死ぬる覚悟が聞きたい。と独り事になぞらへて。足で問へば打ちうなづき。足首とって喉笛なで。自害するとぞ知らせける。」と、お初は独り言と思わせて縁の下の徳兵衛に「死ぬ覚悟が聞きたい」と問いかけると、徳兵衛は大きく頷いて、お初の足首を取って自分の喉笛をなでて、心中する覚悟があることを知らせました。
福島駅の上は国道2号。大きな交差点は浄正橋、この通りの南側歩道を東へ歩いていきます。次の大きな出入橋交差点を右折南下します。次の堂島3交差点が旧梅田橋あたりです。
▲旧曽根崎川(蜆川)梅田橋界隈 梅田橋ビルは梅田橋の名称を現在に伝える数少ない名称表示です 
旧梅田橋跡氏の近くには大阪大学微生物病研究所創設之地(NTTデータ堂島ビル)があります
『曽根崎心中』の「徳兵衛・お初の道行」では「此の世のなごり。夜のなごり。死にに行く身をたとふればあだしが原の道の霜。一足づつに消えて行く。夢の夢こそ哀れなれ。あれ数ふれば暁の。七つの時が六つ鳴りて残る一つが今生の。鐘の響きの聞きをさめ。寂滅為楽と響くなり。鐘ばかりかは。草も木も。空もなごりと見上ぐれば。雲心なき水の音北斗はさえて影映る星の妹背の天の川。梅田の橋を鵲の橋とちぎりて。いつまでも。我とそなたは女夫星。かならず添ふとすがり寄り。」と描かれています。「鵲の橋」というのは、七夕になると鵲は織姫と彦星の間をつなぐ掛け橋となって天の川を渡すという伝説をモチーフにしています。

『曽根崎心中』の「蜆川新地天満屋の場」の舞台です。敵役の九平次がやってきたので、お初が縁の下に徳兵衛を隠しますが、すると九平次は徳兵衛がいないと思って、ここぞとばかりにお初の前で徳兵衛を罵ります。縁の下で歯軋りする徳兵衛ですが、悔しい思いをしているのは、お初も同じでした。そこで「証拠なければ理も立たず。此の上は徳様も死なねばならぬ品なるが。死ぬる覚悟が聞きたい。と独り事になぞらへて。足で問へば打ちうなづき。足首とって喉笛なで。自害するとぞ知らせける。」と、お初は独り言と思わせて縁の下の徳兵衛に「死ぬ覚悟が聞きたい」と問いかけると、徳兵衛は大きく頷いて、お初の足首を取って自分の喉笛をなでて、心中する覚悟があることを知らせました
 堂島3を左に折れ東へ進んでいくと阪神高速道路の高架下にある橋が出入橋です。さらに直進して行くと広い通りがあります、この通りが四ツ橋筋です。ここを渡って東側歩道を南下すると、次の角に元櫻橋南詰の碑があります。再び戻って元来た道を東へ2本行くと左手にボネールビルがあります。
 
 ▲出入橋  ▲元桜橋南詰の碑  
出入橋
明治38年(1905)に阪神電気鉄道が大阪-神戸間に開通しましたが、その当時の大阪の起点は出入橋でした。当時は、まだまだ船を利用して大阪駅まで荷物を運ぶ海運が盛んで、梅田運河(堂島川に通じていました)に架かる出入橋は交通の要所でした。現在は埋め立てられていますが出入橋からは、かつて梅田運河があった様子が窺えます。出入橋の東詰には
創業昭和5年(1930)の出入橋きんつば屋があり、橋の歴史を見守ってきました。
桜橋
蜆川にかかっていた橋です。「北の大火」で 消失しました。現在の堂島上通りは蜆川の南 岸にあたります。『心中天の網島』の「名残 の橋尽し」では「別れを嘆き、悲しみて、後に こがるる桜橋」と描かれています。
 
▲北新地文化銘板
北新地は江戸中期、河村瑞軒による淀川の改修によって開発された堂島新地(1688)と曽根崎新地(1708)をルーツとし て、米相場の中心地であった堂島米市場に隣接していたので、商用の武家や町人を顧客に大いに繁栄しました。北新地文化 銘板は北新地300年の歴史や、まちの物語をパネルにしたもので、新地本通の遊歩道に10点ほどを設置されています。
ボネールビルの近くに曽根崎川跡碑や開発碑、北新地文化銘板等があります。
▲曽根崎川跡碑 ▲開発碑
曽根崎川はかつて堂島川から分かれてここから南よりのところを東西に流れ、俗に蜆川(しじみがわ)ともいわれていた。元禄年間に河村端軒がこの川を改修してから堂島新地・曽根崎新地が開かれた。そのころの新地の茶屋は蔵屋敷や商家の人々の集うところとして親しまれ、このあたりからは北野や中津の田畑越しに北摂の山々が遠望でき、夏の夕べには涼み船がこの川からこぎ出たという。
近松門左衛門の作品の中には、惣島新地・曽根崎新地を部台にしたものがあり、中でも「心中天網島」(1720年の作)の一節名残の橋づくしには、当時曽根崎川に架けられていた難波小橋・蜆橋・桜橋・緑橋・梅田橋の名がたくみに取り入れられている。しかし、この曽根崎川も明治42年(1909)の北の大火後に上流部、ついで大正13年(1924)には下流部が埋め立てられ、昭和20年(1945)の戦災でこのあたり一帯は焼失したが、今日では北の新地としてにぎわいを取り戻している。 
此処を北へと進み次の辻を西へ進むと国道2号の桜橋東交差点にでます。道路の向かいの左手に見えるのが大阪駅前第一ビル、右手に見えるのが大阪駅前第二ビルです。左側の大阪駅前第一ビルのエレベータで12階へ上がると順路表示がありますので従ってください。北側にあります
▲大阪駅前第一ビル 屋上 正一位福永稲荷大明神 (狐塚)
大阪駅前第1ビルの屋上に狐塚があります。今から約600年前、土地の豪族が一家の守り神として祀ったのが始まりといわれており、昔から地元の人達に愛されてきたものです。北の新地を少しでも外れると誰もいない、狐狸が住むような裏寂しい光景が展開していました。お初と徳兵衛は、北の新地から離れて、梅田墓や狐塚などを遠目に見ながら、曽根崎の森の中に入っていきました。
再びエレベータで一階へ隣の大阪駅前第二ビルへ、ここの3階に徳兵衛大明神があります。
▲徳兵衛大明神
縁起によると、その昔は曽根崎・蜆川 のほとりに祠がありました。参拝する 人も無く、荒れるにまかせていたの ですが、ある時、徳兵衛という人が住 みつき、祠を手入れし、熱心に修行し たところ、霊験あらたかな祠となり、 参拝者がひきも切らなくなったとい うことです。いまは、そのご縁を大切 にと、大阪駅前第2ビルの有志で祀 られています。
ここから一階へ降りて北側出口を出て東へ進んでいくと御堂筋にでます。個々の信号を渡って少し進むとお初天神です。
▲お初天神 (露天神社)
「お初天神」の通称で広く知られています。祭神は大己貴大神、少彦名大神、天照皇大神、豊受姫大神、菅原道真です。社伝によれば、この地はかつて曾根崎洲という大阪湾に浮ぶ孤島で、そこに「住吉住地曾根神」を祀っていたとされます。創建は西暦700年頃とされ、「難波八十島祭」の旧跡の一社とされています。社名は、菅原道真が大宰府へ左遷される途中に、ここで都を偲んで涙を流したから、また梅雨のころに神社の前の井戸から水がわき出たためともいわれています。元禄16年(1703)に境内で実際にあった遊女と手代の心中事件を題材として、近松門左衛門が『曽根崎心中』を書き、そのヒロインであるお初の名前から「お初天神」と呼ばれるようになりました。原文では二人の最後は「苦しむ息も暁の知死後につれて絶え果てたり。誰が告ぐるとは曽根崎の森の下風音に聞こえ。取り伝へ貴賤群集の回向の種未来成仏疑ひなき恋の手本となりにけり。」と描かれています
 
 文:美智子姫