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世界のパナソニック創業の地・大開を巡る ~松下幸之助が終生、愛したまち~
大正7年(1918)、松下幸之助は大開町に松下電気器具製作所を創立しました。二股ソケット、ナショナルランプといった大ヒット商品を作りながら「水道哲学」や「250年計画」を発表。ここでパナソニックの基盤を形成しました。会社は昭和8年(1933)に門真に移転しますが、幸之助は大開に思い入れがあり、終生、当地から本籍を動かしていません。幸之助が愛した大開をめぐります。がんばっている野田新橋筋商店街にも行きますよ。
 ▲野田阪神駅と駅前広場の藤棚
大阪市営地下鉄千日前線の駅で、昭和44年(1969)開業しました。阪神本線「野田駅」、JR東西線「海老江駅」との乗換駅になっています。近くには阪神電気鉄道本社があり、また阪神電気鉄道が運営するショッピングセンター「ウイステ(WISTE)」などもあります。ウイステとは植物の「フジ」(Wisteria)のことで、かつて当地周辺は「野田藤(ノダフジ)」が美しく咲いて、「吉野の桜、野田の藤、高尾の紅葉」と称された日本有数の花の名所でした。ウイステは、その野田藤にちなんで名付けられたものです。また現在も福島区の花はフジとなっています。 
▲なにわの出世街道
松下幸之助創業の地 記念碑(大開公園)
大正7年(1918)、松下幸之助は北区西野田大開町(現・福島区大開)に松下電気器具製作所を創立。その後、昭和4年(1929)に松下電器製作所に改称して当地に第二次本店・工場を竣工しました。月産10万台の生産能力を持つランプ工場でしたが業績拡大によって昭和8年(1933)、門真に工場を移転しました。移転の前年、昭和7年(1932)、幸之助は中央電気倶楽部にて創業記念式を開いて「水道水は量が多く価格が安いから通行人が飲んでも咎められない。産業人の使命は水道水のように物資を無尽蔵たらしめ、無代に等しい価格で提供して人生に幸福をもたらし、楽土を建設することである」と「水道哲学」を説き、それを達成するために、建設時代10年、活動時代10年、社会貢献時代5年の計25年を1節として、それを10節繰り返す「250年計画」を発表しました。記念碑は幸之助生誕110年(2004年11月27日)に建立され、高さ1.8メートル、幅2メートルで、幸之助直筆の「道」の文字が刻まれています。
▲松下電気器具製作所 第二工場(ランプ組立工場)跡
大正14年(1925)、松下電気器具製作所の第二工場(ランプ組立工場)が建設されました。ここで松下幸之助は自転車、手提げ兼用の角型ランプを考案。名称に悩んでいたところ、新聞でナショナルという文字を見つけ、辞書を引くと「国民の」という意味であることを知り、「このランプを国民の必需品にしよう!」という願いを込めて、ナショナルランプと名付けました。これが「ナショナル」商標のはじまりで、発売時は見本品1万個を店で無料提供するという大胆な売り出しを実施して大成功を収め、ナショナルランプは1年もしないうちに月3万個を出荷する大ヒット商品になりました。
▲西野田工科高等学校
明治40年(1907)、大阪府立職工学校として創立。大阪府内の工業高等学校としては大阪市立都島工業高等学校(1907年開校)と並ぶ歴史を有しています。昭和23年(1948)の学制改革によって大阪府立西野田工業高等学校と改称しました。出身者には、梯郁太郎(技術者、エース電子工業・ローランド創業者。1946年卒業)、田中英一(ローランド社長。1977年卒業)、中裕司(ゲームクリエイター・プロペ社長。1983年卒業)などがいます。福島区は江戸時代は堂島川沿いに蔵屋敷が置かれて川船業で賑わいましたが、明治以降は工業化が進み、明治22年(1889)に攝津製油が野田村で創業。以後、大日本紡績(1894)、住友伸鋼所(1895)、大日本製薬(1897)、大日本アルミニウム製造所(1901)、島田硝子製作所(1909)などが操業して大工場地帯となりました。こうした工場群、職工学校、関連の中小企業が集積する地域性から世界のパナソニックが生まれたともいえます。
大開は地元の人たちの多くが「おおびらき」と言っていますが、正しくは「おおひらき」です。松下幸之助氏は「大きく開く」というこの地名を大層気に入り終生本籍地をここから変えることは無かったようです。
▲八坂温泉の近くにある立江地蔵尊
松下電気器具製作所・第一次本店・工場跡
大正11年(1922)、創業の家が手狭になったので幸之助は当地に100坪余 の新工場を建設。回転式アタッチメントプラグ、二灯用クラスター(二股ソケ ット)、砲弾型電池式プラグなどを販売して従業員50名を超す会社へと急 成長しました。松下本社・工場は昭和8年(1933)に門真に移転しますが、幸 之助は創業地の大開に思い入れがあったようで、終生、本籍を当地から動か していません。ちなみに第一次本店・工場跡の前にある八坂温泉は創業80 年以上を誇る歴史ある銭湯で、幸之助も利用したといわれています。
▲松下幸之助・創業の家
大正7年(1918)3月7日、幸之助は北区西野田大開町の2階建て借家の階下 3室を工場に改造して「松下電気器具製作所」を創設。幸之助23歳、妻むめの 22歳、義弟・井植歳男15歳(戦後に三洋電機を創業して独立)の3人のスター トでした。若い頃に大阪の市電を見て電気の可能性、将来性を予感していた 幸之助は、便利で品質のよい電気配線器具を作れば必ず需要があると夜遅 くまで製作に没頭。やがて「アタッチメントプラグ」「2灯用差し込みプラグ」を 発売すると、高品質かつ低価格で評判となり、ヒット商品になりました。
▲大阪市立 大開小学校
 ▲元ジャスコ野田店・ ジャスコ創業の地 現:福島区役所  ▲左:福島消防署     右:福島警察署
昭和45年(1970)、ローカルスーパーマーケットチェーンの岡田屋(三重県四日市市)、フタギ(兵庫県姫路市)、シロ(大阪府吹田市)の3社が提携して新会社を作り、福島区
大開1-8に本社を置きました。新会社社名は3社の従業員から公募され「Japan UnitedStores COmpany」の頭文字で「ジャスコ(JUSCO)」となりました。現在は福島区役所となっています。
▲豊後梅
 江戸時代、日本全国各地の物産は大坂に集められ、堂島川沿いには数多くの蔵屋敷が立ち並んでいました。各藩は物産の管理・販売のために大坂に藩士を置きましたが、豊前国下毛郡中津藩(現在の大分県中津市)の福沢百助もそのうちの一人で、その息子が福沢諭吉(1835~1901)です。つまり福沢諭吉は福島区生まれで、その由縁から当地に大分県の中津沖代ライオンズクラブから贈呈された豊後梅が植樹されています。
▲野田ふじ ▲江成公園 ▲野田ふじ
▲北向地蔵尊
  ▲野田新橋筋商店街
野田恵美須神社(玉川4丁目1番1)の参道で、昭和初期から栄えているという商店街です。戦前は川と交差して橋がかかっていたので、それが新橋筋の名前の由来といわれています。オリジナルの買い物カード「のだふじカード」を導入して定期的に大売り出しなどを実施して賑わいを見せています。阪神電鉄「野田駅」、JR「野田駅」、地下鉄千日前線「野田阪神駅」、「玉川駅」からも好アクセスで、福島区内唯一の市場「清立市場」なども残っています。
▲野田新橋筋商店街野田阪神口 が今回のゴールです
 ▲福島区吉野 (牛丼チェーン 吉野家ゆかりの土地)
牛丼チェーン で 有名な 吉 野 家は、明 治32 年(1899)に東京・日本橋の魚市場で創業されました。この吉野家という屋号は、じつは創業者・松田栄吉が大阪吉野町(現在の大阪市福島区吉野)の出身だったことから命名された、という説が有力です。また出身地名の屋号をつけたのには、家で食事をして頂けるようなアットホームな店を作りたいという願いが込められているといわれています。
  
 
 文:美智子姫