最終章 その15 3月半ばの検査で肝臓への転移が発見され、痛む間隔が短くなり、痛みが更に激しくなってきた。再入院も今日か明日か、時間の問題となっていた。家族や親戚の全員が覚悟をしているものの「いよいよか」とあせりだした様子である。 その病院から帰りの車中でのことだった。次女が運転する車の助手席に美智子、後部座席には一刀水と二人の孫が乗っていた。7歳の孫は何を躊躇うことなく一刀水と会話をしていた。 「爺ちゃん、病気痛い」 「うーん、痛いなあ」 「頑張って100まで生きてや」 「そんなにまで生きられへんでー」 「ほんなら80まで生きてや」 「それも無理やでー」 「ほんなら来年の4月まででええわ」 「うーんそれ位やったら頑張ってみようかなあ」 生きる力が涌いてくるのは妻でも、医師でも美智子達でもなかった。この孫のやさしい素直な心遣いが伝わっているものと確信する。死ぬとわかっていても病人の心を逆なでしない心遣いが病人を取り巻く一人一人に必要だと7才の子供に教わっていた。 前の座席でこの光景を目の当たりにした母親と美智子は後部座席にみつからぬようにそっと涙をぬぐった。 4月半ば、桜の花が散り若葉が芽を吹き出す頃になると、義兄一刀水の様態が誰の目から見ても悪化しているのが解かるようになってきていた。 「あのなあ、儂はもう一度墓参りをして自分の収まる位置を確かめたいんや」 連れて行けでもなく、行きたいでもなく。 あまりにも顔貌が崩れてきているため故郷にいる親戚の人たちには見せたくなかった。墓には行くけど親戚には立ち寄らないという条件付きで行くことにした。「最後の別れ」として去年挨拶を済ませているので、できたら病に蝕まれた今の姿は従兄弟達には見せたくはなかった。凛とした土佐のいごっそ一刀水のままで旅立たせてやりたいというのが本当の気持ちだった。 中村市を避けて、土佐入野で宿をさがし、大方のホエールウオッチングも申し込み、一度体験がしたかったという「鰹のたたき体験」に申し込みんだ。この話しをすると「孫にも見せてやりたい」と言う。5人の孫を全部というわけではないのだがゴールデンウイークに宿をとるのは結構大変なことだった。 顔を見せない時はいつも決まって携帯が鳴る。 「今どこを歩いてるんや」 動かぬ体がうらめしいようである。少々の悩みや苦労は乗り切れてもカウントダウンされている命には不安が一杯のようであった。旅行中の少しの間、気がまぎれてくれたらと思い帰郷する。 6月22日。 「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」の胸中で見守って参りましたが、義兄は妻の看護から看護師である次女の看護へと移行することになった。 美智子は一刀水の娘2人に配偶者、息子とその配偶者、そして美智子夫婦とその息子夫婦を加え合計12名を招集し病人にとって最後の入院までの居心地のいい場所はどこであるのか、深夜2時までかかって話し合っていた。余命尾3年の宣告を受けてから今日までのおよそ3年間の愚痴や母親への不満など全てはき出させ、過去のものとして葬り、今後そう長くないであろう寿命の有意義な過ごし方について叔母として一石を投じていた。ある部分は説得し、直すべきところは哀願し、それぞれの知識と経験から出る意見を膝を交えて議論した結果、全員一致で看護師をする次女のところへ引っ越すという結論に至った。 病人のたらい回しは絶対にしない。病人の嫌がる話しは絶対に耳に入れない。経済的負担は全員で補うという条件付で話しは終わった。 さあ問題は此処に同席していなかった病人の妻にどう説明するかということになった。当然同席を求めていたのだが仕事が多忙ということでこの場所にはいなかった。全員の目が美智子に向けられてくる。猫の首にスズをつけに行くのは誰の目にも美智子が映っていた。 翌日妻和代と会い、前夜の話をした。和代も愚痴、不満、ぼやきなど充分腹に溜めていた。時間をかけてそれらを吐き出させ、次女宅へ引っ越しという所までこぎつけることができた。その足で無事移動を終わらせると、疲労困憊で食事が喉を通らないほどだった。 帰宅後、気を取り直して次女宅へ電話をすると、びっくりするほどの食欲で顔色もいいということ。転地療養とはまさしくこれなんだと姑の介護のことを思い出した。 6月30日。一刀水の様態が悪化した。痛みに身体をくねらせ、ムクッと起きあがる。 「どうしたの?」 と聞くと 「ワシにもどうしてエエのかわからんのや」と又横になります。介護のほとんどがこの繰り返しです。 これ以外の会話は無く幻覚の中で生きているようにさえ思えてきていた。あまりに1日の時間が長いので元気な頃、串木野で録音したテープを持参していたのでかけてやった。嬉しそうな笑顔で自分の歌声に耳を傾ける。やがて動きにくい手で手拍子をとっている。 「美智子起こしてくれ」 「どうするの」 「座って歌わなあかんやろ、寝てては声が出せん」 この一刀水の姿は現実なのだろうか、幻覚なのだろうか。歌がこんなに人を元気な気分にさせてくれるとは思ってもいなかった。終電車の時間が近づく頃、「しあわせの鐘」を歌った。 ♪リンドン、リンドン聞こえる幸せの鐘 リンドン リンドン緑の風にのって 世界中の人達が この鐘におくる 幸せの言葉 幸せのうた リンドン リンドン聞こえる しあわせのうた ハッピバスデーツーユー一刀水 ハッピバスデーツーユー一刀水 今日一日、元気でいてよかったねという意味を込めて思いっきり歌っていた。 それから数日経った 平成15年7月4日 午前8時15分 享年71歳で鬼籍に入った。 これは一刀水の新たなる誕生日となったのである。 ♪ 土佐のいごっそ 黒潮育ち 意地を通した 男伊達 酒と女にゃ 目がないけれど 折目筋目は きっちりつける 男の一生 俺は行く ♪ 花火はまっこときれいやのう パッと咲いて パと散りよう ほんまの男の姿にようにちょらあョ 自分の歌声と流暢な高知弁と笑顔を残し 漆黒の日々から駆け抜けて逝った。 |
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