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今回のコースは難波地下街の26D出入口を出て、湊町駐輪場の横断歩道を北上。突き当りを右折さらに次の道路を左折すれば大国橋です。
大黒橋
 大黒橋は木津の大黒神社への参道に当たっていた。江戸時代初期の地図にはこの橋は「なんば橋」「下橋」と記載されているが、元禄16年(1703)の『公私要覧』には「大黒橋」とあり、これ以降はこの名前が定着したようである。
 江戸時代の大黒橋は木橋で、橋長42.7m、幅員2.4mと記録されている。また、嘉永7年(1854)、大阪は津波に襲われたが、この際、木津川から道頓堀川へ津波がさかのぼり、西道頓堀川の橋は全て壊れた。さらに遡上してきた船や橋が大黒橋に引っ掛かり岸へ乗り上げたため、周辺の家屋が壊され、甚大な被害を被ったとされている。
 大黒橋を渡って左折していくと東横堀川にかかる金屋橋を渡ります。
 金屋橋
道頓堀久左右衛門町から西へ渡る金屋橋は寛文年間(1661~1731)に架けられたと伝えられる。明暦期の地図には見えないが、貞享4年(1687)のものには画かれており、橋名は西道頓堀北岸の町名に由来する。町名に従い、別名釜屋橋とも呼ばれていた。
 金屋橋は29.7m、幅員7.68mの規模をもつが、橋梁形式は一径間の中路式である。中路式は桁の中間部分に床版が設けられる形式で、床面と桁下の高さの差を小さくできるが、2本の桁を両端に配置するため、幅員の広い橋に用いることは難しい。
 阪神高速道路の建設が進められる中で、昭和39年から46年にかけて、次々と西横堀川は埋め立てられ、長い歴史をもった橋が撤去されていった。ただ、最下流の金屋橋だけは残され、80数年前の姿をそのまま伝えてくれている。
浮庭橋
水の都大阪を再生する道頓堀川水辺整備事業の一環として、湊町リバープレイスと南堀江地区を結ぶ新しい人道橋「浮庭橋」が、平成20年12月20日に開通した。
南側の湊町地区は、平成8年にOCAT、平成14年に湊町リバープレイスがオープンし、現在も民間開発が進められている。一方、北側は、南堀江地区計画による民間の再開発が行われており、大型の複合施設が開業する予定である。さらに、南堀江一体には、新しい店が続々とオープンし、にぎわいを集めており、両地区を安全かつ快適に回遊することを目的に、周囲のランドマークとなる本橋の整備を行った。
本橋は、デザインコンペを行い、60作品の中から、内藤俊彦氏デザインの「浮かぶはらっぱ」をコンセプトとした吊橋形式の作品を採用した。本橋の特徴は、メインデッキを浮かせるために、主塔とメインデッキをつなげず、2本のメインケーブルにより、斜め45度に河川を横断するメインデッキを吊り、横揺れを防止するために、河川と直交するサブデッキをメインデッキに剛結させている。橋の上には、芝生や低木、両端にシンボルツリーを配置するとともに、側面にツタをはわせ、緑あふれる「はらっぱ」をイメージしている。また、橋の名前についても、一般公募を行い、応募総数343通の中から、設計コンセプトのイメージと、オリジナル性が高い点が評価された安田直樹氏考案の「浮庭橋」(うきにわばし)に決定した。
 浮庭橋は、単に通行するだけの橋ではなく、芝生やベンチなどの「たたずみスペース」を利用し、周辺の風景を眺めながら、都会の真ん中で、ゆっくりと語り合える憩いの場所になることを期待している。 なお、本橋の建設費用の一部には、株式会社住友倉庫の寄附金が充てられているようです。
 浮庭橋の上から四ツ橋筋に架かる深里橋方面を望む
加賀藩蔵屋敷跡 ・大阪府会議事堂跡 加賀藩蔵屋敷の所在地は、北組上中之島町 (淀屋橋の北詰を西に入ったところ)という 説がありますが、当時の見取図や大きさ(間 口約16メートル、奥行き約72メートル)か ら、そこは蔵屋敷事務所で、実際は南組釜屋 町(道頓堀北側、住吉橋北詰)にあったと推 測されています。幕末の頃には敷地面積は 約5500坪にも及び、明治15年(1882)3 月には、本格的な府会議事堂が建てられま した。しかし明治25年(1892)3月の議会 開催中に火事で焼失。その後、跡地は中立銀 行が所有し、倉庫部(後の日本倉庫株式会社 )が運用していましたが、経営不振に陥った 明治35年(1902)、住友倉庫が吸収しまし た。戦後は再開発でオフィスビルやマンショ ンが建ち並び、周辺環境が変化したので、平 成20年(2008)7月に、その地を利用して 商業施設のキャナルテラス堀江がオープン されました。
西に進んでいくとなにわ筋交差点の東北の角にあるのが大阪電燈株式会社 西道頓堀発電所跡地 ・宇治川電気株式会社 道頓堀変電所跡地 です
 
大阪電燈株式会社 西道頓堀発電所跡地 ・宇治川電気株式会社 道頓堀変電所跡地
②大阪電燈株式会社(現・関西電力)は、明治 22年(1889)5月に当地に西道頓堀発電 所を完成。大阪初の事業用発電所で、日本 初の交流発電方式による高圧配電を開始 しましたが、大正4年(1915)に廃止され、 昭和初期までにはその姿を消しました。西 道頓堀発電所の隣に、大正2年(1913)、宇 治川電気株式会社によって建設されたの がレンガ造りの道頓堀変電所で、昭和23 年(1948)にその役目を終えた後も、倉庫 として利用され、長らく「赤レンガ倉庫」と して親しまれました。 
このレリーフも退色が激しいのか肉眼ではほとんど見ることが出来ませんでした。
ここから東側歩道を北へ進んでいくと難波神社があります
難波(なんば)神社御旅所
博労町にある難波神社の御旅所で、御祭神は仁徳天皇と彦狭知命です。明治40年(1907)1月、難波神社の境外末社に列し、同年8月、西道頓堀にあった堀江神社(元由加神社)を合祀しました。当時、境内は約340坪あり、7月21日、22日の氷室祭には、難波神社からの大行列がここで休憩をして、かち割り氷を食べました。しかし戦後、マンション建設などによって敷地が大きく削られ、御輿行列も途絶えてしまいました。
難波神社から信号を渡り北側歩道を東へ一筋進み左折して北上し3本目通りを東へ行くと一筋目の北東の角に堀江公園がありますので中に入って北へ行くと堀江川跡碑があります
堀江川跡碑
 堀江川跡の碑(堀江公園) は元禄11年(1698)、河村瑞賢によって西横堀川と木 津川を結ぶ堀江川が開削されました。これにより堀 江新地が開発され、堀江新地に対する幕府の優遇 措置などにより、北堀江では浄瑠璃、南堀江では大 坂相撲、また各種の産業が起こり木村蒹葭堂や橋本 宗吉といった様々な文化人や学者を輩出しました。 昭和35年(1960)に、戦災の瓦礫処理と市街地の 拡充のため埋め立てられ、その役割を終えました。
ここから公園の西口を出て左折、南へ向かって歩きます。道は「コロンビアスポーツ」に突き当たりますので、左折して東へ向かうと通りの北側の4軒目に堀江の「やぶそば」があります。
堀江やぶそば
堀江やぶそばは  大正2年(1913)創業。創業時は大阪市福島区の聖天通商店街にありましたが、その後、大正区の三 軒家などに移り、昭和40年代に現在の南堀江1丁目に店を構えました。手打ちではありませんが、自家製麺を使用しています。 
この前の道を西に向かって進みます。なにわ筋を越え そのまま立花通りを進んでいきますと
山田ランマ
山田ランマ は創業80年を越える老舗欄間店。戦争中は疎開先の鳥取で営業していましたが、昭和26年(1951)からは大阪に戻 り、堀江には昭和30年(1955)頃から店を構えています。現在、2代目の山田健二さんが企画から制作までを一人で こなしています。 「大事にしているのはお客さんと一緒につくること」という山田さんが作り出す欄間はまさに匠の技 で、伝統工芸士として認定され、大阪市長賞を始め、数々の賞を受賞。平成21年(2009)にもその優れた伝統技術を 経済産業大臣から表彰されています。最近は欄間の需要が少なくなったため、看板や表札などを手がけながら、また、 小学校高学年を対象とした授業などで欄間制作の技術を伝えるなど、伝統工芸の伝承者としての活動にも積極的に 取り組んでいたようですが、2017.12月現在はシャッターがおり軒に掛かる看板もありませんでした。電柱に掛かる行灯看板が残っていました。
此処から北へ上がり次の十字路の北東の一画にある高台橋公園の中、東口あたりに藤井藍田玉生堂跡の碑 (高台橋公園内) があります。
藤井藍田玉生堂跡の碑
玉生堂は文人、勤王の志士であった藤井藍 田の学塾で南堀江3丁目にありました。藍 田の祖父は阿波の出身で、来阪して呉服屋 と藍を商う「綿屋」を開きました。大坂で生 れた藍田は家業を継ぎ、その傍ら田能村竹田に画を学び、廣瀬淡窓に詩文を学びまし た。また、国事に目覚めた藍田は勤王の志士 と交わり、長州・薩摩などの諸国を巡歴。安 政3年(1856)、大坂に帰ってこの付近に私塾玉生堂を開き、学を講じるようになりま した。塾は討幕の志士たちのたまり場とな っていたため、慶応元年(1865) 、藍田は 新選組に捕らえられ、天王寺区の萬福寺に 幽閉され、獄中にて没。享年50歳で、天王 寺区の統国寺に墓所があります。
此処からは添付地図とは異なりますが、高台橋公園の東側の道を南下してください。次の信号の西南角に、紀州藩邸跡・ 高臺(高台:たかきや)小学校跡碑があります。
紀州藩邸跡・ 高臺(高台:たかきや)小学校跡 大阪市立堀江中学校
紀州藩邸跡・ 高臺(高台:たかきや)小学校跡 現在、大阪市立堀江中学校があるこの辺りに は、昭和20年(1945)3月の大阪大空襲で焼 失するまで、高臺小学校がありました。明治5年 (1872)11月に西大組第18区小学校として設 立され、明治12年(1879)9月に高臺小学校と 改称。戦後、わずかに残った校舎は修理され、花 乃井中学校高台分校として使われていました が、昭和34年(1959)、堀江中学校として独立 し、現在に至っています。かつてこの地には紀州 藩邸があったとされています。
勧進相撲興行の地 (南堀江公園)
勧進相撲興行の地 (南堀江公園) 承安4年(1174)に朝廷の相撲節会が廃止された あと、相撲は武士の娯楽として、主として武家屋敷 内で続けられてきました。興行としての勧進相撲は 風紀を乱すという理由で、江戸幕府により禁止。し かし元禄の頃には、勧進相撲については緩和の方 向に傾いてきており、元禄12年(1699) には京都 で天王社修復を理由に許可されたのをはじめとし て、延享4年(1747)には特に理由がなくても勧進 相撲を興行することが許可されました。大坂では、 『摂津名所図会大成』によれば元禄5年(1692)に 南堀江高台橋橘通で興行されたのが最初との記 述があります。一方、『堀江御開発旧記』によると元 禄15年(1702)に堀江橘通3丁目で興行されたの が始まりという説もあります。
ここから北へ進みます。信号を越えて次の辻を左に折れて西へ進んでいきます。新なにわ筋を左折して南下、南堀江3西の交差点を西に渡り西に進んでいきます。
立花通り商店街 新なにわ筋 旧 家 日吉公園
立花通り商店街 この辺りは江戸期は橘通という町名で、明治5年(1872)から南堀江上通となりまし た。昭和34年(1959)に南堀江立花通1~6丁目という町名ができますが、昭和53年 (1978)10月2日の住居表示の実施にともない、「立花」という名称が消えてしまいまし た。幕末から建具屋、古道具屋、箪笥商、仏壇屋などが並び、明治、大正時代になって家具 屋街として賑わうようになりました。住宅事情の変化や、マンションの備付け家具の普及 などにより、客足が遠のいた時期もありましたが、平成4年(1992)、家具屋の2代目を 中心に発足した「立花通活性化委員会」の様々な活動により、活気を取り戻しました。現 在は、家具屋の他に、インテリアショップや雑貨屋、カフェなどでも賑わっています。
辻重庵
辻重庵 昭和35年(1960)に車1台で商売を始めた辻重行さん(現会 長)が築き上げた、お茶のメーカー兼卸問屋 「山城物産」本社 ビル1階にあるお茶屋さん。現在の2代目社長は2008年・ 2009年と全国茶審査技術競技大会で4位の成績を修め、大 阪では珍しい茶鑑定士7段の資格を持っています。買物に行 くと美味しいお茶を振舞ってくれて、ついつい長居をしてしま いますが、地元民に愛される憩いの場ともなっています。
辻重庵 から南へ下ると日吉橋があります。
日吉橋の上から西に見えるのが道頓堀川水門です
 「日吉橋」から「道頓堀川水門」を見ることができます。ここで道頓堀川の水位を管理し、安全に遊覧船などが運行できるようになっています。
 今回はここがゴール地点となります。
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 文:美智子姫 
は平成12年(2000)に完成した東横堀川水門は、道頓堀 川水門と対になっている閘門です。①門の前後で水面の 高さが違う時に水門内で水位の調整を行い船舶を航行さ せる、②大雨や高潮で水位が上昇する時は水門を閉めて 浸水被害を防ぐ、③潮の干満を活かして門を開閉して水 質をきれいにする、という役割があります。水門が開閉す るときに船の信号がわりに出る噴水は、大阪市章「みお つくし」のかたちをイメージしてつくられたそう