仁徳朝に築かれた横野堤は『万葉集』に「紫の根延ふ横野の春野には君をかけつつ鶯鳴くも」と詠まれています。紫草の白い花咲く堤の風光明媚な情景を思い描きながら、万葉の世界へ参りましょう。
▲スタートは 大阪メトロ千日前線 小路駅 ▲駅から西側歩道を南へ進み小路会館手前を右折すればこの道です
▲清見原神社  
この社はもと大友村の氏神で天武天皇宮と呼ばれていましたが、明治40年(1907)の神社合祀令に伴い、近隣の四 社を合祀し、村名を採って小路神社となりました。その後、祭神の天武天皇に因んで清見原神社と改称されました。近くに吉野見の地名が残っていますが、これは往昔、天武天皇が難波に行宮された時にこの辺りを通られ、吉野はどの方に当たるかと振り向かれた事から起こったと言われ、今も吉野見通りという古い街道があります。
▲釈翠岩墓所の角にある看板 ▲釈翠岩墓所の前の北向き地蔵尊 ▲門には鍵がかかっていました
▲釈翠岩墓所
今から300年程前、享保の頃、翠岩さんという生まれつき慈善心の強い人がおられました。本名は松江太郎右ェ門と言 い、中川村の豊かな農家でした。翠岩さんは中川村や近郷の村人の為に私財を投じて道普請をしたり、川に石橋を11か所も架けたり、貧しい人たちへ救米などをされていました。そして晩年は剃髪して住吉屋翠岩と名乗りました。その後、息子・伝兵衛にも先立たれたため、所有していた田畑一町六反歩を村に寄付され、62歳で世を去りました。以後、2月22日を村民の休日と定め、翠岩さんの遺言により、その田地からの所得米を村人たちに平等に施米されて、近年まで 約200年以上続けられていました。今も中川町財産区として存続し、生野区役所と連絡をしながら財産の管理、運営に あたっています。
▲長木橋 ▲長木橋より北方向を望む ▲旧家のお酒屋さん
▲大池中学校とグラウンド ▲大池中学校正門 ▲大池中学校校舎
大阪市立大池中学校(おおさかしりつ おおいけ ちゅうがっこう)は、大阪府大阪市生野区にある公立中学校。
学制改革により、生野区で最初の公立中学校の一つとして1947年に開校した。校舎敷地は、高等科単独設置の国民学校・大阪市大池国民学校の敷地を引き継いでいる。
▲難波寺(なにわじ)
難波寺(なにわじ) もと上六の東辺にあった古刹で、聖武天皇が東大寺の大仏開眼供養の為、天竺の僧・波羅門菩薩など海外の高僧を迎えるにあたって 難波丘陵の高台に精舎を建立せしめられたことが、寺の始まりと言われています。江戸時代から明治にかけて難波寺は「野中の観音」 と呼ばれ、大阪市中の人々に親しまれ、春は桃と桜の花見、秋は観月の名所でありました。また、歌舞伎で有名な『茜染野中の隠井』の 悪人・梅渋由兵衛による夫婦共謀強盗殺人事件の舞台となった寺でもあります。本尊は行基の作と伝えられる十一面観世音菩薩で す。大正14年(1925)、近鉄・上本町駅拡張に伴い、現在地に移転しました。 
田島小学校
▲田島神社
田島神社はもと東成郡田島村の氏神で、祭神は菅原道真公と少彦名命を祀り、天満宮と呼ばれていましたが、明治42年(1909)に田島神社と改称されました。大正時代の 中頃までは境内に太い杉の大木が何本もあって静かな神社でした。社記によれば、明治18年(1885)の淀川大洪水で古記録などが散失し、今は宝物として後陽成天皇宸筆の神号の軸と烏の餅杵一組があります。 尚、境内には田島レンズの元祖・石田太次郎翁の碑が あります。これは明治末年から昭和40年頃まで、地場産業として栄えた田島のレンズのことで、田島村は眼 鏡レンズ発祥の地とも言われています。一時は眼鏡用、光学用ともに日本一の生産量を誇っていました。
▲横野神社跡と万葉歌碑
この神社は古くから印地の宮と呼ばれ、河内の大地村の西端にあり、摂津国田島との境に接していました。祭神は農耕の神・印色入日子命です。また、横野神社は延喜式内社で河内国渋川郡六座の一つです。往古はかなり栄えた大社であったようですが、江戸時代の中頃に一時荒廃しました。享保の頃、畿内の旧跡を調査した並河誠所が当地を訪れ、神社の由緒や土地に伝わる古歌などを詳しく説明し、以後、穢れのないように庄屋に言い渡したそうです。また、この社地の付近は『日本書紀』仁徳紀に記された横野の堤のあった場所であり、太古はこの辺りの橘川(古平野川)右岸にあたり、河水の氾濫と玉造江の潮流を防ぐために築かれた堤防です。平成4年(1992)、社地に古くから伝わる『万葉集』の歌碑が建立されました。揮毫は万葉学者の犬養孝先生の筆になるものです。
紫の 根延ふ横野の春野には 君をかけつつ 鶯鳴くも   詠み人知らず
 ▲円徳寺
円徳寺は浄土真宗大谷派に属し、本尊は阿弥陀如来です。寺伝によれば、開基はこの地の郷士・上場 又三郎正欽という者で、室町時代、足利義尚の麾下 に属し、江州坂本において佐々木高頼と戦いました が、感ずるところあって本願寺の蓮如上人に帰依し て僧となり、長享2年(1488)にその邸宅を道場と したのが寺の始まりとされています。元亀・天正の 石山合戦の時、本願寺門徒として村人「大地衆」を 率いて石山に馳せ参じた円徳寺四代目の了法は織 田信長軍との戦いで戦死し、本願寺の顕如より感 状を頂きました。以後、円徳寺の歴代住職は顕の字 を使うことを許され、了法は顕了という名を与えら れました。また、円徳寺は江戸中期の文学者・井原 西鶴の『椀久一世の物語』に出てくる椀屋久右衛門 の剃髪した寺でもあり、椀屋が寄進した朱塗の椀 家具十人前が沢山の宝物とともに残っています。
 ▲念仏堂  ▲府道159号を南下  ▲巽神社参道
 ▲楠正長史跡公園
楠正長史跡公園はもと河内国渋川郡四条 村の氏神天神社の境内です。室町 時代の初期、大楠公(楠木正成)の 孫と言われる楠正長という人が隠 れ住んだ場所でもあります。楠正長は、後に本願寺六世の巧如上人に帰依し、名を定願と改めました。 定願は一宇を建てて勤行し、一族 の霊とともに村民を教化し、応仁2 年(1468)97歳でこの世を去り ました。この公園には並河誠所筆の『続古今和歌集』の歌碑が平成 13年(2001)に建立されました。
霜枯の 横野の堤 風冴へて 入汐遠く  千鳥鳴くなり   藤原光俊朝臣 
  ▲巽神社
巽神社はもと巽、大地の八幡宮と呼ばれた立派な神 社でした。その歴史は不詳ですが、おそらく 大地の集落ができた中世以前からあるも のと思われます。明治40年(1907)の神 社合祀令により、巽の四条、西足代、矢柄、 伊賀ヶの各氏神とともに、大地の横野神社 もここに合祀され、村名を採って新しく巽 神社となりました。現在の社殿は鉄筋コン クリート造りで、昭和50年(1975)に建て 替えられたものです。尚、この神社の氏子 地域は巽全域で、7月15日の夏祭と10月 15日の秋祭には、大地や四条、矢柄など旧 5か村の4台の地車と、2台の布団太鼓台 が曳き出され、大勢の見物人で大変な賑わ いを見せます。
   ▲ゴールは 大阪メトロ千日前線 南巽駅
 
     このページのTOPへ     
 美智子  
は平成12年(2000)に完成した東横堀川水門は、道頓堀 川水門と対になっている閘門です。①門の前後で水面の 高さが違う時に水門内で水位の調整を行い船舶を航行さ せる、②大雨や高潮で水位が上昇する時は水門を閉めて 浸水被害を防ぐ、③潮の干満を活かして門を開閉して水 質
をきれいにする、という役割があります。水門が開閉す るときに船の信号がわりに出る噴水は、大阪市章「みお つくし」のかたちをイメージしてつくられたそう