俳人・与謝蕪村は享保元年(1716)、毛馬村に生まれました。若き頃に江戸を 出て、芭蕉の足跡をたどって東北を周遊。その後、京に居を構え、大坂にも何度 も立ち寄りますが、なぜか自分の生まれ故郷には一度も帰ろうとしませんで した。新淀川開削で消えてしまった蕪村のふるさと・毛馬界隈を歩きます。
▲都島本通交差点
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都島工業高校
都島本通交差点から都島工業高校の正面を通って西側の道を北上します
▲都島工業高校の西側にある善源寺公園から北上し善源寺楠公園を目指します
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善源寺楠公園の西南角にある 楠玉神社と駒つなぎの楠
平安中期、このあたり一帯は「善源寺荘」と呼ば れ、大江山の酒呑童子を退治した源頼光が支配 する荘園でした。頼光は長徳年間(995~999)、 ここに武神・八幡大神を祀ったさいに自ら楠を植 えました。この地の管理を任されていた頼光四天 王の筆頭、渡辺綱が、この楠に馬をつないで参詣 したことから「駒つなぎの楠」と呼ばれました。樹 齢900年、周囲12m、高さ約30mもの大樹で、 昭和初期、大阪府の天然記念物第一号に指定さ れましたが、戦災で枯死しました。しかし、その後 も倒れず現在にいたっています。 ①
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飛翔橋
飛翔橋(ひしょうばし)
は、大阪府大阪市都島区と北区の間の大川(旧淀川)に架かる歩行者専用橋。
大川を橋脚なしで越えるためアーチスパンが長くなり、さらに橋の西側の一部が阪神高速道路守口線の下をくぐる関係でアーチライズ比(高さ/長さの比)が小さくなる構造的な制限を受けたため、アダムスキー型円盤のようなシルエットを持つ二重アーチ構造になっている。飛翔橋の名称は、「UFOを思わせ、どこかへ飛び立つようなイメージ」から名付けられたとされる。
▲毛馬桜之宮公園
大川の毛馬橋から天満橋までの両岸(延長4.2km)に広がるリバーサイ ドパークです。もともと「水辺より馬場の堤に至るまで一円の桜にして晩 春の花の盛りには雲と見、雪と疑う光景なり。最上(の)花見の勝地とい ふべし」(『澱川両岸一覧』)といわれたように、江戸時代から桜の名所 として親しまれてきました。たびかさなる淀川の氾濫で桜も倒れたりしま したが、そのたびに植え替えられました。大正12年(1923)に開園した 桜之宮公園を中心とした大川両岸の公園整備が、明治100年記念事業と して昭和42年(1967)から始められ、南天満、桜之宮、毛馬を含んだ約 2 3 h aの大 公園が 完 成 。両 岸の 桜は 4 8 0 0本に達し、大 阪城 周辺 (4300本)をしのぐ西日本有数の桜の名所としてよみがえりました。
▲春風橋
淀川にほぼ平行して伸びる城北運河の大川からの分岐点にかけられた 歩行者自転車道路橋(幅3m、長さ105m)で、昭和56年(1981)3月 に完成しました。橋の名は、与謝蕪村の句「春風や堤長うして家遠し」に ちなんでつけられました。この句は蕪村の最高傑作ともいえる抒情詩 「春風馬堤曲」の発句で、「やぶ入りや浪花を出て長柄川」と並んで出 てきます。やぶ入りで大坂の町なかの奉公先から実家へ帰る娘に託し、 わが生誕の地・毛馬村への望郷の念を18首の歌に詠み込んだ、蕪村62 歳の作品です。最初に短い詞書があり、発句二つ、続いて漢詩、また句 がくるという当時としては大胆不敵な構成で、最後は俳句仲間の句「藪 入の寝るやひとりの親の側」というやぶ入りの句で締めくくっています。 10代後半には両親ともなくなり、家は没落、そして出奔。20歳のころに は江戸にあり、京都で68歳の生涯を閉じるまで、二度と毛馬の地を踏 まなかった蕪村ですが、失意のうちに幼い日々を過ごした淀川べりの村 を終生忘れることはなかった、といえるでしょう。
▲毛馬橋
蕪村の生まれた毛馬村は淀川の左 岸。対岸は北長柄村で、両地点を毛 馬渡しが結んでいました。長さ190 間(約365m)。蕪村が門人に送っ た手紙の中で「堤ニは往来の客あ り」としたのは、この渡し舟に急ぐ 人々の姿でした。この下流には源八 渡し、川崎渡しが続きます。ここに 初めて橋が架けられたのは大正3年 (1914)。地元の熱心な運動が実 りました。長さ155m、幅3.6mの 木橋で、毛馬橋第1号です。現在の 姿になったのは昭和36年(1961) です。
▲大川(旧淀川)
もともとは淀川の本流でしたが、明治後期の淀川改修工事で毛馬 の洗堰、閘門が作られた際、そこから下流の大阪湾に注ぐ旧淀川 13.83kmを大川と呼ぶようになりました。それぞれの時代の大阪 の繁栄を担った河川で、現在は、中之島で堂島川、土佐堀川と分か れるなど、区間によってさまざまな通称で呼ばれています。寝屋川 と合流する地点のすぐ先は、江戸時代に京・伏見と大坂を往復した 三十石船の大坂側のターミナル、八軒家浜船着場。飛鳥時代には 難波津、平安時代には渡辺津と呼ばれた要衝です。弥次さん喜多さ ん、森の石松、幕末の志士たちまでが乗ったという三十石船(長さ 約15m、幅1.9m、定員28人)は、昼夜、上下便あわせて毎日320 便、約9000人が利用したといわれ、大変な賑わいでした。
▲淀川神社
いい伝えによれば、淀川河口の海賊取り締ま りのため配備された武士が、当時有名だった1 5の神社の神様を守護神としてまつったのが 起こりで、名前も十五神社と呼ばれていまし た。明治42年(1909)、毛馬村の氏神、八幡大 神宮が櫻宮に、友渕村の氏神、十五神社が大宮 神社に合祀されましたが、これによって心のよ りどころを失った毛馬、友渕、大東3町の人た ちの熱心な働きかけで昭和28年(1953)10 月、旧十五神社の神殿と境内をそのまま利用 した形で復活。現在の名で呼ばれるようになり ました。
蕪村公園
平成21年(2009)3月に開園したばかりの蕪 村を顕彰する公園(約1ha)です。「春風馬堤 曲」に詠われている毛馬の堤を再現し、淀川原 ののびやかな広がりのある風景が表現されて います。園内には、蕪村自筆の13句を刻んだ 句碑が並べられています。松尾芭蕉、小林一茶 とともに近世俳諧史を彩った蕪村は、浪漫的、 抒情的な俳風を築き、生涯で3000近い句を 詠んでいます。13句はその代表作ともいえ、 多くは生まれ故郷、毛馬を詠んだ作品が連ね られています。
毛馬洗堰と毛馬閘門
新淀川開削を含む淀川改修工事で計画され、 明治40年(1907)8月、普段の川の水を流 すための「毛馬洗堰」と、水位が違う大川、新 淀川間の船舶の通過をスムーズにする「毛馬 閘門」とが完成しました。閘門は沖野忠雄の 指導で作られ、両岸はレンガ造り。水路の前 後に鉄製観音開きの制水扉が設置され、両岸 からハンドルを回して開け閉めしました。しか し、その後の大川しゅんせつ工事で水位が大 きく下がり、淀川との水位差が広がって役に 立たなくなったため、大正7年(1918)、この 閘門下流に二つ目の閘門が作られました。現 在使用されている閘門は3代目で、昭和49年 (1974)に完成しました。旧毛馬洗堰と初代 閘門は貴重な近代産業遺産として平成20年 (2008)6月、国の重要文化財に指定されま した。
蕪村生誕地の石碑
江戸・天明期の俳壇革新者であり、南宋画の開拓者、俳画の 創始者といえる与謝蕪村は享保元年(1716)、摂津国東成 郡毛馬村(大阪市都島区毛馬町)に生まれました。20歳のこ ろには江戸にあり、夜半亭宋阿に師事し、俳諧を学びました。 寛保2年(1742)27歳のとき、師の死にあって江戸を去り、 下総国結城(茨城県結城市)を拠点にあこがれていた松尾芭 蕉の足跡をたどって東北を周遊するなど、俳諧の道と画技を 磨きました。その後、丹後・与謝地方で4年余を過ごし、42歳 で京都に居を構え、画業に専念します。45歳のころ結婚。娘 くのの誕生からしばらくして讃岐へと旅立ち、55歳で師を 継ぎ、夜半亭二世に推戴されました。このあたりから、「春風 馬堤曲」「澱河歌(でんがか)」「老鶯児(ろうおうじ)」の三部作 を刊行した62歳ごろが蕪村の絶頂期といえます。天明3年 (1783)12月、「しら梅に明る夜ばかりとなりにけり」の辞 世句を残し、68歳でなくなりました。墓は芭蕉庵のある京都 市左京区一乗寺、金福(こんぷく)寺にあります。
淀川大堰
毛馬閘門
淀川大堰と毛馬閘門水路
新淀川
かつての淀川は、蕪村の故郷・毛馬村付近で中津川と分岐、南へ 大きく湾曲していました。その豊かな水量で農作物には恵まれ たものの、一方でたびたび洪水に見舞われ、有史以来といわれ る明治18年(1885)の大洪水、さらに22年、29年の洪水が大 きな被害をもたらしました。18年の洪水の惨禍を目の当たりに した東成郡榎本村放出(現在の大阪市鶴見区)生まれの大橋房 太郎(1860~1935)が淀川治水事業に取り組み始め、その努 力で明治29年(1896)には河川法が制定されるとともに、淀 川改修経費が国会を通過。オランダ人技師、デ・レーケが計画立 案、内務省土木監督署の技師、沖野忠雄の指導のもと、新淀川開 削を含む改修工事がスタートしました。新淀川は毛馬付近から 下流を、旧中津川の一部を利用する形で開削、大阪湾に直線的 に注ぐようにし、旧川(現在の大川)には必要な水量を流す洗堰 と船舶航行のための閘門を設けるという大規模なもの。完成ま でに10年余を要しました。その後も改修は続けられ、戦後は洗 堰部分に淀川大堰も建設されました。残念なのは、新淀川工事 で、淀川が南へ大きく湾曲する部分の左岸に位置した蕪村の故 郷・毛馬村の大半が水没してしまったことです。蕪村生誕地の石 碑のあたりから見下ろす北側がその地です。
沖野忠雄像
毛馬の残念石
毛馬の第一閘門
旧毛馬基標
毛馬の眼鏡橋
眼鏡橋から毛馬橋に出て毛馬橋を渡って少し行くと毛馬橋バス停がありますのでご利用ください。
文:美智子
出る噴水は、大阪市章「みお つくし」のかたちをイメージしてつくられたそう