加島界隈の旧家  
御幣島界隈 
 古代、天皇が即位したさい、淀川流域の島々で「八十島祭」が行われました。淀川、神崎川、旧大和川などが錯綜して、無数の島々が浮かんでいた「難波八十島」を、日本の国土である「大八洲(おおやしま)」に見立てて、その島々の神霊を天皇に遷すことで、天皇として正統な継承者となりました。神代の時代から続いていたという幻の神事「八十島祭」その祭礼場であったと推測される御幣島界隈を巡ります。
御幣島
古代、淀川、旧大和川などが運んできた土砂が堆積して 難波八十島が生まれました。淀川流域に佃島、出来島、 姫島、歌島、柴島、中島といった島のつく地名が多いの は、その名残で御幣島も難波八十島のひとつです。御幣 島という名称の由来は、神功皇后が三韓征伐の帰途に 島に上陸して住吉神を祀り、「御幣」(みてぐら。お供え 物のこと)を献げたからと伝えられています。非常に古 い地名で天平3年(731)の『住吉大社司解』には「御幣 浜」(みてはま)という地名で登場しています。 ①
神崎川
かつては淀川と独立していましたが、淀川の洪 水を防ぐため、延暦4年(785)に和気清麻呂が 三国川を開削して、神崎川と淀川を連結。以後、 京と西国を結ぶ水運ルートは三国川・神崎川が 主流となりました。とくに淀川と三国川との境 にあった江口は水運交通の要所となり、遊女な どが集められ、天下一の歓楽地として有名にな りました。神崎川流域の御幣島も平安貴族たち の遊興の地となり、歴史物語『栄花物語』によれ ば「延久5年(1073)2月、後三条上皇の天王寺 御幸の帰途において御幣島で歌遊びをした」と いう記述などもあります
 JR東西線 御幣島駅を地上に出たら大通りを北上し御幣島2の交差点を左折して西へ2筋目を右折して北上していくと右手に御幣島公園があります
御幣島公園 住吉神社跡碑
 かつて当地に住吉神社がありましたが、明治42年 (1909)に加島の香具波志神社に合祀されました。こ こが神功皇后が御幣(みてぐら)を献げた場所で、また 「八十島祭」が行われた祭場とも伝わっています。八十 島祭とは古代の天皇の皇位継承の儀式で、淀川河口の 大小多数の島々を「大八洲」(おおやしま。日本の国土の こと)に見立て、島々の神霊を天皇に遷すというもので す。女官が祭使となって淀川にやってきて、天皇の御衣 を納めた筥(はこ)を琴の音に合わせて海に向かって振 るという儀礼を行いました。古代からの祭礼でしたが、 鎌倉期に武家が勃興すると公家は貧窮し、いつしか廃 れてしまいました。
 御幣島公園 の北隣に光明寺があります
光明寺
 光明寺(武内宿禰の墓)
浄土真宗西本願寺派で山号は幣帛山とい います。武内宿禰の子孫と称する紀貞之 が 、本願寺 蓮如に帰 依して嘉 吉 2 年 (1442)に創建したといいます。境内奥に武内宿禰と子孫の紀定盛の墓がありま す。武内宿禰は景行・成務・仲哀・応神・仁 徳天皇の5代の天皇に大臣として仕え、約 300年以上生きたという伝説的人物です。葛城氏・平群氏・巨勢氏・蘇我氏など古代豪族28氏の祖先ともいい、神功皇后に仕えて三韓征伐にも功績があったといいます。戦前は日本銀行券の肖像にもなりました。
紀貫之の歌碑
光明寺境内に、平安時代の歌 人・紀貫之(870頃~945) の歌碑「ふる雪に 木々の梢を ながむれば しろたえなれや みてくらのしま」があります。 紀貫之は三十六歌仙のひと りで、著書『土佐日記』は日本文学史上初の仮名による散 文で、後世の日記文学や随 筆、女流文学の発達に多大な 影響を与えました。この紀貫之も武内宿禰の子孫です。
一休和尚碑
光明寺の開祖・紀貞之は一休宗 純と交友関係にありました。一 休宗純(1394~1481)は室町 時 代 の 禅 僧 で 、後 小 松 天 皇 (1377~1433)の落胤といわ れています。一時は京都大徳寺 の住職になりましたが、生涯の ほとんどを放浪で暮らし、風狂 に生きた禅僧です。西国へ旅立 つさいに、よく光明寺に泊まっ たといいます。また一休和尚の 筆になる自画賛の一軸が光明 寺に残されています。 ⑤
 光明寺から1kmほど北へ進み 右手に注意していると立派な旧家が見えます この一角に趣のある佇まいが残っています
JR加島駅の南側の一画に旧家が立ち並んでいます
旧家の中を縫うように北へ進んでいくとJR東西線 加島駅の駅舎の壁に出ます 
JR加島駅の壁面に祀られていました
JR加島駅東口から南へ延びる道を50mほど辿れば右手に竹島公園がありこの中に大きな天神社跡の碑があります
 天神社跡碑(竹島公園)
 かつて、ここに文禄3年(1594)に勧請された竹島天神社 の祠がありました。延宝5年(1677)の『加島村検地帳』に は「五間四方・二十五歩(坪)・天神宮地」と記載されていま す。文政6年(1823)に社殿修理、文政9年(1826)には石灯籠が寄進されました。しかし明治42年(1909)に香具波志神社に合祀されました。
 天神社跡からは御幣島の町を散策しながら御幣島6交差点から東へ進み新家工業株式会社から南へ下がり歌島公園で東へ進んでJR線に突き当たって右折、グリコの方向へ行きます。
自転車の新家工業株式会社
発祥地は石川県加賀市山中温泉。鋼管部門では、ロールフォーミング技術を駆使して主に家具や建築材料に使用される鋼管や自動車向けシートレール等の形鋼を製作している。鋼管を販売する販売会社にアラヤ特殊金属株式会社がある。自転車のブランドとしては「ツバメ自転車」であった。
福祉機器製品として、車輪内にサスペンションを組み込んだ「車椅子用サスペンション車輪 アブソレックス ABSOLEX」を開発し、販売している。また、サスペンション車輪「アブソレックス」の特長を利用して、弱電業界の精密電子部品の運搬や、病院・医療関係、流通業界などで使用する産業分野向けのサスペンションキャスターを展開している。
1982年に日本のメーカーで最初にマウンテンバイクを投入したのを皮切りに、1990年代にはマグネシウム一体成形フレーム「クリテリウム・マグネシウム」を発表、月刊誌の国産MTB人気投票で一位に輝くなど評価は高かったが、マウンテンバイクブームの終焉とともに自転車製造からは撤退。同時に販売も取りやめたが、その後OEM供給を受けての自転車販売に復帰し、MTBのmuddy fox(マディフォックス)商標も復活した。現在、自社ブランド名、およびラレーブランドでの自転車販売をしている。
車輪を構成する部品「リム」製造では老舗でありかつ国内最大手。また競輪用のリムを生産する国内企業は現時点で新家工業1社だけである。 
江崎グリコ株式会社・江崎記念館
「江崎グリコ」の創業者・江崎利一(1882~1980)の記 念館です。利一は佐賀県神埼郡蓮池村(現・佐賀県佐賀市 蓮池町)に薬種業の父・清七、母・タツの長男として生ま れ、家業を継ぎました。ある日、薬業新聞で「牡蠣には優 れた栄養のグリコーゲンが含まれている」という記事を読 み、また有明海で漁師たちが牡蠣の煮汁を捨てるのを見て 「もしかして煮汁にグリコーゲンが入っているのでは?」と 閃き、分析すると多量のグリコーゲンが含まれていたの で、商品化に着手。キャラメルにグリコーゲンを混ぜ、さら に近くの神社でかけっこをする子供たちの姿を見て思いつ いた「ゴールインマーク」を商標に決め、こうして「栄養菓 子グリコ」が生まれました。大正10年(1921)にはグリコ を広めるために大阪へ移転。昭和2年(1927)に「豆玩 具」(グリコのおもちゃ)を創案して大ヒットし、昭和10年 (1935)には戎橋に高さ33メートルのネオン塔を作っ て、たちまちミナミ名物となりました。記念館は江崎グリ コの歴史や過去の商品パッケージ、広告キャンペーン、グリ コのおもちゃなどを展示・紹介しています。
(記念館見学は完全予約制。06-6477-8352)
江崎グリコ株式会社から少し南側を通っている大野川緑陰道路を目指します
 大野川緑陰道路
大野川は神崎川と新淀川とを結ぶ延長約6キロメートルの 川でした。舟運や灌漑用水にも利用されましたが、戦後は 河川汚濁が進み、昭和47年(1972)に埋め立てられまし た。八丁大橋跡から淀の水橋跡間の約3.8キロメートルを 大野川緑陰道路として整備。高木約1万本、低木約12万本 の100種類にも及ぶ樹木があります。
 大野川緑陰道路を南西に800mほど進んでいくと右手に寺院の瓦屋根が見えてきます ここが泰心山 西栄寺です
泰心山 西栄寺
西栄寺から少し西へ進んでいくと、JR東西線・御幣島駅です。ここが本日のゴールです
 
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 文:美智子姫 
は平成12年(2000)に完成した東横堀川水門は、道頓堀 川水門と対になっている閘門です。①門の前後で水面の 高さが違う時に水門内で水位の調整を行い船舶を航行さ せる、②大雨や高潮で水位が上昇する時は水門を閉めて 浸水被害を防ぐ、③潮の干満を活かして門を開閉して水 質をきれいにする、という役割があります。水門が開閉す るときに船の信号がわりに出る噴水は、大阪市章「みお つくし」のかたちをイメージしてつくられたそう