014-116-KUJYO
 
川底トンネル舗道からスタートします
JR大阪環状線・西九条駅もしくは阪神電車・西九条駅がスタートになります。駅を出たら南の方向を目指してください。阪神電車の高架に沿って進んでいくと正面に建物が見えてきます。ここが安治川川底トンネル舗道です。大型のエレベータが運転されていますので少しの時間待てば乗ることが出来ます。建物の西側にある歩行者用階段は24時間利用できます。
でも夜間の一人歩きは注意が必要でしょうね。(左の写真は九条側から見た建物です。)
▲安治川河底トンネル  
かつて安治川上流には、マストの高い船の航行に邪魔にならないように、ロクロを利用して旋回させる可動橋の安治川橋(俗に磁石橋)が架かっていました。しかし、明治18年(1885)の淀川大洪水によって安治川橋に多くの橋の残骸が絡まって危険と判断されて爆破されました。その後も大阪中央卸売市場などへの大型船の航行が多いので橋は架けられず、河底にトンネルが掘られ、昭和19年(1944)に完成しました。世界的にも珍しい大型エレベーターが設置され、輸送トラックなども行き来しましたが、現在では人と自転車のみが通行可能です。ちなみにトンネルができるまでは源兵衛渡しがありました。  
 とらや (粟おこし店)
 昭和30年代頃まで安治川から四国方面へ貨客船が運航されていました。そのお客さんが買い求めたのが大阪土産の粟おこし。当時から現在に至るまで、伝統の手作り粟おこしの名店として地元住民に愛されていましたが現在は閉店されているようでした
 ミューラシア (元・伊藤鉄工所)
日清・日露戦争の頃、木津川付近に造船所が作られ、ボルト、ナットといった船具を作る鉄工所も集まりました。伊藤鉄工所も80年余りネジ切りを行ってきた鉄工所ですが、現在は改装して和風の貸スペースとなっています。外観は普通の町工場ですが、扉の向こうには癒しの空間が広がっているようです。
此処も見つけることが出来ませんでした。
 ▲キララ九条商店街   ▲かんえい堂
明治25年(1892)頃から続く、約600メートル、約200店舗の商店街です。元は九条新道と呼ばれる大通りでした。戦前は芝居小屋、寄席小屋、映画館が10軒余りもあり、近くには松島遊郭などもあったので大いに賑わい、「西の心斎橋」とまで称されました。 
 ▲九條東小学校の石碑「暴風水害記念誌」
この学校(西成郡九条村)は明治8(1875)に設置され、戦後、学制改革により大阪市立九条東小学校と改称(昭和22年・1947)後、140年以上のときを経てきた。
昭和9(1934年)には室戸台風により、九条東小学校は校舎は被災し、校舎の壁には、兒童らを抱き抱えた先生の姿と台風の模様を記した銅板がはられている。
説明版によると、室戸岬(高知県)より風速60mの突風台風は、3mほどの高潮と伴い、午前8時に大阪市を襲い、これまでにない惨禍をもたらしたという。
市内の家屋、工場、店舗は倒壊・流失、公営物の損害等があり、死者990名、重軽症者16908名にのぼる。なかでも小学校の被害は甚だしく、校舎の全壊28、半壊71、大破77、それに殉職教員7名、惨死児童269名に及んだ。
九條一帯は大きな難は免れるも、屋根瓦は木の葉のごとく飛び散り、濁流が押し寄せ、全戸床上浸水した。
交通・通信・電燈は途絶し、各学校に殺到し、避難者は100名に達し、前代未聞の大災に遭たが、西区はひとり死傷者も出ずに復興の途についた。
これは、区内の関係者各位の応急の措置によるもので、『禍を転じて福と為し』で、今や新興の気概をもち、第一、第二、第五各小学校の復興も目前にあると記されている。九條教育会は、各種団体と協議し、事蹟を碑に刻みこれからの戒めの備えとするために記す、昭和13(1928)年3月の刻印がある。
正確には「国旗掲揚柱の基部」である。
「八紘一字」とは日本軍が全世界を侵略し、天皇を頂点とした世界を造るための標語として使われた言葉。全世界(=八紘)を一棟(=一宇)とするという意味。2本の石柱の間に木の「国旗掲揚柱」があった。木は石柱に挟まれた部分を残し上の部分は腐って無くなっている。
石柱は大きい方が高さ1m70cm、小さい方が1m40cmある。北面には「八紘一宇」「皇紀二千六百年紀念」「九條中通青年国」と彫られている。 「皇紀」とは神武天皇が橿原の宮に即位した年(BC660)を「皇紀元年」として数える暦年法で戦前は今の西暦ではなく、この「皇紀」をつかった。昭和15(1940)年が「皇紀」でいうと2600年になるのでいろんな記念的な事をおこなわせた。この地域の青年団ではこの「国旗掲揚台」を作ることにしたのだろう。
 南面には大きい石柱に「創立十五週年記念」「昭和十五年一月建立」小さな石柱に「昭和九年九月二十一日関西風水害浸水々水位標」とあり「室戸台風」の時の浸水線が95cmの所に横線で彫られ「最高水位線」と書かれある。
 ▲「八紘一宇」の碑 (はっこういちうのひ)
国鉄C57形蒸気機関車(こくてつC57がたじょうききかんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)の旅客用テンダー式蒸気機関車である。マスコミなどでは「貴婦人(きふじん)」の愛称で紹介されることも多い。鉄道ファン等からは「シゴナナ」と呼ばれている。 
▲SL館 (共永興業株式会社)
鉄鋼専門商社・共永興業株式会社の創立20周年を記念して、昭和49年(1974)に開館しました。本社1階ロビーに保存展示された蒸気機関車C57148機は会社が休日の日であっても建物外からガラス越しに見ることができ、その迫力には圧倒されます。
▲キララ九条商店街南口   ▲ナインモール九条商店街北口
キララ九条商店街とナインモール九条商店街は中央大通りを境に南北に延びる商店街です。 
▲シネ・ヌーヴォ
1997年1月18日に「映画新聞」のスタッフであった、景山理氏(当時、編集発行人)と、江利川憲氏(フリー編集者)、松井寛子氏(映画宣伝プロデューサー)らが中心となり、市民株主として一般の映画ファンが出資し「株式会社ヌーヴォ」を設立。同社が映画館「シネ・ヌーヴォ」を運営している。開館当時、大阪でミニシアターと呼べる映画館は
「シネマ・ヴェリテ」(ACTシネマ・ヴェリテを経てシネ・ヌーヴォ梅田となるも閉館)など数館しかなく、東京に比べアート系作品の上映数の差は歴然としていた。現在は、大阪でもアート系映画を上映する映画館が増えている。
映画館そのものは歴史が古く、「九条東洋劇場」(~92年)「東洋レックスシネマ」(93年)「ACT活動写真館」(95年~96年)と開館・閉館を繰り返してきた。シネ・ヌーヴォ開館にあたり、劇団・維新派が館内の内装を行った。2006年8月には、2階に24席のデジタルシネマ「シネ・ヌーヴォX」を開館。ドキュメンタリーや特集上映、独立系映画作家の作品を中心に、より多様な作品を上映することで、大阪の観客の期待に応えることを模索している。
▲ナインモール九条商店街 ▲大阪市電創業の地碑 
大阪市電創業の地碑
 明治36年(1903)、九条新道の花園橋を起点に築港埠頭までの約5キロメートルに大阪市電が開通。公営による電気鉄道は日本初の快挙でした。翌年(1904)には、これまた日本初の試みで「2階付電車」が走り、これは路面電車の上に長椅子が並ぶテント屋根付きのデッキを備えたもので、夏は「納涼電車」、冬は「魚釣り電車」と呼ばれて一躍、大阪名物となりました。この「2階付電車」は市電創業50周年記念のさいに模擬電車が作られ、現在、緑木検車場(住之江区)に保存されています。その後も大阪市電は拡張し続け、最盛期には総延長約110キロメートルまで路線が拡大、市電としては東京都電に次ぐ規模に達しました。大阪市民に愛された市電でしたが、戦後は高速道路主体、自動車偏重の都市計画が進む中、昭和44年(1969)にその栄光の歴史を終えました。ちなみに大阪市電2601形電車は現在でも広島電鉄(900形電車)として現役で活躍中です。
 ナインモール九条商店街
約300メートル、約100店舗の商店街です。大阪ドーム型のシュークリームを売る店があるなど、近鉄バファローズが大阪ドームを本拠地としてから商店街全体でバファローズを応援しており、別名「バファロード」といいます。ここも元は九条新道でした。
▲天満宮行宮
天満宮行宮が松島の地に移るまでは、戎島と呼ばれていた川口の現・本田小学校あたりにありました。天神祭の舟渡御が木津川まで来ていた頃の様子が錦絵に残されていますが、これは戎島時代の天満宮行宮です。京町堀川下流の地に天満宮の御旅所が定められたのは1640年代後半頃とされ、それまで鉾流神事にて御旅所を決めていたのがこれを機に御旅所は常設されることとなりました。(以後、鉾流神事は約300年中止されました。)常設から約30年後に御旅所は戎島に移転されました。それから約200年後、明治時代に入り、外国人居留地が川口にできたことから御旅所は移転を余儀なくされ、明治4年(1871)に松島の現在地へ移転しました。戦前は松島からお迎え船が盛大に出ていましたが、地下水汲み上げによる地盤沈下で橋が下がり、舟の航行ができなくなって戦後は中止されました。
▲京セラドーム大阪 
 平成9年(1997)に大阪ガス工場跡地に完成。東京ドーム、福岡ドームに次ぐ日本3番目のドーム球場です。プロ野球のオリックス・バファローズの本拠地で、阪神タイガースも主催公式戦の一部を開催しています。草野球向けの一般貸し出しも可能です。施設命名権(ネーミングライツ)売却で、平成18年(2006)から呼称を京セラドーム大阪としています。
 
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 文:美智子姫 
は平成12年(2000)に完成した東横堀川水門は、道頓堀 川水門と対になっている閘門です。①門の前後で水面の 高さが違う時に水門内で水位の調整を行い船舶を航行さ せる、②大雨や高潮で水位が上昇する時は水門を閉めて 浸水被害を防ぐ、③潮の干満を活かして門を開閉して水 質をきれいにする、という役割があります。水門が開閉す るときに船の信号がわりに出る噴水は、大阪市章「みお つくし」のかたちをイメージしてつくられたそう