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このはなの由来をたずねて~アートと音楽の町歩きながら~
 
「このはな」の由来大正14年(1925)、北区と西区から分かれて新区が創設される際、色々な案が出ましたが、市会で議論百出の結果、王仁博士が詠んだと伝えられる古歌「難波津に咲くやこの花冬ごもり 今をはるべと咲くやこの花」から引用され、名づけられました

台風18号が過ぎた朝は秋晴れの快晴となりました。時間の経過とともに気温もググーンと上がり夏の出戻り状態で、暑いの何のってっ!阪神千鳥橋からスタートです。千鳥橋歩道橋を渡り西九条方面へと歩き始めました。
▲阪神電車・千鳥橋駅と目前にある千鳥橋交差点
 ▲千鳥橋交差点から西九条方面に延びる市道 ▲ 此花メジア跡
まずは「此花メチア」を地図を見ながら探しますがなかなか行き着きません。「どこにあるのかな?アートと音楽発信のまちってほんまかいな?大通りにある仏具店の筋裏を探しながらやっと見つけましたがホテルに変わっていました。「此花メチア」は元メリヤス工場を改装し、日本画・絵画・ダンス・メディアアート・音楽・ デザイン・建築など、様々なアーティストや地元住民の共同アトリエ、 ギャラリー、創作工房らしいです。建物は5棟が連なり、増改築を繰り返す 中で複雑に入り組んで結合していたようです。目印は表通りにある市バス此花朝日橋バス停の前にある平成28年12月に竣工したホテルです。
▲西の銀杏の神様 ▲東の銀杏の神様はすべて遷座されたようです
「大阪史蹟辞典」よりますと「四貫島神木」といい、観音寺の東と西側に計二本ある銀杏の古木を言う。東側の大木は祠ともども撤去されていますが、西の銀杏の神様は今なお凛として立っております。西の銀杏の神様はジェーン台風で倒れ、二代目のようです。
今は跡形もありませんが、1921年、大阪市電(西九条~千鳥橋)延線に伴う道路拡 張工事の際、この場所に鎮座していた住吉神社が移転しました。当時、住吉神社の正面拝殿にあったのが白砂大神です。建物取り壊しのさいに、白砂大神右の銀杏の木(推定樹齢約200年)に手をかけた ところ、次々と事故が発生。地元住民の間で神木として残すべきとの声があがり、町内安全の守護神として、残されていました。しかし2015年11月撤去の際よく調べてみると、いつ倒壊してもおかしくないほど空洞化が進んでいて今年大きな台風でも来ていたら倒れていたかもしれなかったそうです。神のたたりより安全安心を選択したのです。白砂大神は伏見稲荷大社へ遷座(せんざ)されたそうです。
大阪市バス・此花朝日橋バス停前の THE BLEND INN が「此花メチア」の有ったところのようです。ここから観音寺を挟んで東がわの交差点に白砂大神が祭られていました。この交差点を北側に渡ると、学校法人 淀之水学院 昇陽高等学校と昇陽中学校があります。
 ▲昇陽中学校・高等学校は 中・高一貫校の中学校・高等学校
「昇陽中学校・高等学校」は中・高一貫校の中学校・高等学校で1924年淀之水女学校として北区に創立しましたが、翌年、此花区酉島へ移転、1945年の大阪大空襲で校舎が全焼し、1949年5月まで、現在の此花区伝法小学校や福島区野田小学校の校舎を借用して授業を継続していました。その後、現在の場所へ移転となりました
先ほど渡った車道沿いに緩やかな坂を上っていくと信号がありこれを南の方角へ渡ります。渡った角が初代大坂船奉行所跡です。
▲初代大阪船奉行所跡
 朝日橋のたもとに大きな碑を見つけました。大阪さん歩の地図には載っていませんが「初代大阪船奉行所跡」となっており、すぐ横にある小さな公園の中には元大阪市長だった橋元徹の直筆の碑も立っていました。
「初代大阪船奉行所跡」は1620年、幕府は四貫島村に船奉行所を設けました。西国諸国から大坂に向かう船は、伝法川から逆川を経て大坂市中へ向かったため、幕府は諸船の通行を吟味し、西国諸侯の動向をここで監視したのです。2011年に、六軒家川に架かる朝日橋のたもとに、「初代大坂船奉行所跡」の碑が建立されました。
▲梅香堂
朝日橋の信号手前の倉庫街に梅香堂があるらしいのですが看板も何もなく、おまけにシャッターが下りていて確認することができませんでした。
梅香堂(ばいかどう)は2009年、廃倉庫を改装し、上下2フロアのギャラリー スペースと事務所等を備えたオルタナティヴ・スペースです。現代アートを中心に、展覧会、イベントなどを開催しています。
▲朝日橋
六軒家川に架かる朝日橋を渡ります。朝日橋は1863年、備前藩によって六軒家川に架橋されました。当時は木橋で、現在の橋は1956年に架け替えられた橋です。永久橋化(鉄筋コンクリート、石材、鋼材などでつくられた耐用年限が恒久的な橋)され、大阪市電廃線までは、電車と自動車が同じ橋の上を走る橋の併用軌道橋でしたが、廃線後は、自動車・自転車通行用となりました。
▲大日本塗料株式会社(DNT)本社 ▲六軒屋川の共同荷揚場跡碑
そのすぐ横が大日本塗料株式会社(DNT)本社です。島津源蔵氏の長男・島津梅治郎が、1929年に鉛粉塗料株式会社を設立。1936年現社名へ変更。「ズボイド」と呼ばれる鉛粉錆止塗料を開発し、日本海軍の新造艦全てに採用される実績を挙げました。1945年6月の大阪大空襲で本社機能および工場が全焼しましたがいまでは、日本国内第3位の総合塗料メーカーに成長しています。(ちなみに東京のスカイツリーの塗料はDNT製と社員が自慢をしておりました)
▲六軒家川堤防壁画・人型壁画 昇陽中学校の1期生が制作
橋を渡りすぐ右折すると堤防の殺風景なコンクリート壁にスケールの大きなアートが目に入ります。
六軒家川堤防壁画・人型壁画です。「このはなアートプロジェクト」の一環として2009年に昇陽中学校の1期生が製作したものです。1期生の作品は校庭の桜の葉をモチーフにした陶板を作り、学校の窯で焼き上げ、それらを生徒一人一人の人型になる ように貼り付けています。2期生、3期生と伝統は受け継がれ通行する人々に癒しを与えてくれます。
▲水防碑 ▲波除地蔵尊
大日本塗料の前の信号を渡り消防署横の水防碑を見て通り次の角を左折すると「波除地蔵尊」があります。
波除地蔵尊と書かれた木板がありこのあたりは昔から津波や洪水などの水の被害が多かったことを思わせます。 
隣にあるのが西九条公園です。1919年開園。此花区内で最初に設置された公園です。大阪市内でも有数の梅の名所で、10数種、100本を超える梅の木が植えられ、地元の人々に愛されています。 
 ▲大阪暁明館病院(旧北市民病院)と玄関横の忠魂碑、西九条公園  
鴻池組が着工し昭和15年(1940)竣工・開院。戦時下での空襲被害者の救援に活躍しました。終戦直後はチフス大流行のため伝染病院として機能。戦後は公害・職業病センターとして貢献しました。しかし建物の老朽化・耐震化の問題に加え、慢性的な赤字経営のために、平成22年(2010)3月に閉院。民間医療機関に譲渡され、新病院開院を目指しています
暁明館病院から再び大きな交差点へと戻り左折して市バスの停留所「西九条」から福島方面に歩くとJR大阪環状線の高架が見える少し手前に「グーテ・ド・アナトール」があります。
▲グーテ・ド・アナトール
平成14年(2002)3月にオープンしたケーキ店。お店の名前は仏語で「アナトールのおやつ」を意味します。食品添加物はほとんど使わず、ケーキ類、クッキーとも新鮮さにこだわり、その日に作ったものしか店頭には並べません。数多くのメディアにも取り上げられている名店です。
ケーキ屋さんの前の信号を渡り右折して西の方向に歩くとライブカフェ マーシー・オーガモンが有ったのですが閉店となっていました。ウッドベース演奏者のマスターが「気軽にジャズライブを楽しんでもらおう」と平成18年(2006)5月オープン。月10回程度開催されるジャズライブでは、地元のジャズ好きが集まり、ジャズの生演奏を楽しみ、ジャズファンの交流場所となっていたようです。残念ですね。
左折してさらに歩いていくと阪神電車の駅下にお地蔵様が祀られています。
▲火伏地蔵尊
火伏地蔵尊です。西九条には12尊の地蔵様があり、毎年8月23日前後に地蔵盆が開催されます。火伏地蔵尊は、 西九条にある地蔵尊のなかで、一番大きい地蔵尊です。縁起によると、延宝年間(1673~ 1681)に施工された河川改修工事の際、芦分(現在の野田・鷺洲あたり)から出土したそうです。 その後の開発により、地蔵尊の位置が数回移転。現在の御堂は、昭和43年(1968)に建てられ、 以来、ここで安置されています。
今回はここがゴールになります。市バス西九条バス停 JR大阪環状線・西九条駅 阪神なんば線・西九条駅が最寄りの公共交通機関になります。
  
 
 文:美智子姫