2011
 萱小屋〜檜峠〜伯母子岳〜三浦〜三浦峠〜西中
予定外の宿泊先「萱小屋」を出発するにあたり、使ったものを元通りにしていきます。当然のことながら、火の始末には念を入れます。荷づくりをして出発したのが午前6時10分です。 今日は良い天気の様です。昨日萱小屋に泊まるために引き返した急な登り坂を一気に桧峠まで、2qの急傾斜を駆け登っていきます。
杉木立の中の単調な道は古道と言うよりは植林道。
尾根の途中から左手の谷に雲海が広がっているのが木立越しに見えます。雲海はいつ見ても神秘的なものを感じます。
木立の間から見え隠れする山を伯母子岳だと思いながら登っていきます。「あの山まで随分あるなあ」と思いながらも、昨日の疲れが取れ足取りも快調です。
桧峠まではほとんどが登りですが峠を過ぎると等高線沿いの道に変わっていきます。この辺りで気がついたのですが登りで右手に見えていた山は伯母子岳ではなく夏虫山でした。伯母子岳はまだまだ遠そうです。
しばらく歩くと二日目にして初めて登山者とすれ違います。単独行者のようです。ジョンは単独での登山を好まないため 「おはようございます」 と挨拶だけしてのすれ違いです。昨日は伯母子峠の小屋に泊まられたのでしょう。私たちがここまで来られていたらたぶん一緒に泊まることになっていたでしょう。
昨夜は萱小屋で良かったと感じました。 
▲ 檜峠に到着です  ▲伯母子岳直下の伯母子岳避難小屋分岐です
 ▲8時00分 伯母子岳山頂到着です
 伯母子岳の頂上でデンの記撮影会…3人とは寂しいなあ
萱小屋から伯母子岳までは6q足らず。 休憩も取らずに一気に上ってきましたが、元気に到着することができました。山頂は見晴らしが良いものの思いのほか風が強く、
「北の風、風力3」というところでしょうか。たっているのがやっとで、レーションを頬張る気にもなれず記念写真を撮って、ほうほうのていで小屋を目指します。
山頂から小屋までの間は急な下り坂、そのうえ粘土質、歩きにくいことこのうえなし、滑る滑る、下りの坂で何箇所も新しいスリップ痕がみられ、「先ほどすれ違った登山者のものかも知れんね」 そういいながら下っていきます。こんな所で滑ったら、まずズボンはドロドロです。
15分ほど下って小屋に到着。本来なら、この小屋で泊まるはずでした。中を拝見したら、りっぱな大きな小屋で別棟にはトイレもありました。しかし囲炉裏や薪はなく「萱小屋で泊まって正解やったね」とお互いがささやきました。トイレを済ませ出発です。
▲伯母子岳避難小屋
▲三浦方面への標識 ▲道はかなり荒れていました
▲上西家跡 ▲水ケ元茶屋跡
ここからは急な傾斜を三田谷へと下ります。途中危険箇所が数箇所あり、恐い思いをします。谷を塞ぐ残雪のトラバースは僅かな距離でも大変です。また岩壁にへばりついた道は踏み外せばこの世との別れになるほどです。本道が危険と感じたら迂回路を通ってくださいの看板あり、注意が必要な登山道でした。
痩せ尾根を下り、熊野古道の宿場であった上西家跡、茶店で一休みしたであろう「水ケ元茶屋跡」、「待平屋敷跡」などを通過しつつ、九十九折の急な下りを必死で降りて行くとやっと「五百瀬」の集落の屋根が見えてきました。ところどころ展望の良いところもありますが細い木々が邪魔をして「ビュースポット」と言うほどではありませんでした。しかし十津川の曲がりくねった美しい流れは集落の中を右や左に水墨画の様に描かれていました。
 ▲待平屋敷跡  ▲三田谷登山口
▲神納川の流れ ▲腰抜田
 腰抜田
 南北朝の頃、大塔宮護良親王は北朝方の手を逃れ、一時十津川郷に難を避けられ五百瀬を通過されようとした時、五百瀬の荘司[しょうじ]に行手をさえぎられた。
壮司は宮の通行を認める代りに「家来か錦の御旗を置いて行け」と要求した。
宮は大事な家来を置いていくわけにはいかないと、止むなく錦の御旗を置いて通行を許された。暫くして宮の一行に遅れた家来の村上彦四郎が荘司の館[やかた]を通りかかり、錦の御旗のあるのを見付け、大いに怒り、壮司の家来を水田の中に投げとばし、錦の御旗を奪い返して宮の後を追った。
その時、投げとばされた家来が、腰を抜かしたのでその田を腰抜田[こしぬけだ]というようになったという。
腰抜田は明治の大水害によって埋没し、現在は歴史を秘めたまま川底にねむっている。
 三田谷から三浦口に向かう途中に「五百瀬」の集落があります。この集落の道路で寝そべる一匹の犬が、我が道だと言わんばかりに吠えまくりました。
この「コロ」と言う犬とは一緒に三浦峠を登ることになったのですが詳しい物語は写真とともに別編でお伝えします。「そんな話、うそでしょ!」と言われないために、しっかり写真を撮ってきました。コロの話は「別編コロ物語」をご覧下さい。
▲名犬コロ ▲三浦峠口 ▲五百瀬の船渡橋
三浦峠に登る前に自動販売機を見つけジュースで喉を潤し、不思議な出会いの一匹の犬と一緒に「三十丁の水」と言う給水場所までゆっくりと登ることにしましたが思うように足が進みません。
昨日の疲れが残っている様子です。「そんなこと関係ないわ」って言う感じでポチとコロは姿が見えないくらい先を歩いています。「三十丁の水」まで先に到着したポチとコロはリュックを降ろし迎えに戻ってくれました。ポチにリュックを預けるのですが急に軽くなったせいか、体が宙に浮いた感じがして空身になっても思うように前に進めません。わずかな間でしたが、どうにかこうにか水場に到着することができました。
 ▲五百瀬の船渡橋
▲かつて三浦集落の有ったところ
▲吉村家跡防風林 
 ▲三浦峠
やっとのことで「三十丁の水」に到着し、谷からチョロチョロと流れ落ちる雫の様な水を気が遠くなるほどの長い時間をかけて5gのポリタンクがやっと満タンになりました。更に重くなったリュックを背負い、三浦峠にむけて一歩また一歩進んで行くことにしました。
姫が「先に行ってていいよ。自分のペースで行くからね」「じゃあ先に行くぞ!」そう言いながらもジョンは、九十九折の道から「お〜い頑張れよ〜もうじきや」山の「もうすぐ」は当てになりません。
苦しい急な登りの向こうに、やっと峠らしい景色が見えてきました。ポチとコロが先に到着しており、東屋らしき屋根が見えてきました。「今夜はここでテントを張ろう」ここから昴の里まで行くのは無理です。

無理はしないで三浦峠の東屋の中にテントを張る事にしました。東屋の周囲には金網が張ってあり、三十丁の水場で汲んだ5gほどの水はキャップの締め方が悪かったために水漏れし、ザックの中はボトボト、幸いにして寝袋や着替えは防水袋に入れていたため難を逃れたが、その他濡れた荷物を干すのに格好の場所です。近くで工事をしている様子ですが今日は日曜日のためお休みの様で人っ子ひとり通る様子はありません。

昼夜兼用の食事の用意をしながら、コロに何か餌を考えなければなりません。ジャコとナッツがあったので手の平に乗せてみると美味しそうに食べてくれました。「よぉ登ってきたなぁ」 ねぎらいの言葉も自然に出てきてコロを見ているだけで私達の疲れを癒してくれました。
今夜は野菜タップリのラーメンと赤飯、サバの味噌煮です。私達の食事よりもコロが優先ではありますが人間の居場所に入ってくるでなく、じっとお行儀よく待っています。きっと躾がよく行き届いているのでしょうね。

夕食が済み、東屋の中にテントを張り話題は犬のコロの話で盛り上がりました。暗くなっても家に帰れるのだろうかと心配しつつ眠りにつきました。
熊野古道・小辺路も、平安時代よりの熊野信仰に人々が行きかい1200年の時を刻むわけだが、その歴史の過程に、今一つ興味深い話がある。
明治22年8月、奈良県吉野郡一帯をとてつもない豪雨が襲い、村が壊滅するほどの大水害となった。十津川村も村ごと流される大被害に遭った。
そこで、新たな生活の地を求めて600戸2489人が北海道への移住を決断、現・新十津川町への発展を成し遂げた話は有名である。(川村たかし著『新十津川物語』)
故郷を余儀なく離れる苦汁に後ろ髪を引かれながら、神戸へと向かい海路北海道を目指したというのだが、その時歩いた道が、この小辺路というわけである。三浦峠を越すにあたってはお年寄りは若者の背に追われながら越えていったようである。
文:美智子