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清荒神参道のお店でランチ |
新春初歩きは恒例の中山寺参拝の後、奥の院まで登り下りは清荒神に参拝と決めていました。目をつぶっていても歩ける馴染みのコース2025です。ゴール後は新年会と称したランチ会場も予約済みとなっています。
ところが姫が年末から膝を痛めて整形外科に通院中のため奥の院まで行けそうもありません。残念ながらメンバーの皆さんと速度を共に歩く自信はありません。そんな状態ではないのです。取り敢えず前もって知らせずに集合場所へ行き新年の挨拶を済ませ、そこで初めて事情を説明しゴールを待つことを説明させてもらいました。軟弱隊長のポッチーも同行しているのでそこら辺をブラプラ散歩して時間を潰そうと思っておりました。
ところが何と姫だけでなくもうひとりも足の調子が悪く奥の院までは無理だとの事、ならば健脚組と軟弱組に分かれてコース別々に歩くのはどうかと提案しました。しかし我が倶楽部は、いかなる時も行動を共にして別行動はあまりしたことがなく平地歩きに切り替えることにしました(健脚組の皆さんには申し訳ない事をしました) |
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▲ 中山寺 絵馬堂▲ |
▲ 墓所を通って巡礼街道に向かいます▲ |
▲ 五重塔をバックに参拝記念▲ |
中山寺から清荒神までの「巡礼街道」をみんなで散歩することにしました。ポッチーも久々の参加ですが今の私より歩けると思います。巡礼街道はアップダウンがないと聞いていましたが(そうでもなかったぁ) |
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▲市杵島姫神社▲ |
聖徳太子が建立したと言われる中山寺の守護として、弁財天を祀ったのが始まり。その後、焼失しましたが、豊臣秀頼により再建されています。明治の神仏分離政策により、中山寺との関係性が無くなりました。鳥居の新調とともに、役目を終えた旧鳥居が境内に保存されています。歴史を綿々と紡いできた人たちの思いに触れた気がします |
▲中山荘園古墳▲ |
中山寺には「中山荘園古墳」もあり去年も訪れているのですが靖ちゃんが初めてのため立ち寄ることにしました。「古墳」と聞いて、大仙古墳のような大きい古墳と思っていましたが思っている大きさよりも小さい古墳です。小さな古墳ではありますが初めて見つかった多角形の古墳が宝塚市にあったことが驚きです。発掘当時の古墳は、泥棒により荒らされていたそうです。荒らされていた理由は、古墳の中には価値の高い三種の神器である、剣、勾玉、鏡に似ている物が入っていたため荒らされたと考えられています。
中山荘園古墳は昭和57(1982)年に発見されました。発掘調査で古墳のまわりを石列が八角形にめぐり、南側には、お祀りをしたと思われる施設があることがわかりました。
この古墳は飛鳥時代(7世紀中ごろ)に築かれたと考えられています。
当時の天皇陵とも共通する八角形の墳丘で、全体の形が明らかな数少ないものとして、古墳の変化を研究する上で大変重要であり、国の史跡に指定されています。 |
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洗礼者ヨハネから、再び信じるということを学びましょう。わたしたちが共に暮らす家である、搾取され傷ついた地球への希望、すべての人間にとっての希望は、神が言われる違いの中にあります。
神が基準とされる偉大さは普通のものとは異なります。イエスの中に輝き、わたしたちに奉仕と兄弟愛を求め、自分たちの小ささを認めさせる、この神の独創性から再び出発しましょう。 そして、小さき人々を見つめ、彼らに耳を傾け、彼らの声となりましょう。これが新たな始まり、わたしたちの聖年なのです。
(2025 .1月11日 教皇フランシスコ) とHPに記されています。 |
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売布神社に到着です。
売布神社へは急な石段77段あるそうです。姫とポッチーは日当たりの良い場所で甲羅干しをすることにしました。売布神社の境内はどんな感じだったのでしょうか。 |
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▲売布神社▲ |
推古天皇18年(610年)の創建と伝える。下照姫神は当地の里人が飢えと寒さで困窮しているのを愁い、稲を植え麻を紡ぎ布を織ることを教え、その後豊かになった里人が下照姫神を祀ったという伝承が残る。米谷村の由来もこの伝承にちなみ、米種(まいたね)か売布谷(めふたに)が転訛したといわれている。
平安時代の延喜式神名帳では小社に列格している。
中世以降、貴布禰神社や貴布禰明神(貴船大明神)と称していたが、元文元年(1736年)、寺社奉行大岡忠相より地誌編纂を命じられた並河誠所の調査によって当社が式内社の売布神社に比定され、以降は売布神社と称するようになった。 |
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八阪神社(やさかじんじゃ)は兵庫県宝塚市平井にある神社である。 旧川辺郡平井村の村社。 例祭はだんじり祭が行われる。
祭神は素盞嗚命(すさのおのみこと)で、白山姫命を合祀した。
10世紀初頭、当地は源満仲一族の荘園で、同時期に勧請されたと伝えられる[1]が、摂陽群談では宝徳元年(1449年)建立とある。
素盞嗚神社と同様、江戸時代までは牛頭天王を祭神として牛頭天王社と号していた。
明治2年(1869年)、廃仏毀釈により祭神名を素盞嗚命へ改め、社名を八阪神社に改称した。
昭和41年(1966年)に白山姫神社(旧:山王権現社)を神社合祀して現在に至る。 |
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▲三角池 ▲
小さな池でしたが、鯉やカルガモ、アオサギもいました |
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▲巡礼街道▲ |
かなりのスピードで走ってくる車道を横切ったり、傾斜のきつい坂もありましたが所々に優しいベンチが設置されていてドッコイショと休憩ばかりしていました。そのうち清荒神一の鳥居に到着です。 |
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▲清荒神さん一の鳥居▲ |
清荒神清澄寺(きよしこうじんせいちょうじ)は、兵庫県宝塚市にある真言三宝宗の大本山の寺院。山号は蓬莱山。本尊は大日如来。しかし、境内には三宝荒神社もあってこちらの方が著名である。神仏習合の形態が色濃く残っており、このことから「清荒神清澄寺」と呼ばれている。境内には鉄斎美術館がある。
近隣地域では、「荒神さん」と呼び慣わされ、かまど神の一種として、ここで受け取ったお札を台所の神棚に祀るなどの信仰が根付いている。門前の緩やかな坂道には、屋台を含め200近い店舗が軒を並べて門前市を形成している。
極道から弁護士になったことで話題になった大平光代の更生のきっかけとなった寺としても有名。大平は初めて訪れた日から17年間毎日通ったという。 |
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▲清荒神参道入口のお店でランチを頂きました▲ |
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▲本日のリーダーにお礼を申し上げて▲ |
▲解散です▲ |
宝塚には名前の通りお宝があちこちにありオドロキです。宝があり塚があり あっそっかあ それで宝塚かあ 納得の巡礼街道でした。 |
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(おわりに) |
止む得ないドタキャンや膝の痛みで歩けない等、新春初歩きに影を落としてしまいました。春から縁起が悪いスタートではありました。中山寺でしっかりと祈願してきましたので2025年良い幕開けとなることでしょう。 |
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